二章 嫉妬と本心

「ローディア様も大変ね。ライリオン様は今日も戦地なのでしょう」

「そうです。その……アルバ様」

 アルバ様、と名を呼ばれた女は、首を傾げてみせる。大ぶりの宝石を耳に垂らし、その赤い唇は笑みをたたえていた。

 黒い目は大きく、鼻はちいさい。絶世の美女とまではいかずとも、彼女は誰よりも王子妃らしい、とローディアは感慨もなくただ考えている。

「自分の容姿に足りないものといえば、この色香だろうか」と、彼女の前では自身の薄い体つきが恥ずかしいと思えてきてしまう。

 アルバ・スクエア=スノーダイヤは、メリエル・アージー=キングストーンの正室、つまり正当な王子妃である。

 アルバとローディアがなぜ顔をつきあわせ、アルバの私室で茶を飲んでいるのかといえば、アルバの夫であるメリエルからの頼みだったからに他ならない。

 アルバは王子妃になって数年経つが、その激しい性格のためか友人といえるものもこの国にはおらず、自分の国に残っている仲が良かった侍女とも、手紙のひとつも交わさなかったため、寂しい暮らしをしているのだという。

 寂しい、とはいっても、それを本人が認めることはきっとない。それはメリエルの主観からのことであり、年の離れたローディアに「友人になってやってくれ」と頼んだのもメリエルの勝手なお節介だった。

 メリエルは口が達者で人をよく気遣う性質だったらしく、ローディアには「自分の妻が寂しそうでね、友人になってやってくれないか」と言ったが、アルバには「兄上の奥方が友のひとり作らず暮らしているそうなんだ、年が近いのもいないしね」とうまく誘導を仕掛けたらしい。

 アルバの口ぶりからそう察したローディアは「余計なことを」と思いつつも、にこやかにアルバの顔を立てた。そうすることで、アルバの心も、ローディアに対しわずかに氷解していた。

「アルバ様は、その……メリエル様とどんなふうにお付き合いを?」

 ローディアはアルバとのうまい付き合い方を考えながら、この気の強い女性に悩みを打ち明けることで、さらに彼女の中に入り込むことを思案していた。単純に、頼りになりそうな女性に訊いてみたい事柄があったということもある。

「どんな風に?」

「私は、ライリオン様と、その……夫婦というものは、もっと近いものだと思っていたのだけれど」

 言葉を濁したのは、この話題が場に適さないのでは思い始めたからだった。そんなローディアの様子を恥じらいととって、アルバは口角を上げる。

 赤い唇が歪むのは、同性のローディアから見てもとても官能的だった。こういう女であれば、こんな幼い悩みは抱かないのだろうな、とローディアは思う。

「まあ、まあ、それはね。貴女はまだ……失礼、十三でしょう? ライリオン様も手が出せずにいるのでは?」

「手が出せずに……」

「なるほど」と滑稽に思われるほど生真面目にローディアは頷く。平常であれば彼女もこんなことで悩まないのだが、ことがことだった。

 夫婦になって数か月が経つというのに、ローディアとライリオンは寝室も別のまま、口寄せはおろか手をつなぐこともしたことがなかったのだ。それだけならまだ良いものの、司教からは無言の圧力をかけられ、騎士たちからは生暖かい目で見られ、そういう様々な外圧が、ローディアにはつらく感じられた。

 とはいえ、自分からどうこうするというのも考えられないし、夫婦かくあるべしというものは自身のなかにあっても、それと自分の現状が全く違うことしかわからない。

「そういえば、ライリオン様は今日、戦地におもむいているわけでしょう。もしかしたら、今日はたかぶって帰ってくるのでは?」

 アルバの言葉の意味がつかめず困惑するローディアの様子を見て、アルバはローディアの耳元に口を寄せて小声でその意味をささやく。ローディアは興味深そうにうなずいた後「そうなの……そういうことが……」

 時は、一週間ほど前に遡る。

ローディアが輿入れして、はやくも数か月が経過していた。

あいかわらず騎士の修練所でぼうっと立っているローディアに、マルタが話しかけている。

その様子を、ジンが遠くから眺めており、そんなジンのほうをローディアは見つめている。それを遠目に見ている騎士のひとりが「奥方様は熱心だな」と呟いた。

 その言葉に、隣に座っていたもうひとりの騎士が、汗を拭きながら答える。

「まあ、あの様子だとなあ。副団長補佐殿はまあ見目も悪くないし、年も近いし」

 副団長補佐というのは、英雄となってからのジンの立場だ。赤旗の副団長の、その下に位置する官職に、ジンは就いている。

「とはいえ……奥方様のこと。なあ、どう思う?」

 その問いに、座っている騎士はちょっと考えて「どう、とは? まあ、腹になにか抱えてはいそうだけどなあ」

「そう、そうなんだよ。違いない」

 二人の笑い声は、この剣がぶつかる音と騎士たちの話声に溢れる修練所では目立ちようがなく、渦中のローディアにも聴こえてはいなかった。だが、さとい彼女は彼らがなにか、自分の噂をしているのに気が付いたらしく、流し見てからすぐにジンへと視線を戻した。

 騎士団員と彼女の間にはいまだにみぞがあり、それは突然やってきたこの聖女への不信感からきていた。

 ローディアは普通の少女であるが、もとは戦敗した教会の幹部であり、戦勝した王国軍の騎士兵たちからしてみれば「よくもまあ輿入れしたものだ」であったのだ。

 彼女の置かれている立場も、それが周りの忠言によっての行動だということも、そもそも王が言い出したことだということも知っているため、声に出して言う輩はいないが、皆がそう思っているのは周知の事実でもあった。

 そのせいで、ローディアはいまだ、この王宮で友達と呼べるものがいない。

 ジンとマルタを伴って室に戻った彼女は、室内にいた一匹がぱたぱたと尾を振って自分を出迎えたことに、やっと一息ついた。

 茶色の大きなぶちが片眼を隠している、青い目をした長毛の白い雄犬だ。ローディアはその犬に、ライリオンと一緒に考えてシアンという名をつけていた。

 シアンはローディアの胸に飛び込んで、ひと声、吠えたのが、凛々しく部屋に響いた。

「シアン。ただいま」

 シアンはローディアの頬をなめると、すぐに足元に降りてしまう。この犬は、この間の祝祭のあとに、若い騎士たちからローディアへ贈られたものだった。

 尾を軽く振りながら、シアンは扉を開け放したまま、ライリオンの寝室に入っていった。

 ローディアはその部屋があまり好きではないのだが、その嫌いな理由である、室内に漂うライリオンの香りを、シアンは好んでいるようだった。

 自分でめくったのであろう毛布に入りこみ、鼻をひくつかせてシアンは目を瞑る。

「茶色の鼻が濡れているのはなんとなく、かわいいと思う」とローディアはシアンを追って行って、その鼻に軽く指先で触れた。このライリオンの大きなベッドに腰掛けるのも、彼がいるときでは絶対にしない。

