三章 騎士たちの酒宴

「やはり、夫婦別室で寝るのはどうかと思うんですよ。どうせだから同じ寝台で寝れば良いのに」

 なみなみと酒を注いだ盃を片手に、赤い頬のトランが言う。そんなトランを呆れたような顔で見ながら、素面のライリオンが「トラン、どれだけ飲んだ?」とたずねた。

「さほど飲んでませんよ、まあ一升ほどですかね」

 そんな二人の幹部の近くに座るのは、ジンとマルタを含む赤旗の面子と、騎士団長たちである。グレイルといえば、意外にも、トランの言葉に賛成して二度も頷いている。

 桃旗の騎士団長、ユリアがおおっぴらに嫌な顔をしているのもほうって、男たちの会話に花が咲いていく。

「そうですよ、ライリオン様。俺も常々思っていました。夫婦になられて、もう半年程経つでしょう? それなのにいまだ別室というのは、どうかと思います、俺」

「マルタ、お前は絡み酒をやめろ」

 幹部からはすこし遠い席ではあるものの、それでも円になって座っている中にはいっているマルタの言葉に、マルタの隣に座っているジンが眉をひそめた。

 ジンはあまり酒が進んでいない。ずっと酒のさかなばかり突いていたおかげか、彼もまた素面であった。

 ライリオンと違うのは、ライリオンの場合はざるで、ジンは下戸げこだということだろうか。下戸というより酒を嫌っている様子のジンに、マルタが酒を進めている。

「ジン様、また飲んでいない! つまらなくないですか? 酒もうまいですよ」

「俺は酒が嫌いだと何度言えばわかるんだ……」

「ジンに酒をすすめるのは良いが、そいつ、多分二日酔いになるまで飲むようになるぞ。なに、俺が覚醒めざめさせてやっても良いがな」

 そう軽口をたたくトランは、酒の力もあって嫌に上機嫌である。そんな彼に、グレイルが「トラン。よしておけ」と声をかける。

「なんだよグレイル、お前だって、ジンが酒を浴びるさまを見たいだろう?」

「私はそんなに悪趣味ではなくてな……トラン、話を戻してくれ。私もその件について、とても気になっていた。ライリオン様、無礼と存じ上げてはおりますが……、奥方様とねやを共にしても良いのではないでしょうか?」

 グレイルが、深刻な表情でそう重々しく提案すると、ライリオンは一瞬目を丸くして、それから大声で笑い飛ばした。くっくっと喉を鳴らして笑い「まあ、まだ早いのではないか?」

「早いということはないでしょう」

 ジンが、ライリオンにまっすぐ視線を投げる。場が一瞬しんと静まった。だが、それからはじけるようにトランが笑い、それにマルタが続く。

「はは、そうですよ、ライリオン様。奥方様も、意外と待っているのではと俺は思いますが、ね」

「待っているかはわかりませんが、ジン様の言うことももっともだと思います! 夫婦なんだから、閨も共にしないのではあまりにも奥方様が可哀そうでしょう。だから花街の件でも……」

「マルタ」

「あ、すみません」

 ジンが一言、そう名を呼んでマルタをとがめると、マルタは素直に口をつぐんだ。

「なんだ? 花街?」と繰り返すグレイルや、周りの騎士たちのなかで、唯一、魔術で見張っていたために、ほとんど見知りしているトランと、その当人であったライリオンだけがしらっと酒をあおっている。

「俺もマルタと同意見です、ライリオン様。奥方様はいまのままではあまりに可哀そうだ」

 あまりにも真剣にジンが言うものだから、円になって酒を飲み、いままで黙って聞いていたほかの赤旗の騎士たちは、ローディアの心中を知っている者はジンの保護者のような態度を憐れみ、知らないものは「そうだ、そうだ」と口をそろえてはやしたてた。

「まあ……考えてみよう」

 そう呟いたかと思うと、ライリオンはぱちんと両手を打った。はっきりとした響く声で一喝するように言う。

「さあ、ほかの話をしよう」

「両手に花とはこのことだな」

「メリエル様、お酒を頂かなくて良いのかしら」

「良いのよ、気にしないで、ローディア様。この人は酒があまり得意ではないのよ」

 ローディアとアルバ、そしてメリエルという奇妙な組み合わせで、こちらはローディアとライリオンの部屋で菓子を広げ、くつろいでいた。

「まだ酒を飲めないから」という理由で、騎士たちの宴から締め出しを食らったローディアが、行き場をなくし誰もいない修練所でぼんやりとしていたものだから、偶然通りかかったメリエルが「こちらはこちらで宴会をしよう」とアルバも誘って言い出したのだ。

 宴会には二つ返事で了承したくせに「あなたもいるの?」と眉間に皺を寄せたアルバを引っぱってきて、この部屋にやってきたメリエルは「両手に花、両手に花」と言って茶を飲んでいる。

 メリエルがそんな様子であったからこそ、ローディアも寛いでいるのだが、アルバはメリエルにどこか苛立っていた。彼女から言わせれば、メリエルは「邪魔者」である。しかし内輪の会が楽しいようで、わざわざ空気を壊さないでいる様子である。

「兄上も酷いことをする。まさか聖女様を一人にするなんてなあ」

 メリエルの言葉に、ローディアは深く頷いた。メリエルの隣を陣取ったシアンが尾を振って菓子を催促しており、そんなシアンにメリエルは自分がつままんだ残りを少量ずつめぐんでやっている。

 一人とはいっても、ローディアには、マルタとジンの代わりに桃旗の騎士がついていたのだから、厳密にいえば「ひとり」ではない。しかし宴の面子から外され、不貞腐れて行った修練所には誰もいないとくれば、ローディアがすっかり拗ねてしまうのも道理である。

 そんな三人に、桃旗の女騎士たちが、どうにも我慢ができずに参加する。

「そうですよ! ライリオン様は酷いです。奥様を一人にして自分は宴だなどと」

「奥様、少しは言わないとだめだと思いますよ。なんでもかんでも、はい、はいと肯定していては、ライリオン様が駄目になってしまいます。女というものは、殿方を尻にひくくらいの気骨を持たねば」

