一章 邂逅
一
――本当に美しい聖女様だ
王城に輿入れしたローディアは、自分を見てそうささやく騎士たちに微笑んでみせた。彼女は本当によく笑う聖女だった。彼女の生家のようなものである教会の内部からでさえ、聖女様は我らのなにもかもを包んでくださる、と言われていた。
それでも、教会の上層部は、さすがに王の出したこの「条件」は、ローディアの眉を曇らせるのではと心を痛めていたのだ。
心を痛めていた、といっても、それは上層部の「言い分」であり、本当の意味でローディアに寄り添う人間はいなかった。
だからこそ、ローディアはなにもいわず、父の言葉に「はい」と頷いたのだ。父の言葉に絶対の権力があることなど、彼女にはどうだってよい。自分が本気で嫌がっても仕方がないことだとはいえ、それを言う機会ならばいくらでもあったことも、彼女はよく知っていた。
王城の廊下は、乳白色の石でできており、その壁も天井も石造り、しかも煌びやかな天使の絵が天井を覆っている。木造で年季ばかり重視する、懐古的な教会とはなにもかも違っているそれに、ローディアは「きれいですね」と微笑んだ。その声があまりにも澄んでいて、その声を聴きなれているお付きでさえ恍惚としてしまうほどだった。
ローディアは本当を言うと、そんなものにいささかも惹かれていなかった。それでもそう世辞を言っておけば騎士たちの心が自分にほどけることは明白であったし、この自分のそばで笑っている素朴な侍女が喜ぶことを知っていたのだ。
聖女であるべきと育てられたローディアが、自分の心を偽るのは、彼女にとってはとても簡単なことであった。悪く言うわけではないのだから、彼女の周りも勝手によりよく回ってくれるのだ。むしろ偽物の自分を演じない理由がない。
「ローディア様、第二王子はとても美しい方だそうですよ。私も何度か肖像画を拝見したのですが、それはもう驚くような……」
夢見る心地でそう自分にささやく侍女に、ローディアは柔らかく目を細める。
「そうね。ライリオン様が素敵な方でありますよう」
「ライリオン様はとてもお優しい、立派な騎士ですよ。心配は無用です」
ローディアの護衛についたばかりの王城の騎士が、その会話に入り込む。ほかの騎士たちもその言葉にどっと笑ったのは、そのライリオンという第二王子に対する親愛と尊敬の表れに他ならない。ローディアもそれを感じ取って「おや」とちょっと首を傾げる。
――残虐非道にしては、味方の信頼は厚いのね
第二王子ライリオン。その噂は、あんな戦争が起こる前ならば彼女も良いように聞いてはいた。それでもいまとなってみれば、姉をあんな目に遭わせた張本人のようなものである。あのとき姉を拘束した騎士はライリオンではなかったが、王国の騎士、それも将軍であるときけば、彼が姉を拘束するよう下端の騎士に指図したのだと考えるのが真っ当だった。ローディアももちろんそう考えているし、無論それはほぼではあるが事実だった。
それだけではない。争っていたから当たり前だとはいえ、教会側の聖騎士をほぼ壊滅させたのもそのライリオンだと聞く。そんな彼が味方の信頼が厚いのは当たり前なのだろうが、そういった理由で、ローディアにとって「ライリオンは残虐な王子である」という印象があった。どんなに「美形で優しい」ときいても、ローディア自身は侍女のように浮かれたり、期待したりすることなどできはしない。
コツ、と靴の音を鳴らして、前方からやってきた赤いマントの騎士に、ローディアはふと目を留めた。それからちょっと笑んで頭を下げてみる。騎士はローディアを冷たい目で
彼の靴音をきいたことがあるような気がして、ローディアは彼の背中を見る。あの短く刈り上げた金髪も、その少年と青年の間のような雰囲気や体格も――どこで見たのだろうと記憶を探ってみても、とんと検討がつかない。ローディアは諦めて彼から目を離した。すぐにローディアを囲む騎士のひとりが口を開く。
「ローディア様、あれは、英雄、ジン=アドルフです」
「おい、馬鹿!」
「まあいいでしょう? ローディア様だって、もうライリオン様の奥方なのだし」
「ああ」と、ローディアはその姿をもう一度振り返る。小さくなっていく、ジン=アドルフだとかいう騎士の背中は、たしかに見たことがあった。どうして忘れていたのかと思うほどに、すこし前まで記憶にとどめていたのに……
姉と恋仲だったようで、よく教会の裏の庭園で密会をしていたのを見たことがあった。姉の従者兼護衛だと言って、姉が好んで連れていた遊郭上がりの青年とも、ジン=アドルフは面識があるようだ、ということまで、ローディアはよく知っていたのだ。彼はきっと、ローディアの顔ですら「姉から見せられた」というような肖像画程度でしか知らないだろう。
――どうしてあの騎士は、王国側だというのに、敵対する教会の、しかもその頂点と会っているのか……
ローディアはその後姿を、庭園でこっそり見かけるたびに、そう思っていた。
――ふたりが秘密で会っていることを、そういえばどうして私は誰にも言わなかったのだろう
――あの瞬間だけは、姉がとても幸せそうだったからか……いや、姉は、あのお気に入りの従者といるときだって、いつも溶けるような笑顔を見せていたではないか。それならば、隠してやる必要など、私にはまったくなかったのに。なぜ?