「この部屋、いやなにおい。お前はこれが好きなのね」

 そのローディアの言葉に、シアンは重たい目を開く。一度だけ鼻を動かして、シアンは再び目をつむった。嫌なにおいとは言っても、ローディアも嫌いではない。しかしこの匂いに包まれていると、ローディアはなんとなく落ち着かなくなるのだ。

 はあ、とため息をついて、ベッドから足を下ろす。足先をつけた石の床は冷たく、ローディアはもう片方の足で自分の室内履きを寄せると、それに足を入れた。立ち上がり寝室を出て、執務室兼応接間に戻る。

 扉がノックされたのは、そのときだった。

「聖女様、折り入って頼みがあってね。いま良いかい?」

 扉を開けてそう笑ったのは、メリエル・アージー=キングストーン、ライリオンの弟であり、この国の第三王子だ。彼がその目を愉快そうにきらめかせていたので、ローディアは「たのみごと?」と首をかしげる。

「そう。頼み事だ。なあ聖女様、友人なんていりませんか?」

「友人?」

 唐突なその単語に、ローディアは意味を掴みかねる。メリエルは言葉をつづけた。

「そう。友人さ。これは俺の勝手なお節介なんだが、わがきさきがいつも寂しそうにしていてね。聖女様に、ぜひ友人になってもらってはどうかと思った次第で」

「それは……」

 喜んで、と答えながら、ローディアはそのメリエルの申し出を面倒だと感じていた。

 今更こんなところで友人なんて、と思っているはずなのに、一週間後、ライリオンが戦争に行っている間、メリエルの「わが妃」だという、アルバの部屋へ足がおもむいてしまったのはなぜだろう。

 アルバはもともと、隣国の第二姫である。政略的な意味で、アルバにとっての「隣国」の第三王子メリエルと婚姻こんいんを結び、その正室、妃となった。彼女は美しく快活だという噂だったが、その反対に、が強すぎると言われていた。だからこそ、彼女には友人といえるものがいないのだ。

 メリエルとの夫婦仲もよくはないのだが、メリエルは彼女によく、花を贈っているらしい。

 戦地にいけず、ジンに置き去りにされ、暇そうに修練所にいたマルタを連れて、彼女の室をたずねたローディアは、扉の外にマルタを置き、自分のことについて聞き及んでいたらしいアルバに、部屋の中にいれてもらうことができた。アルバの様子が、ローディアを軽視しているようなのが気にはなるが「まあメリエルがあの男らしく、なにかしら言ったのだろう」と察して、ローディアもさしてなにも言わずにおいた。

「お茶を持ってこさせるわね。焼き菓子はなにがお好きかしら」

「お茶だけで。ありがとうございます」

 にっこり笑って、ローディアはアルバの席の前に座る。

 柔らかな革張りの赤い椅子は座り心地よく、ライリオンのそれより数倍値が張りそうだった。

 ライリオンは第二王子ではあるが、その血筋で軽んじられているため、ローディアのその推測は間違ってはいないだろう。

 茶だけで良いとは言ったものの、アルバは侍女を呼びローディアのために菓子を焼きなおさせた。芳醇な香りの茶と一緒にだして、アルバは気の強い笑みを浮かべ、それを食べるようローディアに促す。

 そして、話は冒頭に戻る。

 アルバの言葉に、そうなの、と頷いたローディアは、マルタとともに自分の私室へ戻りながら、その言葉の真意をいまだ考えあぐねていた。

「たかぶる」というものがなにを指しているのかは、アルバはついぞ、教えてくれなかったし、それと自分が持ちかけた相談事に何の関係があるのかもわからない。

 ローディアに小声で教えてくれたのは「殿方とはそういうものなのよ」という頼りない一言だけだったのだ。それをマルタになんとなく話しづらいとは思いつつ婉曲にたずねれば、マルタはその丸い目を団栗のようにして、ちょっと考えた後、へらりと笑った。

「あはは、奥方様、そんな話をしたんですか。いや、俺もまあそういう話は仲間内でしたりもしますが、そうですね、奥方様にはまだちょっと早い……いや、まあ、ライリオン様は、今日は花街にいかれるそうですよ」

「花街?」

 なじみのない単語ではあるが、身内のそばにその手のものがいたローディアにとって、それは意味の分からないものではなかった。一瞬間を置いてその意味をかみ砕いてから、みるみるローディアの頬が赤く染まり、眉間に皺が寄る。

 それを見て、マルタはやっと自分の失言に気が付いたらしい。

「あっ、いや、奥方様。ライリオン様のそれは、浮気ではなくて……」

「いえ。良いの。そうよね、そんなこともあるでしょう」

 自分はうまく微笑むことができているだろうか、と頭の隅でローディアは思う。いつも通りには、笑えていない気がした。

 なにはともあれ、妻であるローディアにとって面白い話ではない。花街というところが何であるのか、そこで一体男性はなにをするのか……ローディアはそこまで無知ではない。それが俗にいう「浮気」だとかいうものに値するのも、知っている。

 ――それが浮気でないはずがないではないか!

「奥方様、怒っていますよね。すみません、でも、それも大切なことで」

「いいの。墓穴よ、マルタ」

 彼女にしては珍しく、冷たくマルタを突き放す。

 マルタは自分の失言に頬を掻いた。

 本当に、この騎士は幼い故なのか、必要のない言葉を発してしまうことが多々あるのだ。それを見つけたときのジンの呆れた顔を思い出し「これはたしかにそういう顔もしてしまう」とローディアは息を吐いた。

 ――マルタへの処分は、あとにするとして……

「ライリオン様は、今日は何時くらいにお帰りになるのかしら」

 ローディアはそう侍女に訊ねて、その侍女が首を振るのを冷めた心地で見つめていた。

「わからない」というのも、それはそうだろうと思う。

「なんとくだらない質問をしているのか」と自分自身でさえ思うような問いかけだ。

 戦場に行ったライリオンがいつ帰ってくるのかなど、すでに寂しさを覚えている妻のようで、まったくもってつまらない。

 ライリオンを心配する気持ちはあるが、それよりもローディアの頭を占めるのはマルタの言った「花街」についてだった。

 戦争にいった彼は、今日戻ってくるという文はあった。だからそれに対して心配はあまりしていないし、そもそも彼ら王国軍にはいま、姉、祈師という強力な守りがついている。

 神なる力をもってすれば、戦いは簡単に済むだろうというのもあって、ローディアは自分の怒りにだけ集中していた。

 ――寂しいと言って、寝室にもぐりこめばよかったのだろうか……

 その先、なにをするかは知らないが、一応はそれなりの知識はあるし、それが夫婦なら当たり前のことだということも知っている。だからこそライリオンがそれをしないのに花街に行くというのが面白くなかった。