「これはこれは、桃旗たちはさすがに恐ろしいな」

 桃旗の騎士であるリュズとマルグリットの言葉を、ローディアは真剣にきいている。

 女たちの様子にメリエルが苦笑すれば、アルバがそんなメリエルに鼻を鳴らした。

「そう、尻に引いてしまえばいいと何度も言っているのよ、ねえ、ローディア様? ライリオン様も少し考えなしのところがあるから。本当に、この国の王子たちはだらしがない」

「耳が痛いな。兄上はまともな部類だけどなあ。真面目過ぎるくらいだぞ、アルバ?」

「どこが真面目なの? 花街にはいく、酒宴だといって妻を一人置いていく、寝室は別。甲斐性なしも良いところじゃないの」

「甲斐性は確かに俺の方があるな。それにしても兄上が花街か、その件については俺も驚いたよ。まさかあの堅物すぎる兄上がなあ」

「甲斐性があるですって? 誰が、一体いつ?」

「これはこれは手厳しいな、わが妃は……」

 困ったな、とでも言わんばかりに両手を広げ、メリエルは降参する。女たちは冷ややかだ。

「メリエル様ほど、軽率な殿方もいませんものね」

「ここの騎士たちは、本当に俺に対して遠慮というものがない」

「ここの騎士たちは、ではなく、我ら桃旗はそも殿方に厳しくするよう団長に言われているのです。そうでなければ、この女卑の世界を生きていけませんからね」

「女卑とはいえ、この国の王子たちは好きものが多いんだぜ? 君たちのような花ならば、後宮に入ることだってできよう」

「そういうところが嫌なのです、メリエル様」

「そうですよ。下品にも程があります」

 女が揃ってしまうとこの王子も弱いらしく、眉をハの字にしていよいよ負けを認めてしまう。ローディアが腹を抱えて笑った。

「……それで……なのだけれど。ライリオン様、やはり失礼なことをしているわよね? なにを、と具体的に言えなかったから、私もいままで黙っていたけれど」

「失礼と言うか、まさに甲斐性なしってところですね。男としてあるまじき姿です」

「ライリオン様に、もう少し意識してもらわないといけません、奥様。もしかして、失礼なのですが、ライリオン様は奥様のことを子どもだと思っていらっしゃるのでは?」

「それは……どうかしら」

 騎士たちの言葉に、ローディアはしばし考える。

 言われてみれば確かに子どものような扱いをされているような気もするが、それにしてはちゃんと妻として扱われているように感じるときもある。どっちつかずというほどでもないし、かといって完全に子ども扱いだということなく、しかしやはりなんとなしに失礼だと思うことも確かにあるのだ。

「兄上も可哀そうに。女性が固まるとこんなに言われるんだな」

「ライリオン様は、桃旗の下級兵たちには人気がありますよ」

「上の者たちにはどうなんだ?」

「皆、現実が見えていますね」

 しらっとそう下級兵たちのことを話すリュズに追従して、マルグリットが言う。

 メリエルは「くわばら、くわばら」と呟いて菓子をひとつ口に含んだ。

「全く、桃旗の女たちは本当に気が強いな」

「メリエル様には人よりいささか当たり強めにしているんですよ?」

「なんでだ、あまりにもひどくないか? それは……」

「トラン様と同じ臭いがするからでしょうか」

 トランの名を出したマルグリットに、メリエルは腹を抱える。

「トランか! そりゃあ良い……って、それはちょっと俺に失礼だぞ」

「申し訳ありません、殿下」

「こんな時ばかり殿下と呼ぶのか。全く、まあいい、いつものことだからな……さて、俺はここらへんで失礼するよ」

 そう言って、本当にさっさと席を立ってしまったメリエルを、ちらりとも追いかけないアルバに、ローディアが訊ねる。

「メリエル様、どちらに行ってしまったのかしら」

「さあ。お気に入りの娼婦のところよ、きっと。ミーシャとかいう娼婦をいたく気に入ってるようなの、あの人。桃色の髪をしているんだって、マリア様から奪ったらしくて」

「桃色の髪?」

「そうらしいわよ、まあそれはあの人からきいたのではなくて噂話でだけれど。ほら、マリア様は女の髪にこだわる性質でしょう。だからその娼婦も、桃色の髪が気に入ってそばに置いていたら、気づいたらメリエルにとられていたんですって。リディア様もお可哀そうに。本当にこの国の王子はだらしがない」

「リディア様というのは、マリア様の正室の?」

 ローディアが問うと、アルバは歌うようにささやいた。

「そうよ、リディア・ノージー=バースキン……」

「リディア様もご苦労なさっていますものね。マリア様といえば、きれいな髪の女性ばかり、何人も相手になさっていたかと思えば、突然その得体の知れない娼婦のところに通い詰めになって……挙句」

 声を低めてリュズが言った言葉に、マルグリットが返す。

「私たち、口が過ぎて処刑されそうね」

「処刑人は我ら桃旗騎士団が管轄だから。まあなんとかなるわ」

「たしかに」

 くすくす忍び笑う騎士たちに、アルバも笑う。時間が深夜になってきたこともあって、ローディアはうつらうつらと船をこぎだしていた。

 マルグリットが、ローディアの肩に毛布を掛ける。その重みに潰れた目を開けて、ローディアがマルグリットの優しい顔を肩越しに見上げた。

 マルグリットはいままで男たちの悪口を言っていた意地の悪い顔ではなく、とても優しい、血のつながった実姉のような顔をしていた。

「おやすみになられますか、奥様」

「ええ……いいかしら」

「どうぞ。こんな時間ですものね。よろしいでしょうか、アルバ様」

「いいわよ。それじゃあ私もおいとまするわ」

 マルグリットが有無を言わさない語気で言えば、アルバはさっと立ち上がった。

 アルバの背が室の外に消えてから、マルグリットがローディアを寝室に連れて行き、リュズが扉の前に立って警備を再開した。

 寝台に寝そべり掛け布団をかけてもらってから、ローディアはマルグリットに小声で呟く。

「マルグリット、ライリオン様はいつ戻ってくるかしら」

「こんな時刻ですからね、もうお戻りになると思います。奥様はゆっくりお休みください」

「うん……」

 ――花街にはいく、酒宴には妻を置いていく、寝室は別……

 アルバの言葉がよみがえって、ローディアは背中を丸めた。

「明日は同じ寝室で寝てみようかしら」という案は、眠気とともに意識の隅へ押し流されていったのだった。

「待ちなさい、シアン! そっちは……」

 シアンの小さな背中を追いかけ、ローディアは森の中を走っていた。

 ――シアンが闇雲にあちらこちら行っていたときはまだよかった、その方向は冗談にもならない

 シアンが駆けていく先にあるだろう建物と、今日自分の前に現れなかった彼がそこにいる気がして、ローディアは気が急いていた。

 ――早くあの犬を捕まえなければ!