神たる、と言われている姉の、禁忌を破る姿が、ローディアは好きだったのかもしれない。
「好き」というと語弊があるが、ローディアにはそうとしか思えなかった。その姿に言いようのない、軽蔑だとかやるせなさだとか、そういった様々なものがないまぜになった、汚い感情を抱いていた。自身のそれをローディアはよくよく知っていて、そして認めている。
――私は、姉が嫌いだった
――女神だとか、信じる対象だとか言われる姉に、矛盾のようなものを感じていた
「矛盾」と一括りにしてもいいものだろうか、とローディアは思う。そんな簡単なものでも、そんなに筋の通っている理屈でもない。ただローディアは嫌いだったのだ。
――姉というその存在が、あまりにも自分と違うから。ただのお飾りで、人形のように座って、気が向いたときだけ、蝶よ、花よと扱われたみじめな自分と違い、姉はその力ゆえに神と崇められ教会に君臨していたから
その差は、姉への嫉妬を抱くことへの、充分すぎる理由だったのだ。
「そうよ、嫉妬していたの」
騎士たちに連れられて自室に入り、人払いをしてからローディアは呟く。
応接間の椅子から立ち上がりきょろりと室内を見渡せば、むせかえるような香と、きらびやかすぎる壁や天井に寒気がした。
――これならば、いつもの木造の古い教会のほうが、何倍も居心地がよい
「ライリオン・レオハルト=キングストーン」
嫌になるほど頭に叩き込んだその名を口に出す。ローディアは眉をしかめ、壁にかけられたライリオンの大きな肖像画をにらみつけていた。そこに描かれた、剣を掲げた金のマントの立派な騎士は、聖騎士のそれよりずいぶんと野蛮に見えてくる。
「妻と呼ぶのは、許さないから」
口の中で呟き、ローディアは深い息を吐く。
――そう独り言をいくら言ったって、自分はきっと、彼の前に立てばなにも言わずいつも通り笑っているのだろう
ローディアの慈母の笑みが、薄っぺらで中身のないものだと気が付く人など、誰一人いないのだ。
――こんな人生が待っていると知っていたら、きっと私は生まれてこなかった
――こんな風に生きる自分を知っていたら、きっと私は聖女になどならなかった
「嘘、嘘、嘘……」と聖女は、いつだってそう、心のうちで唱えて、そして笑う。その嘘を打ち破る人物など、誰もいないことを知っている。だから彼女は誰にも期待しないし、それは自身に対してもそうだ。
したたかに、美しく、聖女たれ。
そう教えられて育ってきた。その結果が「いまの自分」で、だからこそ、ローディアは後悔などしないし、口に出してなげかない。そうしてしまえば、こんな風に生きる自身を認めるものが、誰一人いなくなるからだ。
ローディアは聖女たるために、嘘をついて生きている。
それを悲しいなどと思ったならば、きっと彼女はその瞬間、自分で命を落とすだろう。
二
ライリオンとやっと顔合わせができたのは、ローディアがもう諦めて就寝しようとするような時刻だった。
深夜まで、黙ってライリオンを待っていた彼女が、腹に据えかねた瞬間に戻ってきたものだから「こんなタイミングで」と彼女はささやかな仕返し――先に寝てしまうことが、彼女にとっての「ささやかな仕返し」であった――ができなかったことに少々苛立っていた。しかしそんなすこしの文句でさえも、彼女はライリオンのあまりの美しさに、何も言えなかった。そんなことでさえ、彼女にとっての「ライリオンの嫌いなところ」となった。
ライリオンの、その体格の逞しさや、騎士然としてゆるぎない態度は、ローディアにとって、まったく好ましいと感じるようなものではなかったのに、気が付くとローディアはライリオンのもつ雰囲気に飲み込まれてしまっていた。
濡羽色の髪はすこし前髪が長く、その下に輝く瞳は青空の色をしている。
彫刻のような顔立ちに唇はすこし厚く、その肌は陶器のようで「肖像画が負けることもあるのだな」と、ローディアがつい思ってしまうほどに、ライリオンは美しかった。しかし、彼の血筋を考えると、その美しさすらいやしく思えてくる。
ライリオンは、第二王子である。つまり王の血を継ぐ王子であるのだが、その実、その母は奴隷身分だった。
奴隷といっても、城下では「下町の娼婦だった」ということにしてある、ということもローディアは妻となる故に聞き及んでいた。そして「それは決して、誰にも口外してはならない」とも。