「嫉妬ですか」と脳内のマルタが面白そうに呟いて、ローディアはますます腹に据えかねた。

 勿論、現実のマルタは何も言っていない。

「シアン、おいで」

 いまもまだライリオンの寝室で寝かぶっていた愛犬を抱き寄せて、ローディアはその長い毛に鼻を寄せる。

「お風呂にでもいれてあげようかしら」とシアンを風呂場に連れて行けば、シアンは無理やりローディアの腕から抜け出した。

 長毛がくっついてその身をさらけ出したシアンは、ぬるい湯を張った猫足の湯舟で、悠々と湯の中を泳いでいる。

 そんなシアンのそば、湯舟の淵に両腕を伸ばし、その上に顎を置いたローディアが、はあと太い息を吐く。彼女もついでに風呂にはいっているところで、その美しい金髪が湯舟に広がっていた。

「ため息なんて、珍しい……」

 スポンジを洗っていた侍女が、ローディアに話しかける。ローディアはちらりと侍女を見てから、頷いて湯舟に顎を沈めた。ぴしゃりとシアンの水かきで額に湯が跳ねる。自分もすでに濡れているから関係ないのに、ローディアはそれを拭って湯に沈めていた顎を上げた。

「おいで、シアン」

 シアンの細くて小さな胴をローディアが抱きしめると、シアンがローディアの鼻をぺろりと舐めた。それにちょっと微笑んで、ローディアは再び深いため息をつく。

「知っている、セレン? ライリオン様は今日、遊女と遊ぶそうよ」

 セレン、と呼ばれた侍女は、あまりの驚きに洗い途中のスポンジを吹っ飛ばした。つるりと濡れた床石を滑っていくそれを視線だけで追って、丸くなったままの目をローディアに向ける。

「それは本当ですか? ライリオン様が?」

「花街にいくんですって」

「誰がそんなことを……もしかして、あの手紙に書いてあったのですか?」

 あの手紙、というのは、昨夜ローディアのもとに届けられた、ライリオンからの報告の文のことだろう。ライリオンは彼らしい、整った大柄な文字で「明日帰る、こちらは上々」とだけ書いていた。たったそれだけの一枚の手紙に、花街のことなど書いているはずがない。

 勿論、ローディアの情報源はそれではなく、マルタなのだ。

「マルタが言っていたのよ。仕方ないんですって、私も別に良いのよ」

「聖女様……」

 セレンはローディアがただの聖女だったときから仕えている、気心の知れた侍女である。

 純朴なこの侍女は、にきびがある頬がいかにも少女らしくて、ローディアも好ましく感じていた。

 セレンはローディアのふたつ上とはいえまだ十五であり、男性に対して夢を見る年ごろでもあったから、なんとなくライリオンはそういうところにはいかないものと考えていたらしい。

 それはローディアにしても同じようなもので、セレンとローディアのそういう知識も、セレンのほうがより多く恋愛小説を愛読しているくらいの差しかなかった。

 だからこそ、セレンはみるみる頬を染め、黙り込んでしまう。

「セレン、あのね。私、本当に、ライリオン様がどこにいこうと、どうだっていいの。なにをするかは知らないけれど、まあいいと思うわ。だけど」

 だけど、と言葉を切り、ローディアは視線をさまよわせる。

 シアンの青い瞳と目が合って、その目の色がライリオンと重なった。

「だけど……なんだか、馬鹿にされているみたいだわ」

「聖女たれ」という、父の言葉を従順に守っていたころでは考えられなかった言葉を呟いて、ローディアは再び顎を湯舟に沈める。

 この王宮にきて彼女が得た一番のものは、人間らしさだったのかもしれない。しかし、彼女自身はそんなことには、全く気付いていないのだった。

 その日の深夜にやっと帰ってきたライリオンは、すぐローディアの寝室をノックした。その音にローディアが気が付いたのも、彼を待ってローディアが寝ずにいたからであり、しかし拗ねて毛布にもぐったまま、彼女は寝た振りを決め込んでいた。

 ライリオンの靴音が近づいてきて、そばで止まる。その視線が自分に落とされているのを、なぜかローディアはひしひしと感じていた。

 ライリオンはしばらくそうして、無言で彼女を見つめ、鼻から小さく息を吐いて、その頬に指で軽く触れた。乾いた指先は頬から離れ、それから彼女のまつ毛にそっと触れる。はれものにふれるかのようなそれに、彼女は気が付くと目を開けていた。

 ライリオンの双眸そうぼうが細められる。それを見て、ローディアはなにも言えなかった。

「起こしてしまったか」

 なぜか「起きていた」と言えず、ローディアは黙りこむ。

「おかえりなさい」とでも言えば良いのだろうか。

「無事に帰ってきたのですね」とでも笑えばいいのだろうか。

 寝ている自分に彼がこんな風に触れることを初めて知ったローディアは、かけなければならない言葉から逃げるようにシアンを目だけで探した。

「あの犬がいれば、ライリオンは彼を抱きかかえてなにもいわずこの室から出ていくだろう」と、そんなことを期待したのだ。

 ローディアの意図に気が付いたライリオンが、視線を追うように周囲を確かめる。それから薄く笑い、そこにいるぞ、と指をさして「シアンだろう?」

「こいつは貴女が随分好きらしい。俺が帰ってくると、いつも貴女のそばで寝ている」

 そういって、ライリオンはローディアの足元に腹を出して寝ているシアンの頭を撫でる。

「犬らしくないな」と言って彼は微笑んだ。

 その様子にやっと、ローディアはライリオンがいささか酔っているらしいことに気が付いた。

 ――ああ、だから私の寝室にきたのか

 ライリオンが酔って帰ってくると、いつも自分の寝顔を確認してから、自分の部屋に戻ることを、ローディアはセレンからきいていた。

 その場面に出会ったことは今回が初めてであったが、それに言いようのない感情を抱いたのは事実であり、しかし彼がここまで優しく自身を見ていたなどとは知らなかったローディアは、怒りが冷めてしまったことに気が付いた。

 しかし、そのライリオンの様子のせいで、彼女はますます釈然としない気持ちになった。

 布団から出て、ライリオンの手に触れようと指を伸ばしてみたものの、それは勇気が出ずにかなわない。こぶしを握り、彼女は起き上がった体勢でライリオンの青い目を見る。

 ライリオンのほうも、ローディアの目を見つめていた。

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 ローディアが必死に絞り出した言葉に、ライリオンは頷いてあっさりと寝室から出ていく。