 シアンが走る速度に、散歩しかしたことがないローディアがかなうはずもなく、息を切らせて懸命に追う。はたして、シアンが足を止めたのは、ローディアが危惧きぐしていた場所であった。

「もう……シアン……覚えていなさい」

 荒い呼吸をしながら言っても、彼はどこ吹く風であるどころか、やはりそこに立ちつくんでいたらしい彼の元へと駆けて行ってしまう。

「もしかして彼のにおいを辿ってきたのだろうか」と思えば、ますますシアンのことを憎らしく思ってしまうのだ。

「シアン? どうしてここに」

 夢から覚めたような顔で、自分の足に縋りつくシアンを見やって、彼――ジンはそうまばたきした。

「シアンがいるということは」とジンが視線を上げれば、その飼い主と目が合う。

 飼い主であるローディアは、居心地が悪そうに身じろぎした。

「ジン、あの、ごめんなさい。来るつもりはなかったの……」

「いえ」

 そう短く答えて、ジンはシアンを抱き上げる。シアンが慣れ親しんだジンの鼻を舐めたので「こら、やめろ」とジンが笑った。

 ジンがこうやって屈託なく笑うのは、シアンといるときだけであることを知っているローディアは、なぜか見てはいけないものを見た気がして目をそらした。

 ぱたりと尾を一度振ってから、シアンはジンの手から逃れて再び走り出す。

「どこにいくのだろう」とローディアが目で追いかけたが、彼が駆けていく方向に礼拝堂の入り口があることに気が付き、いよいよローディアは顔面を蒼白にした。

「待ちなさ……シアン!」

 彼の名を鋭く呼んだ時には、シアンは扉を何度も引っ掻いて、中に入ろうとしていた。鼻を押し付けて戸を開こうとするものだから、ローディアは慌ててやめさせようとシアンのもとへ駆けていく。その時だった。扉がゆっくり開いたのである。

 ローディアは驚いて、ついそちらを見てしまう。中から現れたのは、金髪を丸い宝石のような髪飾りで止めた、翡翠の目の少女だった。齢十五――彼女はこの城に来てから一歳年を取っていた――にしては幼いその面立ちに、ああやはりこの人は、とローディアは胸が苦しくなる。

「みこさま」とジンが震える声で呟いたのが聴こえて、ローディアはジンの顔を見る。

 祈師と呼ばれた少女の姿は、ジンにとって、もう見られないものであり、自身にその価値がないのだと諦めたものであった。しかし胸にいつも宿って、ジンを苦しめてきたものだ。

 会いたいと会えないの境目にいつもあって、物理的なものよりも、自分にその立場がもうないということをジンはよくよく知っていた。

 しかしジンの前に現実のものとして突如現れた祈師は、昔のように微笑んで、澄んだ声で言うのだった。

「ジン、久しぶりね」

「……っ」

 ジンは棒立ちになって、それ以上声が出ない様子である。

「祈師様」と唇が動くのに、声は掠れて届かず消えてしまう。祈師は本当に、久方ぶりに会う友人のそれで「ねえジン、私、ずっと気になっていたのよ。ジンのお友達は元気かしら? あのとき、ジンのお願いをきいてあげられなくて、本当にごめんなさいね」

 彼女の声が夢うつつの響きを持っていることに、ジンもローディアもぞっと背筋を凍らせた。

 ――なにを言っているんだ

 ローディアと同じく、ジンも驚きに目を見開く。

 ローディアが姉を注視すると、以前は輝いていたはずの翡翠の姉の瞳に、暗いなにかが潜んでいるのがわかった。

 やるせないと思ってしまうのは、嫌いだと何度思っても変わりようのない、肉親としての情のせいだろうか。

「ローディアも、久しぶりだわ。嬉しい、やっと来てくれたのね。ここはあまり良いところではないんだけど、みんなとても優しいのよ。お友達もできて……」

「……お姉さま」

「? どうしたの、ローディア。お前がそんな怖い声を――」

 言葉の途中で、ローディアは無意識で姉を抱きしめていた。

 背中に回す腕に力を込めれば、その記憶より浮いてやせ細った背骨が痛くて悲しくなる。もうやめて、と呟いた声に力はなく、ローディアのその言葉に姉はわけがわからないとでも言いそうに首を傾げる。

「どうしたの? 甘えたいのね、久しぶりに会ったものね」

「――ジンもおいでなさいな。一緒に抱きしめてあげる! ねえカルカ――」

 懐かしいその名を呼んで、祈師が教会を振り向く。しかし教会の中はがらんとしており、誰一人いなかった。

 よく見れば祈師の足に、黒い鎖がじゃらりと繋がっており、それは長く床を這って、奥の十字架に巻き付けられている。それを見たローディアは、言葉を失った。

「おねえさま」とその名を呼んで、その鎖のことをきこうとしても、その勇気がでない。

「……あら、カルカったら、まだ出かけているのね」

 空ろな声に、いよいよジンがへなりとその場に座り込んだ。

 それは、自分の犯した罪を、まざまざと見せつけられている、まさに極刑に処されているような気分であった。

「いや、こんな苦しみを見せられ続ける刑であるのなら、首を刎ねられたほうがまだましだ」とさえ、ジンは思う。

 力なく祈師を見つめる。そんな資格はないと思うのに、ジンは涙を一筋流していた。

 ――申し訳ありません。祈師様

 ――そんな言葉を、自分がかけていいなどとは到底思えない。だけど、これではあまりにも残酷ではないか。祈師様は俺を恨み、カルカを亡くすどころか、いまだに幸せなあの時のまま止まっているだなんて!