ローディアが、そうやってライリオンを観察していたことを知っている上で、ライリオンはローディアにちょっと微笑み、形式的な挨拶を述べただけでさっさと寝室にこもってしまった。
ローディアはそんな夫との初対面にあきれてしまったのだが、それを誰にいうこともせず、その日は夫婦別の寝室で寝ることにした。
しんと静まった、ひとりの寝室は、すこしだけ胸を逸らせていた自身への羞恥で眠れるものではなかった。
「ライリオンが手出しをしたら舌を噛んでやろう」と悪戯で考えていた彼女にとって、ライリオンが自分を置いて寝入ってしまったことは誤算でしかなかったが、もちろん本気で舌を噛むことは絶対にないし、むしろローディアはライリオンを受け入れてはいただろう。それでもやはり、ローディアは、不意打ちで張り手を食らったかのような、そんな恥ずかしくも苛立たしい気持ちで夜を越えることになってしまった。
「……ライリオン様は、何のために私を
寝台の中で呟き、彼女は息をつく。
「何のため」と言われれば、彼は間違いなく「国のため」「王の命令だったから」と答えるだろう。それがわかるからこそローディアには腹立たしかった。
恋や愛は一片も浮かばないし、嫌悪しかないからこそ、自分がないがしろにされているように感じるのだ。
――なんのために私はここに?
そんな問いが浮かんでしようがない。
「せめてライリオンが自分を望んでくれていれば」とそんな淡い期待をしていたことに、空が白みはじめてから気が付いて、彼女はますます羞恥で頭に血が昇る思いだった。
「奥方様、お食事をお持ちしました」
「ありがとう」
騎士たちに囲まれながら、食事をする。教会でも数人の聖騎士をいつも従えてはいたが、顔も知らない騎士たちに取り囲まれてなにかをするのは、ローディアには苦痛でしかなかった。三日もすれば慣れるだろうとは思っても、やはりため息はでてしまう。
「ライリオン様は、今日はどちらに?」
「ライリオン様は修練所です。いってみますか?」
マルタ=ロイジと名乗った黄色のマントの騎士が、ローディアの言葉に反応する。
不思議なことに「
――ジン=アドルフ
――あの騎士が、こんなにも、自分のまわりに気配を残すことが、あるとは思っていなかった
――それも、こんなに嫌な風に……
マルタといった彼は、くりくりとした丸い目の、少年らしい少年だ。少年と青年の間なのはジンと同じだが、ジンより幼く見えるし、実際そうなのだろう。テノールの声や口調にも、少年のあどけなさが残っている。
「マルタはちょっと厄介ですからね、奥方様。こいつの言う通りにしていたほうが、吉ですよ。うるさいったらありゃしねえ」
「厄介ってなんですか? 俺のどこが?」
「なにもかもがだよ。修練所に行くのは良いが、決しておけがをさせないようにしろよ」
「いきましょう、奥方様」
そういってマルタがローディアの手を引く。
ローディアは薄く笑って、マルタの外見に似合わず傷だらけの厚い手のひらに、自分の白魚の指を載せた。
「ここが騎士の修練所です。ここで
王国の騎士団は、一括りにされはするものの、マントの色で差別化されているため、見ればすぐにわかるのが特徴だった。属する色のマントを翻し、その旗に大きく、各団の紋章を掲げて地を駆るのだ。
「黒旗と桃旗の団長は女性です。女性だけを集めた桃旗はともかく、黒旗、近衛という男の世界で、団長でいられるほどの実力とはいったいどれほどなのでしょう? この八つの旗色の騎士たちを
赤いマントを脱いでいるのは、目立たないようにしているためだろうか。傷だらけの甲冑を露わにして、彼はぼうっとローディアとは違うところを見ている。その騎士に気が付いたマルタは、一瞬怒ったような顔をして、それから白い歯をむき出しにして笑った。
あまりにも無垢な笑みに、その騎士のほうが嫌そうな顔をする。
――ジン=アドルフだ
「ジン様! こちらにきてくださいよ、俺に任せてサボるのは、さすがにどうかと思います!」
「誰がサボったって、ああもう、うるせえなあ……」
ジンに走り寄ってそうまくしたてるマルタに眉をひそめながら、ジンは太い息を吐く。それから、こっそり、マルタの後ろについて、ジンに寄ってきたローディアにも目を向けた。彼が赤茶の目を、マルタに対してわずかに優しく細めたことに、ローディアはやっとこの王城で初めて、新鮮な心持がした。