 その背を眺めながら、今更のようにローディアは、ライリオンから漂った汗の香りを思い出していた。

「ライリオン様、なにか仰っていましたか?」

「いえ、なにも。どうして?」

 翌日、護衛で部屋にきたマルタにたずねられ、ローディアは首を振った。問い返しても、マルタはその丸い目をきょろきょろとさまよわせ、困ったように笑うだけである。

「今日は思慮深い日?」

「ひどいですね、奥方様……」

 昨日の仕返しにそう言ってやれば、マルタは脱力する。

 悲しそうにひそめられた眉は、きっと、己の信用のなさや口の軽さを反省した証拠なのだろう。

「そういえば、今日は、ジンはいないのね」

「ジン様は、ちょっと出てるみたいですよ。たまにあるんです」

「どこへ行っているの?」

 ふとたずねると、マルタはあごに手をやり、ちょっと考えてから「さあ。俺にはなにも……」

「たまにあるって」

「そういうことが、たまにあるんです。ひと月に一度くらいかな……」

 その話が気になったのは、なぜだったのか。

 ローディアは「そう」と頷いて、マルタに一人にするよう頼みこむ。

 渋々ではあったが「半刻だけですよ」とマルタが了承し、ローディアは礼を言って室を出た。

 ローディアは当てもなくさ迷わなかった。ジンはそこにいるのではないかという確信があったのだ。

 西の塔を出て森を抜け、小さな礼拝堂に出る。白く塗られた壁に赤い屋根をしたそれは、正面に大きな色硝子の窓が作りつけられている。

「ジン! いるんでしょう?」

 呼びかけながら、礼拝堂の周りを歩く。

 ふと音が立ったほうを見ると、そこに立っていたジンが、ローディアに驚いた顔をした。しかしそれは一瞬で、すぐに彼の視線は礼拝堂の窓へと注がれる。

 ジンの視線の先、窓に目をやったローディアは「やはり」と思ったのだ。

 窓の向こうまではさすがに見えないが、彼の目を見れば、窓の向こうに誰がいるのかはおのずとわかる。きっと彼は、金髪と翡翠の目の少女を夢見ているのだろう。

 ローディアと似通ったそれは、もちろん、ローディアのものではなく、また彼と顔を合わせることができるような人物ですら、もうない。

 ジンはそれをわかっている、恋に破れた者の目をしていた。

「お姉さまを探している?」

 ローディアの問いに、彼は答えない。しかしその沈黙が正しく答えだった。

「馬鹿な人」

 ローディアが口の中で呟いた言葉は、誰に向けてだったのか。ジンに向けて放ったはずだったのに、それはなぜかローディアの胸にも刺さった。

 ばかなひと……ジンはとても愚かだ。そして、それはきっと、そう呟いたローディア自身も……

 それだけを言い放って、ローディアはゆっくりとした歩幅でジンから離れる。もう少しでマルタとの約束である半刻が過ぎてしまうのは、礼拝堂の正面、色硝子の窓の上に飾られた大きな時計でわかった。

 息を吐き、ローディアは空を見上げる。青い空はどこまでも遠く広がっていて、視線を地に戻せば青々とした緑が光を受けてさんさんとしている。

 どこからか鳥の鳴く声が聴こえ、ローディアは自分が現実から離れたところにいるかのような錯覚を受けた。

 振り返っても、木々に隠れてあの礼拝堂はもう見えない。

 ジンはローディアに付き添うこともせず、依然、あの場所に棒立ちになって、窓を眺めている。

 ――裏切ったのは、あなたでしょう?

 いまになってやっと、ローディアはジンが姉を裏切ったという、自分の目で見た事実について、裏側に、なにかほかの事実があったのではないかと思い始めていた。

 ――ライリオンが命じて、それをジンが飲んだということ以外に、なにかがあるのでは……

 ――ジン=アドルフは、姉を裏切ったのよ

 ――ライリオンが、それを命じたの……

 誰に言われたわけでもないのに、頑なに自分が「思い込んでいた」ことに気が付く。しかし、それ以上、なにもわからない。

 要の人物たちがなにも言わずとも、世間はそうだと思っているし、ローディアも当たり前のようにそう思ってきた。しかし。

 ――ただ目先の欲で裏切った人間が、あんな表情をするものだろうか?

 ――残虐非道の人物が、寝ている自分に、あんな風に触れるものだろうか

 ジンとライリオンの顔が交互に浮かぶ。どちらも優しく、いままでのローディア自身の認識と、食い違っているような気がする。しかし、肝心の答えに思考は全くたどり着かない。まだ、自分は彼らについてなにも知らないのだということを、ローディアは初めて悟ったのだった。

 私室に戻れば、そこにはまだマルタがいて、ローディアの帰りをシアンとともに迎えてくれた。

 マルタはシアンを撫でていた手をとめて立ち上がり、ふと小首をかしげる。

「奥方様? どうかされました?」

「マルタ」

「はい」

 彼女が名を呼ぶと、彼は素直に返事をする。

 ローディアは思考の波からやっと戻ってきたところで、ぼんやりとした目でマルタを見た。マルタは不思議そうにこちらを眺めている。

「マルタ、あのね。ジンは、どうして姉を裏切ったのかしら」

 ローディアは自分の失言に気が付いた。しかし後の祭りであり、マルタは驚いた表情である。それから思案しているのだろう、少しの間を置いて、彼はぼそりと呟いた。

「ジン様が、国王陛下に命じられたからです」

「王に? ライリオン様ではなく?」

「ライリオン様というか……そう言い出したのは、陛下ですよ。ジン様はあれで、陛下の命令には絶対に逆らいませんから。ちょっと危ういくらいに忠臣ですよね」

「陛下が……」

「――ジン様は、祈師とどんな関係だったんですか? 訊きたかったんですけど、さすがに訊けなかったんですよね」

 マルタに問い返され、今度はローディアのほうが考えこむ。

「そうね、とても仲が良くて、恋人同士みたいに見えていたわ」

「祈師の護衛を殺したのも、ジン様なんですよね」

「カルカのこと? カルカは違うわ。姉を守ろうとして、たてになったところを、ほかの騎士につかれたの」

 ローディアが、カルカという名を呼ぶのは、声が震えるほどにひさしぶりだった。

 カルカという人物を、ローディアは姉の幸せそうな表情と一緒に思い出していたのだった。

 金の長髪をひとつにまとめていた彼は、およそ聖騎士だとか、女神の護衛だとかに似合わない、派手な装飾品を好んで身につけているような男性だった。その鎧も、ほかの聖騎士と違って派手に彫刻されており、その剣にもおなじ模様が彫られていたように思う。

 彼はいつも不愛想なまま、姉に仕えていた。

 彼を姉がいたく気に入っていたのは、最初は彼女の気まぐれだった。

 彼は遊郭上がりであり、教会の縦社会ではまずありえない昇級だった。下等兵としてでもなく、ただ幹部のおもちゃとして買われた身であった彼を、ふと見た姉が気に入って「そばに置いておきたい」と言ったのだ。

 それを隣で見ていたローディアは、そのときの彼の双眼そうがんが、驚いた表情をしたのをよく覚えている。

 それが、ローディアが見た、最初で最後の彼の感情だったのだ。

「奥方様。そろそろライリオン様が戻ってこられますよ」

 ぼうっと思いふけっていたローディアを、マルタの底抜けに明るい声が呼び戻す。

 ローディアは一瞬まばたきしたあと、そうね、と呟いて、机の下にもぐりこんで丸まっているシアンを抱きかかえた。

 ローディアは、王城へと続く小さな森を抜ける間、上機嫌なライリオンを見ていた。

 なにが嬉しいのだろうと思うのに、なんとなくこちらも悪い気はしない。ライリオンはローディアを後ろに乗せて、いつかの祝祭のように馬を走らせている。

「軽快な蹄の音が好きだ」とか「この森は本当に気持ちが良い」だとか、そういう他愛のない冗談が彼の口から出てくるのを、ローディアは不思議な心地がしていた。ローディアもそれに返せば、それもライリオンには快いようで、彼は肩を揺らして笑った。