「祈師様。あまり風に当たられると、お体を悪くします」

 教会の奥の部屋から現れた使いの老婆の声に、祈師はそちらを向く。そして「あら、そう……」とだけ呟いて、もうそこにはジンもローディアもいないかのように、あっさり礼拝堂に引き返し、その扉を閉めてしまった。

 もしかすれば、彼女の中、幸せな妄想の中で、こういうやり取りを幾度も行っていたのかもしれない。

 今回のこの再会も、彼女の中では白昼夢の話であって、こうして扉を閉めて「おしまい」な、ままごとのようなものだったのだろう。

 彼女の狂った様子に、ローディアは表情をこわばらせ、ジンは泣いていた。

 自分の好んだ二人の、尋常じゃないその様子に、いままで堂の裏で遊んでいたらしいシアンが戻ってきて鼻を鳴らす。

 それにやっと現実に揺り戻されて、ローディアはシアンを抱いてそっと踵を返した。

 ジンは依然そこに座り込んで、頭を地面につけ、土下座するような恰好でしのび泣いていた。

「奥方様、先ほどは申し訳ありませんでした」

 先にローディアが自室に戻ってから半刻ほどして、泣き腫れた目をしたジンが部屋にやってきて、こうべをたれた。ローディアは「いいのよ」と口の中で言い、ジンの手を握る。その手がいつも持っているはずの温もりが、いまはひやりと冷えて無くなってしまっていた。

「ジン」と彼の名を呼べば、滑稽なほど優しくジンが目元を細めてくれる。

 それが、ジンがいま心を弱らせている何よりもの証拠のようで、ローディアは泣きそうになった。

 沈黙が落ち、その数分の間のあと、口火を切ったのはジンだった。

「祈師様は、どうして……俺を憎まないで……」

「決まっているじゃない」

 ジンはいま、自分にでさえすがりつきたいのだろう、ということは、ローディアにも分かっていた。

 それでもあんな姉を見た後に、それを許すような気持ちが持てるほど、自分が優しくないことも、ローディアは知っていたのだった。

 だから、ローディアは自分でも驚くほどに冷ややかにジンに告げる。

「貴方を恨んでしまったら、あの人は本当にひとりになってしまうじゃない」

「――は……」

 ジンがはは、とかすれた声で笑ったのは、なぜだったのだろう。

 それからジンはローディアがふさいでいないほうの手で顔をおおい、再び体を震わせて静かに泣いた。

 そんなジンを抱きしめる気になれないでいる自分の感じていることが、なんであるのか。それはローディア自身が一番に理解している。

 それでも、彼女はジンが泣いている間ずっと、その手をにぎり続けていた。

 ジンが落ち着いてきたのを見て、ローディアはジンの顔を覗き込む。

 ――いましか訊けない

「ねえジン、ジンはどうしてあの人を裏切ったの?」

 その言葉に、ジンは顔を上げる。赤茶の目と視線が交わるのは、とても久方ぶりのことのような気がした。

「それは……」

「私利私欲の為かしら」

「王の命だったからです」

「本当に? いえ、本当のことでしょうね。それでも、私は不思議なの。勅命ならなんにでも従うような忠臣が、あんなに何度も姉と密会するかしら。本当のことを話して、ジン?」

 それは、ローディアがずっと疑問に思っていたことであった。

 マルタの話では、ジンは忠義を尽くす性質であって、それは「ちょっと危うい」ほどである。

 なのに、ジンはあの頃、王への一番の裏切りだというのに、祈師と親しくしていたのだ。

 そんな彼が突然祈師を裏切ったとあれば「なにもかもジンと王国側の策略の内で、そもそも祈師は利用されていただけだ」というのが筋である。それでもそれにしては、ジンのあの、祈師と再会した時の様子はあまりにもそぐわない。

 ジンは再びゆるゆると俯いて、消え入るような声でやっと話し出した。

「聖女様は、万病の森、と言われる森を知っていますか?」

「万病の森? それは……」

「俺の師が戦死したとき、師を連れて俺はその森に行ったのです。最後の望みを賭けてというより、ただ生きて欲しくて。生きて、俺が赤旗に入るまでは、と……それは俺の勝手な判断でした。その森について、俺はその願いをかなえるという十字架の前で祈りました。この人を生かしてくれ、そのためならなんでもすると」

「そうしたら」とまで言って、ジンは一度言葉を切った。涙が溢れてくるらしく、顔を片手で覆って鼻を啜る。

「そうしたら、その十字架は光りました。本当に眩しくて、恐ろしいほどの光だった……それは、祈師様が祈りをささげるときの光に、本当によく似ていた。

「気付くと、頭が重くて……私は倒れていたようでした。師を探すと、師はまだ眠るように死んでいて……ああやはり、こんなものは嘘だったのだ、迷信だったのだと思いました。でも、それから、俺はなぜか、俺の中に師がいるような気がするのです。師は王の命には決して逆らわず、それどころかそれを生きがいにしているような人でした。本当に、騎士の中の騎士だった。憧れていたけれど、そんな師の在り方には俺はなれないと思っていた。なのにそのあとすぐ、勅命が下ったというただそれだけで、俺は祈師様を……」

 ジンは言葉を詰まらせながら、必死でそんな話をする。

 ジンの声にはそこにある「真実」を知っている響きがあった。

「祈師様を裏切ったとき、なんてことをしたのだと思うより先に、師の声がしました。ジン、よくやった、それでこそ騎士だ、これで王もお前を許してくださると。私は恐怖しました。その声に恐れおののいたんです」

「ジン、ねえ、知っている? 絶対守護力……お姉さまの力はね、ものを転移させる力なの」

 ローディアの言葉に、ジンは顔を上げた。ジンは知っているようであったが、それでもローディアは言葉を続ける。

「それはね、物体にもまれに……宿ることがあるの。ジンはきっとそれを使ったのね。命を移そうとして……しかしそれができず、心だけ移した。その人が、ジンの願いを遮って、自分の命の代わりに心を移すことで、ジンを生かしてくれたのかもしれない……ジン、その願いが叶っていれば、ジンは今頃、その人に自分の命を渡してしまって、いまここにはいなかったわ」

「それは、俺が死んでいたと……ヘール様が、俺を守ったということですか」

 ジンの頭は冴えていた。酷い悲しみのあまりに、むしろ鋭敏になっていたのだろう。ローディアはそっと頷く。

「そう……きっとそうよ。お姉さまを裏切ったのは、ジンじゃなかったのね。その人の心が、きっとジンを突き動かしてしまったのよ……」

「はは……」

 ジンは再度震えるように笑って、今度こそ両手で顔を覆い隠す。小刻みに震えるその肩を抱いて「ジン、ジンはお姉さまを裏切っていなかったのね。裏切っていなかったのね……」

 たくましいはずのジンの肩が、子どものそれのようにぶるりと震える。

 いよいよ泣きじゃくるジンを抱きしめて、ローディアも一緒に泣いた。

 なにも察することなく、部屋に入ってしまったライリオンは、二人が自分に気づかずにいるあいだに部屋をそっと出た。

 音が鳴らないようにとびらを閉め、自分を追ってきたシアンを抱き上げて「俺が入ってしまったことは、内緒にしてくれよ」

 鼻を鳴らすシアンを足元に放して、ライリオンは腕を組み、扉を背もたれにして壁にもたれかかる。

「こんな感情が、あるんだな」

 足元に座ったシアンに目をやり、ライリオンはその青い目を細める。

「シアン。お前、このことも秘密にしてくれるだろうな?」

 そのライリオンの言葉の意味が分からなかったのか、シアンはふいと顔をそむけてどこかへ行ってしまう。小さなその姿が曲がり角の向こうへ消えるのを見届けて、ライリオンはそっと自室を離れた。

「ライリオン様らしくないですね」

「俺らしいよ。嫌になるくらい陰気でな」

 シアンが駆けて行った曲がり角を、ライリオンも曲がったところで、トランが柱の影から姿を現した。

 トランが騎士団のある西の塔を常から警備と称してみていることを知っているライリオンは、その出現に全く驚かない。

 当たり前のように返事をして、薄い自嘲を唇にのせる。

「ジンを叱りつけるわけにもいかないだろう。あんな風なところを見てしまっても、なにもできないのが情ではないのか」

「情かはわかりませんがね。ライリオン様が怖気づいたこともわかるし、まあ、貴方があの場にわりこんで、離れろだ、身分を弁えろだ、などと言うような人間であるとも、俺は思っていませんよ」

「それをしてしまったら、俺は何者でもなくなるだろう」

「何者でもなくなる以上に、奥方様が大切だとも考えたというところですかね」

「心を読むのはやめてくれ、まったく、お前は……」

 呆れたようなライリオンの声色に、羞恥が混ざっていることを、さといトランは気が付いていて、だからこそ口角を上げてにやりと下卑た笑いを浮かべ「申し訳ありません、これは癖のようなもので」

「ローディア様と事を進めるなら、今日にしたらどうでしょう? ねやも良いものですよ」

「……品がないな、お前は」

「呆れていらっしゃる? それでも、今日でなければお二人の心は離れてしまいそうだとも思ってしまって。下品ではなくお節介だと言ってください」

「なにがお節介だ、まったく」

 つい、ため息をついて、ライリオンはトランに背を向ける。トランは再び影に身を潜め、さっとその場から消えた。

 トランの気配がなくなったのを察して、ライリオンは再度深く息をつく。

「頭が痛いな」と心の底から一言呟いたのは、平時の彼ではありえないことであった。

 今日はいやに黄色いな、とライリオンは空をぼうっと見上げていた。

 潰れかける目を必死でこらえ、欠伸をかみ殺すのは初めてだった。

 トランに言われた昨日、そしてその夜、ライリオンは結局いつもの通り夫婦別室で眠りにつき、それに関して、ローディアも勿論なにも変わったところは見られなかった。いや、彼女が平常通りだったからこそ、ライリオンのほうもトランの忠言通りにできなかったのであるし、そういう流れで同衾どうきんしてしまうことに抵抗があった。

 あのときうずいた嫉妬心を抑えて眠るのは至難だったし、ローディアをつなぎ留めたいという思いはあっても、それ以上に彼女を大事にしたかった。

 だからこそライリオンはいままで彼女に対して――たとえそれが、最近になってやっと気が付いた感情だったとしても――「妻として大事にしたい」という意識があっても、年齢を考慮して「これはできない、してはいけない」と括り付けていたのだ。

 それが騎士たちで行った酒宴に彼女を連れて行かなかった理由であった。

 ――それを覆した理由が、他者からの言葉だというのはあまりにも

 ローディアのほうも、まだ幼いところが残っているのか、夫婦というものに対する意識が低いように思えるが、それをとがめる気には、ライリオンは、なれない。

 ――とがめたいとは思うこともあるが、そんなことをしても何の意味もない

 ――ローディアがジンを慕っているのは明白である。だが、それも年頃の娘子だと思えば自分だって、ついこの間まで、ローディアのことを意識して考えたことなどほとんどなかったのだ。

 ライリオンに「妻として大事にしよう」という決意はあっても、それはあくまで彼の思考の中のことであり、感情は伴わなかった。

 そんな自分がその思いに気が付いたからと、ローディアにまで自分をそんな風に思えと強要するのはあまりにも考えなしではないか、と、昨日の夜、散々考えたことを再び思い返して、ライリオンはうずく頭を抱えている。

「どうされたのですか、ライリオン様」

「いや、恥ずかしいのだが、昨日あまり……」

 ライリオンが言葉を切ったことに、話しかけたグレイルが首を傾げる。それから白い歯を見せて笑い「まあ、そんなこともありましょう。いかにも眠たい顔をしていては、騎士たちの士気しきにも影響します。今日は執務をこなされるとよろしいかと。まず仮眠をしてください」