「どこに行っているのですか?」

「貴女と出かけたいところがあるんだ、騎士は置いて、ふたりで」と言われ、二つ返事でついてきたローディアは、ライリオンにたずねる。彼はここまで飛ばしていた軽口をやめ、ふと黙りこんでしまった。それから馬を止め、肩越しに、ローディアを振り返る。

「母のところだ」

「お義母さまの?」

「そう。一度、貴女を連れて行きたかった」

 ライリオンはそう言って、再び前を向き直り馬を走らせる。森をやっと抜けた頃には昼になっており、着いたのは小さな屋敷だった。その屋敷は木造で、緑の屋根をしており、中は小ざっぱりとして、玄関を抜けると、正面に大きな肖像画がかけられていた。

 肖像画に描かれた十二、三くらいの少年に、ローディアは既視感を覚える。誰かわかるか、とライリオンが彼女にたずねれば、彼女はやや間を置いて「ライリオン様かしら」

「よくわかったな」

 ライリオンは朗らかに笑う。

 肖像画に描かれた少年は、短く黒髪を刈り上げて、その目はライリオンと同じく青い。その表情がどこか気品を感じさせる――肖像のその小さな類似が、ライリオンとその少年を結び付けていたように、ローディアには思われたのだ。

 ローディアがそれを眺めていると、ライリオンは「さて」とローディアの肩に触れ、目的地へと促した。

「こちらだ。おいで」

「庭園?」

 ローディアは、その場所に着いて一番最初にそう呟いた。それは大きな庭であり、その奥に小さな池と、池の上にかけられた石造りの小さな橋が見える。

 色鮮やかな花と木が彩って、とても美しいが、どこか寂しさも感じさせるような場所だった。

 庭園内の小さな橋をふたりで歩いている間、ライリオンはどこか遠くを見ているかのような、寂しい目をしていた。橋の途中で座り、池を覗き込んだローディアの隣に立ち、ライリオンはそこから庭園の中心に座っている、小さな銅像を見ていた。

 その銅像は祈師とはまた別の女性であるが、女神のような慈愛をその表情に浮かべた美しい姿をしている。

「ここにな、母が眠っているんだ」

「あの銅像の下?」

 ローディアもそちらに視線を合わせ、そのままぽつりとたずねる。ライリオンは頷いた。

「そうだ。一緒に行ってくれるか?」

「ええ」

 ローディアが頷き返すと、ライリオンはちょっと微笑んで、ローディアの手を取った。

 ライリオンの、体温が高い手のひらは、ローディアにとって好きなものだった。ライリオンの香りもその姿も、声も、優しい動作も、なにもかも嫌いだと意地を張る彼女に対して、その心臓はいとも簡単に鼓動を速めてしまう。

「この女の人が、ライリオン様のお母さまなのかしら」

「そうだ……と、きかされている。でも、記憶の中の母さんのほうが、もっと美しかった」

「記憶のなか」

 ローディアがおうむ返すと、ライリオンは照れたように笑い声をこぼした。

「そう、記憶の中だ。肖像画もなにも、ほとんど残っていなくてな。その記憶も、二歳だとか……三歳だとか、それくらいの時のものだよ。それくらい俺が小さかった頃に、亡くなってな。父上がむせび泣く背中を、そのとき俺は恐ろしいものを見るような気持ちで見ていた」

 その情景を想像しようとして、ローディアにはできなかった。あの国王陛下がそんな風に、自分の愛した人物を亡くして泣き喚くなど、彼女には想像の範疇はんちゅうを超えている。しかし、その情景が恐ろしいと思うライリオンの心情は、痛いほどに理解できる気がした。

 姉がカルカを失った時、ローディアはその当時のライリオンのような気持ちで、身もだえして泣く姉を見ていた。

 カルカ、カルカ、とその名を呼んで、しかし誰も答えない。

 その名を持っていた彼は姉の胸の中にいて、その身をぐったりと投げ出しているのだ。

 冷たく硬くなっていくその体の、失われていく熱を追って、姉はその頭を胸に抱え込んでいた。大粒の涙がこぼれるさまを見た。姉があんなふうに取り乱すところなど、ローディアは見たことがなかった。

 それはローディアには思い出したくもない、恐ろしい記憶であった。

「陛下は、お義母さまを殊更愛しておられたとききました」

 ローディアの言葉に、ライリオンは像の前にひざまずくように座った。あおぐように像の顔をみて「そうだな……そうきくな。でも、それは本当のことのように思う。だからこそ、父上は俺を騎士団に入れてくれたのだと」

「騎士団?」

「そう。将軍になったのは、俺の素質があったからだとよく言われるが、そうではない。王宮に身の置き場がなかった俺に、父上が居場所を作ってくれただけだ。だからこそ、父上に感謝を伝えるため、俺は武勲を上げよう、本当にあの騎士団に居場所を作りたいと死にものぐるいだったよ」

 ライリオンの静かな語りに、ローディアも口を結んで耳を傾ける。彼の声は、こんなに優しく発してもぴんと一本、なにかが張り詰めるような、そんな厳粛げんしゅくな響きを持っている。

「しかし、それが殿下には面白くなかったようだ」

「貴女には、きっと迷惑をかけるだろう。俺は第二王子で将軍だなんて大層な肩書を持っているようにみえるが、貴女が知っている通り、……元は奴隷の子だ。それを恨んだことはあっても、母さんは母さんだと思っているし、いまは自分を恥じることもない。だが、周りはそう思ってくれないこともあるだろう。貴女を蔑む者もいると思う。それでも」と言ってから「それでも」と再度呟き、ライリオンは唇を結んだ。蒼天の瞳がローディアを射抜くように見る。

「それでも、一緒にいてくれるのか?」

「いますわ。いつまでも、きっと私は、貴方のそばにいるでしょう」

 ローディアが即座に答えることができたのは、なぜだったのだろう。誤魔化すことも、茶化すことも考えつかなかった。

 それは誓いのような重たい文句で、ローディアはそれを臆せず口に出した自身にすこし驚いた。

 ライリオンの視線は真摯なものであり、それはローディアの言葉を真ととったようで、薄っすらと細められる。

「ああ、この表情は好きだ」とローディアは頭の隅で思う。

 ――あの、寝ているときも。寝ている私の頬に触れたとき、目を開けた私を見たとき……

 その行為が恥ずかしいと思うに足るものであったと、ローディアはやっと気が付いて、かっと体の芯が熱くなるのを感じた。

 頬にそっと指を当てて熱を冷ます。

 自分の指は、頬のそれに比べて随分冷たかった。

「ライリオン様」

「うん?」

 柔らかくこちらを見上げる、ライリオンの青い瞳。ローディアがそれに魅いってしまうのはなぜなのか。

「花街にいったというのは、ほんとう?」

 優しい双眸が、かすかに丸くなる。それを見て、ローディアはすっと体の熱が冷めていくのを感じた。そう、と頷いて、ライリオンから目をそらす。

「マルタか?」

 ライリオンの返した言葉は予想外のもので、ローディアはライリオンを見た。

 彼は立ち上がっており、いつもの高さからローディアを見下ろしている。真顔のようなその表情は、しかしどこか緊張のようなものが走っていた。

「マルタが俺に謝ってきてな。いらないことを口走った、と」

「そうなの」

「言い訳はしない」

 ライリオンの言葉に、ローディアは隠しもせず眉間に皺を寄せる。

 言い訳をされても取り合わないつもりではいたが、まったくしないというのもどうなのだ、と思ってしまう。

 ――それでは……花街に行ったことを認めるということではないか

「私は別に良いと思うわ。そういうことがあっても仕方がないんでしょう? マルタが言ってたもの」

 ローディアは気付くとライリオンにそう言い募っていた。はっと彼女は口を指でおさえたが「まあこれくらい言ってやっても」と鼻から小さく息を吐く。

「なんてむなしいのだろう」と自分の立場を思えば、泣きたくもないのに涙が出てきそうだった。

「すまない。貴女は嫌だろう」

「嫌だと言えばやめてもらえるのかしら?」

 冷たく言い放ってから、ローディアは喉になにかが込みあがってきた。目頭がじんと熱くなり、ライリオンの表情を見ていられなくなる。

 しかし、俯いてしまえば負けだというのも、ローディアはしっかり知っていた。

「言い訳はしないと言ったが……俺は、花街では酒を飲んだだけだ。付き合いも必要だと思って、なにも考えずについていったが、やはり抱けるものではない。酒を注ぐ遊女の顔を見ながら、貴女の顔が浮かんだんだ。貴女なら、こんな軽薄な笑い、絶対にしないだろう、と」

「私の笑い顔はきらい?」

「本心から笑う貴女はすきだ」

「……はずかしいひと」

 押し負けて、ローディアは赤くなった顔を反らす。ライリオンはその小さな顎に触れようとして、ふと銅像が微笑んでいることに気が付きその指を引っ込めた。

 ライリオンがふと笑ったのが、その声で分かった。

「なに? どうして笑うの」

「……ここでは。母さんが見ている」

 そのライリオンの言葉に、不審そうにローディアが銅像を見上げる。

 花を持った美しい女性が、優しい微笑みで、ローディアとライリオンを見下ろしていた。

「それで、結局、ライリオン様に負けてしまったということかしら」

 黒髪を耳にかけながらアルバがたずねる。

 午前中の明るい日差しが差し込む露台で、ローディアはこの夫人とまた茶を飲んでいた。

 アルバの遠慮ない物言いに、ローディアはすこし鼻白んでいる。

「ええ、まあ、そういうことになるのかしら……」

「さすが歴戦の騎士ね。ふふ、ローディア様には勝てそうにもないわ」

「そういうアルバ様はどうなんですの?」

 そう切り返してしまい、ローディアは自分の未熟さにあきれた。しかしこれくらいではアルバは眉さえも動かさずに「私はそれなりよ。あの人、貴女もご存じの通り口がうまいでしょう? それでもしらっとして答えなければいいの。あの人の手のひらでくるくる回るなんて真っ平」

「それは……」

「すごい」とつい感嘆が漏れそうになり、ローディアは口をつぐむ。

「王子たちの手のひらでくるくる回っている」自覚があるローディアには、そのアルバの言葉は尊敬に足りるものだった。アルバはそんなローディアの羨ましそうな目に、満足げに鼻を鳴らす。

「ローディア様もそうすればいいのよ。あちらが何を言っても、だんまりを決め込むか、それで? とでも言えば良いの。そうすればあちらから折れてしまうわ」

「……ライリオン様にそんな物言い、できそうにもないですわ」

「まあ……彼の声や、眼差しはメリエルにないわね」

 ――そういうということは、アルバもライリオンの目や声質に、体が動かなくなる感覚を知っているということだろうか……

 ローディアはその言葉にそこまで考えて「面白くない」と思う自身が不思議で仕方がなかった。

「嫌いなひとのことなのに」と考えてから「はて」と思う。

 ――本当に私は、ライリオン様が嫌いなのかしら?

「どうかした?」

「いいえ」

 ふと黙り込んでしまったローディアを、アルバが引き戻す。首を振ってライリオンの影を頭から追い出して、ローディアは茶碗に口を付けた。

 騎士たちの打ち合いを見るのは、ローディアにとって思考をただすのに最適であった。

 激しい木刀を叩きつけ合う音は、ローディアにとって、最初こそ怯むものだったが、気が付いたときには彼女にとって落ち着くものとなっていた。

「奥方様、こちらに座ってください」

「ありがとう。でも良いの。今日は立って見たいから」

 ローディアの護衛の任についたジンが、そう彼女に声をかける。ローディアはそれを拒否して、ぼうっと打ち合いを眺めていた。

 ジンと、そしてマルタはローディアの護衛の任に正式についた騎士であり、それもライリオンが、二人が特にローディアのお気に入りであったから、と決めたものであった。

 その任を言い渡された時、ジンもマルタも嫌な顔はせず、こころよく受けたという。ジンは「聖女様」と呼んで、ローディアのそばでいろいろな話をすることはなくなったが、それでも嫌ってはいないようで、それはローディアにとって喜ばしいことであった。

 マルタは彼らしい親密さで、ローディアとジンの間に入り、いつも笑っている。マルタがいないときのふたりは、すこし沈黙が落ちつつも、気負わずに済む程度にはなにかを語る、そんな仲だった。

「ねえ、ジン。なにを考えているのです? とか訊かないの?」

「はあ……いえ、主人に踏み込んではならないので」

「トランなら訊くわ」

「あの方は、すこし変わっているから」

 その言葉はほんの弾みだったらしく、ジンは「しまった」とでも言いそうな顔を一瞬見せる。

 ローディアはそれを隣で見つめながら、白い歯をちらりと見せた。

「ジンのこういう、うかつなところは可愛げがある」とローディアはこっそり思っている。

「変わっている? どういう意味かしら?」

「やめてください、奥方様。これ以上言うと、あの方のことだからどこからきかれているか……」

「よくわかっているじゃないか」

 ふわりと風に翻った青いマントに、ジンの肩が跳ねる。ローディアも、彼の突然の登場に驚いて肩をはねさせた。

 ふたりの視線を受けて、さも愉快そうにトランが口角を上げる。しかしその眉間には皺が刻まれており、それがますますトランの表情を意地悪く見せていた。

「俺の耳は地獄耳なんだ、ジン=アドルフ。赤旗の補佐で英雄の……、……勝ち馬のお前にそんな風に言われるなんて、悲しいな」

「よろしくな、ジン。俺が任についている間に、お前は赤旗の団長になるだろうからな」とトランが軽口をたたいたので、それにジンが眉をひそめている。

「やめてください……グレイル様にきかれたら」

「あいつはここにはいないからな。城内に気配がないし、そもそも今日はライリオン様の執務で出ている」

「トラン様を止める人がいないのですね」とジンが思ったことは、その表情でローディアにもうっすら察することができた。そんな二人にこっそりと背を向け、ローディアはジンを盾に、トランから逃げようとしたが、その彼女にも目ざとく気付いていたトランは、ローディアのほうにすっと近寄って笑った。