「ありがたい、そうしよう」

 ライリオンはそう言ってゆっくり自室に戻る。

 部屋にはいつも通りシアンが居り、この犬らしく尻尾を振ってライリオンを迎えた。

 シアンとともに執務室に入り、立派な造りの机につけば、いつものようにその下にもぐりこんだシアンが、そこで丸まる。

 はあと太い息を吐いて、ライリオンは執務に取り掛かる。

 あらがえない眠気につい目を閉じれば、そのままライリオンは眠っていたようだった。

 目を開けると、肩と腰が凝っている。

「どうしてだ?」と状況を確認して「ああ、そのまま寝たのか」と情けない自分に、ライリオンは苦笑した。

 くすくす、とききなれた声が笑う。そちらを見やれば、渦中の妻がこちらを見て笑っていた。

「珍しい。そんなこともあるのですか」

「ああ……情けない話だが、昨日なかなか寝付けなくて」

「あら、なにか心配事でもありますの?」

「いや。心配事というか」

「ライリオン様も、ひとであったということですわね」と微笑むローディアに対して、ライリオンは愛しく目を細める。視線を少々落とすと、ローディアはその両手に毛布を抱えていた。ライリオンは彼女に「それは?」とたずねる。

 彼女は「それ?」と小首を傾げてから、自分の抱えているものを見て「ああ」とにっこり笑った。

「風邪をひいてはいけないと思って。でも、お目覚めならもういりませんわね」

「ありがとう。なあ、ローディア」

「なにかしら」

「一緒に昼寝しないか」

 ライリオンの言葉に、ローディアは「えっ?」と声を上げる。それから彼女はちょっと赤くなった後、すぐに笑みを取り戻して「いいですわ」

 ライリオンがそう誘ったのは、なんとなく、ではあったが、それを発言するのに、いささかばかりの勇気もいるものだった。

 ローディアはなにも知らずにライリオンの寝台に寝そべって、向こうを向いている。

 普段着のドレスを着替えていないから、皺になるかも、と言って照れたような表情を浮かべていた彼女を思い出し「本当にかわいい人だな」とライリオンは薄っすら思う。意識を手放すように目を閉じれば、眠りに誘われるのは一瞬だった。

 ライリオンの呼吸が規則正しいものに変わったのを知って、ローディアはやっとライリオンのほうを向いた。

 骨ばった大きな手に触れて、その体温に安堵する。

「この手は好きなもの」と思ってからすぐさまに、あの日の冷たいジンの手を思い出し、ローディアは罪悪感をおぼえた。

 ライリオンに対して「悪いことをした」という意識があるというわけではないが、今になってみれば、少しばかり反省するに値するような行為だったのでは、と考えてしまう。

 そう思うのはジンへの恋慕が、少々自身にあるからというのも否定できずに、ローディアは思考の波に漂っていく。

 祈師様、と呼ぶジンの声が、悲壮に満ちていたことを思い出す。

 男性が泣き崩れるさまを目の前でまざまざと見せられて、ローディアはいまだ気持ちが晴れなかった。ジンがなにを思ったかなんて全く知りようもないけれど、あのとき掠れた声で笑って、手で顔を覆いさめざめと泣いたジンの気持ちは、ローディアにも少し理解できる。

 隣で眠っているライリオンを見る。ふさがれた青い目が、常はきらめいていることを知っているからこそ、その白いまぶたが開くのを待ってしまうのだろう。

 ローディアは彼の手に触れる指先をその指に絡めて、身を寄せ、そして小さく呟いた。

「……貴方もきっと、最期のときは姉を呼ぶのね」

 ――祈師様、私に祝福を。とでも言うのだろうか。聖騎士たちがそうであったように、空を仰いで姉の名を叫ぶのだろうか?

 ――私の名を呼んで。最期の瞬間まで、貴方だけは、私を……

 それはローディアにとって、最上級に叶わない、思うだけ空しい願い事だった。

 彼女はその願いが叶うことを、いまだに知りえない。

「ライリオンは、自分にまったく興味がない」と思わない程度に、彼女は鈍ではなかったが、それでも、そうであったとしても彼が最期の瞬間に、ほかの騎士や聖騎士たちとおなじように「祈師様」と呟くだろうと思っていた。

「姉は神で、その生死も見守っている、というあの偶像崇拝を、彼もきっとしているのだろう」という勝手な確信だ。

 ――どうして私は、祈師ではなかったのだろう

 ――同じ血が流れている体なのに。同じ親を持ち、同じような外見なのに。それなのに私は神になれない。愛しい人に振り向いてもらうことさえないのだ

 ――ライリオンもきっと、姉を選ぶ。ジンも姉を選んでいる。それならば、私のこの感情はどこに行けばいい? 私はきっと、とても寂しい……

 おのれの気持ちにローディアが気付いたのは、ようやく、いま、この瞬間だった。

 恋人の隣に寝そべっているのに、それは急速にローディアを襲って胸を締め付ける。その気持ちをどうしていいのかもわからず、ローディアは固く目を瞑った。

 ライリオンの指に絡めた指先に力を込める。彼の瞳の蒼天が、不意にこちらを見た気がして、ローディアは目を開けた。

「どうした?」

 そのライリオンの優しい声色に、ローディアは一瞬視線をさまよわせた。

 それからそっと手を離そうとすれば、それを追うように今度はライリオンがローディアの手を絡めとる。

「なんだか、久しぶりによく眠れたな」

「それはよかったですわ」

 はにかんだローディアを見て、ライリオンは天井を向き、再び枕に頭を預ける。随分疲れているのね、とローディアもやっと目を閉じた。

 二人を包んだ眠気は心地よく、窓から差し込む柔らかな日差しを浴びて、セレンとシアンが起こすまで、夫婦はそうして睦まじく眠っていた。

 修練所で、ジンを眺めているローディアの横に立ち、マルタは口を開いた。

「ジン様、どこか変わりましたね」

「なんだろうなあ」とマルタは考え込んでいる。

「どこが、というわけではないんですけど……なんか元気になったというか、吹っ切れたみたいなところがありますよね」

 マルタの視線の先にもジンがおり、ジンはいままであった、どこか申し訳なさそうな表情ではなく、一人前の騎士の様子でグレイルと話している。

「いままでならば、グレイル様だけではなく、トラン様やメリエル様、ライリオン様などにも、自信のなさがありありと浮かんでいたのだが、いまのジン様はどこか違う」とマルタは言う。