「それで、奥方様。どちらへ?」

「すこし用事を思い出したの」

「三流の文句ですね。十五点というところかな」

「ふふ、本当にトラン様は面白い……」と言いながら、心の中で悪態をつくローディアに、トランは口元を歪めている。

 ふと、トランは騎士団詰め所の出入り口の方角を見た。青い空がいつものように広がっており、森も常のようにしんと静まっているのに、トランの表情がふいに厳しくなる。

「……帰ってきた?」

「すみませんね、奥方様。私は緑旗を呼ばなければ」と呟いて、突如立ち去ったトランの背中を見ながら、ローディアは「……緑旗?」と首を傾げた。

「なにかあったの?」

 ローディアの質問に、ジンもなにか嫌な気配を感じ、トランの様子をいぶかしむ。

 ちょっとの間を置いて、平時と違うその様子に騎士たちも騒めきだし、その間を割って、緑旗の騎士たちの、この団特有の緑の服を着こんだ数人の騎士が走っていくのが見えた。

 ローディアは「まさか」と背筋が凍る。

「ライリオン様?」

「奥方様。一旦部屋に戻りましょう」

「ねえ、なにかあったのでしょう、ジン。私、見に行かないと」

 そう呟くローディアの声はひどく空ろだ。ジンは緑旗の背を追いかけていきそうなローディアの肩に手を置いてそれを制止し、奥方様、と再び、しかし今度はもっと強い声で呼びかける。

「いけません。部屋にお戻りください」

「ライリオン様になにか……ジン……」

「奥方様」

「カルカ」と、ローディアの口からこぼれたその名に、ジンの腕がこわばる。その震えた声の響きは、彼女によく似ていた。その瞬間のジンの目を見て、ローディアは、はっと我に返る。

 ジンの目はあまりにも悲しく、寂しいものであって、なにかを追憶していた。そのジンの映しているものが、カルカと呼ばれていた彼だと察することができたのは、ローディアが呟いたその名の主を、ジンがよく見知っているということを、ローディアもよくよく知っていたからである。

「ごめんなさい、ジン、あの」

「いきましょう、奥方様」

 ぐ、と肩に触れる手に力を込めたジンの顔を、ローディアはなぜか確かめることができなかった。

今日こんにちのライリオンの執務は、隣の町に赴いて、貧困の民に施しをするものだったはずだ」とローディアは室に戻る間、また戻ってからも、ぐるぐるとそれを考えていた。

 ローディアはライリオンの寝室のベッドに腰掛けて、彼の帰りを待っている。

 シアンが心配そうに足元で丸まって眠っているのに気が付いたときには、もう窓の外は暗くなっていた。緑旗がばたばたと廊下を走る音はいまもまだきこえていて「どうしてライリオン様は戻ってこられないのだろう」とローディアの呼吸が浅くなる。

 ――うまく息ができない

 ――カルカのようになってしまうのだろうか。自分は姉のように、すぐそばにある光をなくしてしまうのだろうか。それならば、こんなに早くライリオンがいなくなると知っていれば、もっと、もっと……

 考えて「もっと?」とローディアは自問する。

 ――もっと、なんだというのだろう? 自分は本当に、ライリオンを嫌っているのだろうか?

 憧憬のような、愛情ともつかない気持ちが芽生え始めていることに必死で気付かない振りをしていた。

 かたくななローディアでさえ、自覚し始めていたのだ。ライリオンにときどき見せてしまう素の自分自身と、彼に嫉妬のような気持ちを抱いたことを思い出す。

 ――花街にいこうが、けがをしようが、帰ってこないでいようが、本当ならどうだっていいはずなのに、こんなに動揺してしまう理由など、ひとつしかないではないか

「ライリオン様」

 呟く。ライリオン・レオハルト=キングストーン。何度も繰り返して覚えてしまった名前だ。

 最初にこの城にきたとき、ローディアは彼の肖像画向かって、その名を唱えてにらみつけた。

「妻と呼ぶのは許さない」と言った。しかし、いまは彼の顔が見たくて仕方がない。

 ――彼に、いつもの優しい笑みを浮かべて、自分の手に触れてほしい

 ――いまなら

 ――いま、あの夜のように触れてくれたのなら、私は笑って「おかえり」を言うだろう……

「ライリオン様……」

 うなだれ、額の前で祈るように両手を合わせ、絡ませた両指に力を込める。

 ライリオンのにおいのする部屋も、いまはローディアを慰めるものに変わっていた。

 ――この場所にいて、昨夜までここに眠っていた彼が、また、疲れた顔で良いから、酔っていても、花街帰りでも良い、またこの部屋に戻ってきてくれたら……私の寝顔を確かめて、すこし微笑んでくれたら……

 ――みこさま

 ローディアは気が付くと、そう口走っていた。神。女神。そう崇められていた大嫌いな姉。その姉が本当になんでも、祈ればなんでも叶えてくれるというのなら、それにだってしがみつこう。

「聖女様」

 扉が静かに開き、ジンがこちらを見ている。

「ノックしようかと思ったのですが」と小さな声で断って、ジンは泣きそうな顔のローディアに近づいた。ローディアはジンから目をそらし、再びうつむいてしまう。

「聖女様、大丈夫です。ライリオン様は、少しけがをしていますが、ご無事ですよ」

「けがをしているの?」

 その報告をきいて安堵したのもつかの間、けがをしている、という言葉にローディアは顔を上げた。

 ジンの真摯な目がこちらを見ている。ローディアはついに涙をこぼした。

「ジン、ジン、ライリオン様はけがをしているのね?」

「大丈夫ですよ、そんなに大きなけがではありませんから」

「どうして……けがなんて……今日は施しを……」

「――加害を加えた者は、即刻、刑に処されます。いまはライリオン様もお休みしていらっしゃるので、今日はどうか聖女様もお休みください」

 淡々と告げるジンに、ローディアはちょっと首を傾けるような仕草をした。それが在りし日の彼女の姉と重なって、ジンは一瞬息を呑む。

「ジン?」

「いえ」

 ――祈師様

 ジンが口に出しそうになった名が、空虚に消える。ジンは視線を逸らし、部屋から出ていこうとローディアに背を向けた。

「ジン」とローディアが再びジンの名を呼ぶ。

「ありがとう」

「いえ」

 ローディアの言葉にやっとジンは微笑み、部屋を出て行った。

 自室の大きな天蓋付きの寝台は、今日は湿っているのかと思うほどに、ローディアには居心地が悪かった。シアンもそうであったのか、彼はライリオンの部屋で彼の主人の帰りを待っているようだった。