「どこか違う」と言ってすぐ、マルタはにやけた顔したので、ローディアもそんなマルタに笑って「嬉しいの、マルタ?」

「勿論ですよ! ジン様が英雄らしくなればいいって、俺は常々思っていたんです」

「英雄らしくなかったものね」

 ふと、グレイルがなにか軽口を言ったのか、ジンが薄っすら微笑んだのが見えた。そんなジンを見ながら、マルタが満足げにしている。

「でも、ああやってしっかり目を見て笑えるようになっているなら、ジン様は立派な英雄ですよ。あの人、本当はすごく剣に優れているんです。いままでは体に頭の処理速度が追いつかないから、だから俺はだめだなんて言っていたんですけど、最近はそういう愚痴も言わなくなりましたし、実際、以前より強くなっていますよ」

 この騎士から、ジンへの賛辞が出ることはなかなかない。

 ジンのほうも、マルタの失敗談など話すことはあっても、褒めることはなかったために、ローディアも、そういう理由で二人は互いに褒め合わないのだろうと思っていた。

 だが、マルタがいま、とてもよくジンを褒めているのを見ると、もしかすればマルタはずっとジンを称賛したかったが、しかし、ジンの自信のなさがそれをさえぎっていたのだろうか、とローディアは思う。

「ローディア様は、ジン様のことどう思います?」

「騎士らしくなってきたなと思うわ。本当、なにがあったのかしらね……」

 そういうローディアの含んだ笑みに、マルタはちょっと首を傾げる。

 ローディアは、マルタにそんな風に言いながら、ジンが変わった理由をきちんと知っているのだ。

 祈師への後悔や懺悔のせいで身動きが取れなかったジンが、なにもかもをローディアにさらして泣いたあの日、ジンはそのすべてから解放された。

 震えながら泣いた姿も、ジンの本当の姿のひとつなのだ。そうであるなら、いまの楽しげな、堂々とした姿もジンの姿。

 いままでの自信がない、英雄らしくない英雄とは、ジンは決別できたのだろう。

 そんなジンの軽やかな姿を遠く見つめながら、ローディアは、私も進歩しなければと考えていた。

 ローディアには、しなければならないことが一つあった。これをしないと、自分がいつまでもぐずぐずとこの場に留まってしまうことになるだろう。

 ローディアは、ジンへの恋慕を忘れることが必要だった。叶うはずがなく、また大事に持っていて良いものでもないそれは、ライリオンの妻である以上、どこかできっちり捨てなければならないものだ。

「自分がずっと、ジンに恋焦がれるのはいかがなものか、それはまた、ジンにとっても良いものでもなく、また自分自身にとっても許されることではない」と、ジンへの恋慕を抱き続けるのは、どうにも道に反している気が、ローディアはするのだった。

 ――だから、どうか、決着をつけたい

「ジン様、奥方様が呼んでますよ」

「奥方様が?」

 マルタにジンを呼んできてもらって、ローディアはやってきたジンに微笑んでみせた。その腕を取って「ジン。一緒に散歩しましょう。マルタは少し待っていてくださる?」

「えっ、良いですけど……二人で?」

「そう……ちょっと、用事があるの。良いかしら」

 いつになく真剣な表情のローディアに、ジンもなにか察して、マルタに詫びる。

「マルタ、すまない」

 ジンを連れてローディアがやってきたのは、詰め所からすこし離れた、礼拝堂近くの森の中だった。礼拝堂のほうもいつも人がいないため、そちらへ行っても良かったが、きっといまのジンが嫌がるだろう。

 だから、ローディアはその途中の、これまた人気のない森の中で立ち止まったのだ。

 ジンが「奥方様、用事とは?」と生真面目にローディアにたずねる。

「ジン。ききたいことがあるの」

「はい」

「お姉さまのこと……まだ愛しているかしら?」

 そのローディアの問いに、ジンは一瞬目を丸くして、それからゆるりと目を逸らす。

 数秒の間のあと、再び口を開いたのはローディアだった。

「愛している?」

「はい……お慕いしております」

「そう。その言葉がききたかったの」

 ジンがそう告げたときの表情は硬く、血の気もわずかにない。頬を染めたりもせず、罪状を自身の口から言わされているかのような響きがあった。

 それに、ローディアは、ジンが「本当に祈師を、いまもまだ愛しているのだ」ということを痛いほどに感じた。不思議と涙も出ず、泣こうとも思わなかった。

「そうか」と、ローディアは思う。

「ジン。聖女として命じるわ」

 その言葉に、ジンは顔を上げた。ローディアは朗々とした声で「幸せになりなさい。貴方にはその義務がある。でも……お姉さまのことを忘れないで。決して忘れないで……あの人のもとに通ってあげて。幸せな夢を、いつまでも見させてあげて」

「貴方しか、それはできないの。もうあの人には、貴方しかいないのよ」

 ローディアの言葉に、ジンは「しかし」と声を詰まらせる。

「しかし……祈師様は、俺が近づいて良いようなお方ではないと、俺はもう身にしみてわかっています。そんな資格も、もう……いや、もしかすれば、最初から、俺にはそんな資格はなかったのかもと」

「ジン。ジンがあの人をもう好きでもなんでもないというのなら、私もこんな風に命じたりしなかった。でも貴方はあの人をいまも愛している。それは同情でも、罪悪感でもなく、あの人本人を。だって、そうだからこそ、私と初めて顔を合わせたとき、私の姿にあの人を重ねたのでしょう?」