 ローディアもついに自分の寝室を出て、こっそりライリオンの寝室に入る。シアンはやはりそこにいて、ベッドの上で丸くなっていた。ローディアが近づいた足音で、シアンも薄っすらと目を開けてこちらを見る。

「シアン」と呼ぶ、ローディアの顔は蒼白である。

「私もここにいるわ。お前はお休みなさいな」

 くんと小さく鼻を鳴らして、シアンは目を瞑る。それでも呼吸は深くならず、彼もまた、不安な夜を越そうとしているようだった。ローディアはシアンの体を撫でながら、ぼんやりとライリオンの寝室の隅に飾られた鎧を見ている。傷だらけのそれについて、いつか彼が言っていたところによると、それは彼が少年だった時に、初めて騎士団に入ってその祝いに王から賜ったものらしい。

 それを成長が追いつかなくなるまで着込んで、果たしてそれが切れないほどの背丈と体躯になって――

 数日前に見た、彼の少年期の肖像画を思い出す。黒い髪はそのままなのに、その長さが違っており、しかしその青い目の輝きも、その顔立ちも面影を残している。

 それを見つめているといつの間にか、ローディアはシアンとともに眠っていた。

「奥方様」

 呼ばれ、目を開ける。ローディアはきょろとまず辺りを確かめ、朝になっていることと、部屋にまだライリオンが帰ってきていないことを知った。つぎにやっと、名を呼んだ人物を見る。

 彼は緑旗の団服ではあったが、それはほかの団員より格段立派な仕立てのものであった。いぶかしむローディアを見て、彼はうっすら笑う。

「私は緑旗の騎士団長であります、ドグ=ヘイオールと申すものです。ライリオン様がお目覚めになったので、奥方様をお呼びに上がりました」

 銀縁の丸眼鏡をかけたその人物は、冷淡な口調でそう言うと、「ジン」と寝室の隅に立っていたらしいジンを呼びつけた。ジンが「はい、ドグ様」と返事をする。

「奥方様を室までお送りするように。ライリオン様は特別医務室だ、部屋に着いたらすぐお前は席を外すよう」

「はい。いきましょう、奥方様」

 仰々しい物言いは、ドグ特有のものだろうか、とローディアは考える。

 寝間着のまま出ていこうとしたローディアに、セレンが慌てて服を着替えるよう進言したが、結局、化粧もなにもせず、服も簡単なものに着替えただけで、ローディアはジンをともなって部屋を出たのだった。

 騎士団の詰め所は、ライリオンとローディアの住む部屋を奥に配置して、L字型に配置されている。

 特別医務室というのはライリオンのために作られたもので、普通の医務室より格段に上等な造りだった。その中央に寄せられたベッドに座るライリオンは、さっぱりとした顔でローディアを迎えた。

「きたか」

「ライリオン様、ご無事ですか? おけがをされたと……」

「けが、か。大したことはない、ちょっとした切り傷だ」

 そう言って、ジンが部屋を出たのを目で確かめ、ライリオンはローディアにそばに寄るよう手招きする。

 素直にそれに従ってライリオンの目の前に行ったローディアは、そこで足を止めた。元気そうなライリオンの様子にほっとして、彼女は次第に疲れを感じ始めていた。

「心配をかけてしまったようで、すまない。本当に大したことはないんだが、やはり立場上、下が騒ぐのは仕方がなくてな……驚かせてしまった」

「いえ」

 目線を落とし、ローディアはそう首を振る。ライリオンはローディアに、隣に座るよう促した。

 ローディアも従って隣に腰を下ろす。しんと静まった病室は、昨日の自分の寝室より何倍も心地よく感じられ、それはきっと、隣にライリオンがいるからだと、ローディアは初めて自分に心から素直になれた気がした。

 しかし、それを改めて態度に出すというのはやはり恥ずかしく思えて、なにも言えなくなる。

 ライリオンは無言で、小刀で手遊びのように林檎の皮を剥いていた。

「……そんなこと、騎士にやらせてください」

 ローディアがそういうと、ライリオンは「いや」と首を振る。

「騎士にやらせなくても、これくらいできるさ。野営をすることもあるし、将軍であってもある程度のことはできなくては……というほど、大したことでもないけどな」

「貸してください」

 あまりにもライリオンがするすると皮を剥くものだから、簡単なのだろうかとローディアが手を伸ばす。ライリオンは「けがをするなよ」と言って小刀をそっと手渡した。

「わ、……と」

 すぐにぶちと皮が切れるだけでなく、身まで深く抉ってしまい、ローディアは四苦八苦したあと、ライリオンに林檎を返した。黄色く変色してしまったそれを見て「難しいのね。簡単だと思ったのに」

「これは俺が食べよう。貴女は色が変わっていないのを食べると良い」

「私が剥いたのだから、私が食べます」

 意地になってそうローディアが言うと、ライリオンはぷっとふきだした。声を抑えてくつくつと笑った後、小刀で適当な大きさのくし形に切って、ローディアに渡す。

「……食べられるのかしら」

「なにを言う、味は少々落ちるが食べられる」

 いままで変色した食べ物など口に入れたこともないローディアは、その林檎をしげしげとみてそう呟き、それにライリオンが、機嫌よく答える。

「ライリオン様、……おかえりなさい」

 林檎を口に入れる前に、やっと、ローディアはそう言った。ライリオンは口に含もうとした果実を持ったまま、珍しくきょとんとローディアを見る。その彼の顔が、彼らしさのない、あまりにも幼いもので、ローディアのほうがふきだしてしまう。

「なあに?」

「は、いや……すこし、驚いた」

「どうして? 私がおかえりを言うのはおかしいかしら」

「いや。おかしくはない……」と返答して、ライリオンは顔を背ける。どうしたのだろう、とその耳をふと見ると、真っ赤に染まっていた。

「ライリオン様、お加減がよろしくないとか……」

「いや、いや。そうじゃないんだ。ただ、突然だったから。そんな風に、その言葉を言われるのは……良いものだな」

 小さく咳払いして、ライリオンはローディアの目を見る。愛しいものを見るかのような青い瞳が、ローディアに向けて細められている。

「……は」

 そう声を漏らして、ローディアこそ顔を蒸気させた。

「もう、言いません」

 ローディアは慌てて立ち上がり、逃げるように室を出る。

「ジン!!」と照れ隠しにジンを荒々しく呼び立てる彼女に、ライリオンは彼女に気付かれないくらいの小さな声でくすくすとしのび笑った。

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