 そのローディアの言葉に、ジンは目を丸くする。それからバツが悪そうに身じろぎした。

「聖女様、あの」

「あら、知っていたのかとでも言いそうな顔……」

 そう言って、ローディアはくすくす笑った。

「ねえ、ジン」とジンに再び声をかける。

「ジンは、お姉さまのことを心底好きなんだって、痛いほど伝わってくるのよ。裏切ったわけじゃなかったときいたとき、それを嘘でもなんでもなく、事実なのだと思えたのも、ジンのお姉さまへの気持ちがすごく……伝わってきてたからだわ。だから、この人はそんな嘘、絶対につかないって思えた。それだけの気持ちがある人にこそ、お姉さまの傍にいてほしいの」

「私はね、ジン」とローディアはジンの名を呼ぶ。その声には凛とした涼やかさがある。

「私はね……姉のことが嫌いだった。ずっと、どうしてこの人をみんなが神だというのだろう、私だけは姉を嫌い続けてやるって、半ば意地になってた。でも神だと言われるあの人も、いまは幽閉されてしまっていて……あんな状態で……あの姿を見て、私は初めてあの人を許せた気がした」

「祈師様は、神ではありませんでした。カルカと一緒にいるときのあの人は、少女でしかなかった。ただの、本当に平凡な……近づけば近づくほど、そういう面ばかり見える女の子でした。だから、俺も……そんな彼女が、少し嬉しかった」

「泣いているの、ジン?」

 姉の話をするたび、こみあがる涙を目に溜めて、ジンはまばたきする。

 頬を伝う大粒のそれを、ローディアはそっと指で掬った。それを握るように親指で摩って、ローディアは笑う。

「あの人を幸せにしてあげて、ジン。それが私の命令よ」

 そう言って、とても優しい気持ちでローディアは微笑んだ。その顔がまさに聖女のもので、ジンも釣られて表情を和らげた。

 さわやかな風が二人の頬を撫で、ローディアの髪をなびかせる。

 風の昇る方向を目で追うように空を見上げたローディアは、その空にさんさんと輝く太陽に目を細めた。

 今頃礼拝堂にもこの風は届いているだろうか。

 ――お姉さま、あなたはジンとなら、絶対に幸せになれるわ。また本当の幸せを掴めるはずよ

 そう、心の中でローディアは姉に話しかける。

 ローディアは、もうジンの姿を追わないし、姉の影に気持ちを揺さぶられたりしない。

 ――それでも、あの礼拝堂に通って、姉の心の闇を取り払う手伝いはしたい

 そんな気持ちが、こんなにも優しい気持ちが湧くのは何故だろう。

 ――自分ほどの不完全な人間も、こんなに優しくなれることがあるのだ

 ローディアは初めて、心の底にあったジンへの恋慕の、成就ではない成就を感じていた。

 その日の夜、ライリオンが寝室にこもって一刻ほど立ち、ローディアはライリオンの寝室の扉を叩いた。

 中から衣擦れの音がする。すぐに戸番がローディアの名を告げて扉を開けた。ライリオンは寝台の上に上半身だけ起き上がり、簡素な寝間着を着て分厚い本を広げており、ゆっくりと目を上げた。

「どうした? こんな時間に」

「いえ……ライリオン様、その」

「一緒に寝ませんか」と、たったそれだけの簡単な言葉なのに、あまりにも声が震えてしまう。

 そのローディアの思いがけない提案に、やはり、ライリオンもびっくりしていた。それから「ああ」となにか理由を考えついたらしく「怖い夢でも見たんだな。おいで」

 その子ども扱いに、すこしだけローディアはむくれるが、しかし、違うというのもなんとなしに恥ずかしくて、うつむいてライリオンのそばにもぐりこんだ。

 ライリオンのにおいがあまりにも近く、自分を囲む。体温が上昇するのがわかった。

「なにか相談事があったのか?」

「え? いえ、なにもないですわ。ただ……その」

 くちごもるローディアに、ライリオンは、ふっと微笑む。ふ

 しくれだった指をローディアの頬に優しく滑らせると、ライリオンも本を閉じてベッドに潜った。

「ジンが、元気になったみたいですわね」

 ぐるぐるとなにか話さなければと考えるうちに、なぜかローディアはジンの名を出していた。ライリオンは薄く微笑んだまま「そうだな」と短く返す。

「なにかあったのかもしれないな。英雄という称号が嫌で仕方ないといった風だったが、最近は違うように見える……もしや、貴女が彼の背中を?」

「いえ。私はなにもしていませんわ……でも」

 ローディアは、やわらかな布団とライリオンのにおいに包まれて、次第に眠くなってきていた。うつらうつらとしながら言葉を紡ぐ。

「でも……幸せになってと言ったのです。貴方は幸せになりなさいと」

「そうか」

 そう呟いたライリオンの声に、かすかに驚きが含まれている。目を瞑ったローディアの睫毛にやさしく指でふれ「おやすみ」

「ライリオン様」

「なんだ」

「貴方は、最期のときに、私を呼んでくれるかしら」

「うん?」とライリオンがたずね返す。ローディアはほとんど夢の中にいるような心地で「姉を呼ばないでほしいの……私は、貴方が好きみたい」

「そうか」

 寝言のように言われた言葉に、ライリオンはすこし笑っているようだ。それが声だけで分かって、もう眠りに入ったローディアは、ライリオンと昼寝をした、あの柔らかな時間の夢を見ていた。

 その夢の中でライリオンが言う。

 ――俺は、貴女の傍で死にたい

「寝たか」

 ライリオンは呟き、規則正しく呼吸するローディアを眺めている。彼女の口元が笑んでいることにライリオンも笑った。

 こんなに幸せな心地は彼には初めてだった。

 辛いばかりだった幼少期からすると、自分がいまこんなに幸福だなんて、彼には想像もつかないものだったのだ。

 騎士団に入り居場所ができてから、いままで、不幸だったなどとは微塵も思っていない。それでもいつも寂しさはあり、どこかで自分はこの中で一番似合わない存在ではないのかという劣等感があった。

 しかし、ローディアは「好き」というたった一言だけで、ライリオンを救い出してくれる。

「俺も貴女が好きだ……貴女にはまだ重たいだろうが、それ以上だよ」

 呟いて、寝ている額に唇を落とす。ライリオンはそのままローディアのそばに体を寄せて目を閉じた。

 いまなら彼女と同じ甘ったるい夢を、見られるような気がした。

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