しかし、彼は、ローディアを見る瞳をわずかに揺らし、視線を逃がしてしまう。
ローディアはそのジンの視線で「彼はなにか自分に、罪悪感のようなものを抱いているのでは」ということに気が付いた。彼の瞳が、詫びるような、なにか複雑な表情を、その言葉よりも雄弁に語っている。
「あなたのお名前は?」
ローディアは、嗜虐心をあおられたような、そんな不思議な感情を覚えて、気が付くと彼に名を聞いていた。彼がなにをしたのかも、その名も、その姿も知っているのに、あたかもなにも知らないというかのように……ジンはそんな彼女に一瞬迷うような素振を見せてから、やっと一度だけ笑った。その顔も暗く、まさかこの人物が、この騎士団で「英雄」と呼ばれているとは思えないほど気弱に見えた。
「ジン。ジン=アドルフです。この度は、おめでとうございます。聖女様」
「あら、私をご存知なのね。ありがとう、とても嬉しい」
そういって、ローディアは笑う。
「聖女様」と呼ぶジンの言葉尻が震えたことに、彼女は気が付いている。
ローディアは、彼女の姉とよく似ていた。その金髪も、その翡翠色の瞳も、その顎の細さも。人形のような美をたたえて、彼女たち姉妹はまさしく女神であり、聖女だった。外見的な美しさだけで、姉は人々を従えているようなところがあった。もちろん、それだけではなく、普通の人間と違って、姉は信仰されるべき異質な力を持っていたから、神としていられたのだ。
だから、その力を持たないローディアは、姉と違って気が向いたときだけの、形ばかりの聖女だった。
ジンが、ローディアに姉の面影を重ねているのは、あまりにも明白だった。顔も良く知らない、ただ肖像画を見たことがあるくらいの少女に、彼がうろたえる理由など「ジン=アドルフ自身が愛し、裏切った姉に罪悪感があり、その姉とローディアが似ているからだ」としか、ローディアにとっての筋の通った理由は見つからない。
だからこそ、ローディアはジンを面白そうだと思ったのだ。
――私を姉と重ねるなんて、随分と面白いじゃない
「少しいじめてやろう」と思ったのだ。もちろん口や態度に出しておもむろにはしない。思う存分に優しくしてやりながらも、心の中では思いきりさいなむことで、姉を裏切った人物への嫌悪を、ここで果たすことができるのだ。それだけでもこの王城にきた理由になる。
それでようやく、ローディアはこの王城に自分がきた理由を見出すことができた。それはとても愚かな行為だと、ローディア自身がわかっていても、そうやってなにかしら理由がなければ、この王城の壁や天井に散る天使たちに奈落へ突き落されそうな、そんな気持ちがしていた。
それはきっと「不安」である。ローディアはまだ十三歳であり、人より聡明なぶん、大人びてしまっているだけで、まさしく「子ども」だった。
十四で人生を、本当の意味ではまだ続いていても、先の道、未来、希望と呼べるものを閉ざしてしまった姉のことを考えると、ローディアは彼女をますます嫌うことしか、彼女から自分の心を切り離すことができそうになかった。
姉の生を、悲しいものというより、笑劇であるとでも思わなければ、この目の前にいる気弱な素振りをしているジン=アドルフに、いますぐ食ってかかってしまいそうだったのである。
泣きわめいて「人でなし」とジンに対して叫ぶだけの資格は、ローディアにある。それでも彼女は微笑んでそんな振りすら見せず、彼をじわじわと侵食してやろうと思っている。
「気が済みさえすれば、開放してやろう」とは表面上で思っていても、そんな日がくるのかもわからないような、泥のような気持ちが彼女に張り付いていた。
「……そこまでにしておいてやれ」
するり、ローディアの肩に、そこにいた誰とも違う手が載せられる。彼女は一瞬びくりと体を竦め、反射で振り向いた。濡羽色の前髪がさらりと揺れる。青い目に、視線が釘付けになってしまう。
――ライリオンだ
思った瞬間に、ローディアが一瞬見せた瞳の色を、ライリオンはしっかり見ていた。
「ライリオン様。こちらにいらっしゃったのですね。マルタの言う通りでしたわ」
「騎士たちの鍛錬を見るのも、俺の仕事だからな。疲れたから俺は休む。ローディア、お前も一緒にくるか?」
そういって、ライリオンは薄く微笑む。その笑みに浮かんだ「反抗は許さない」という顔に、ローディアは背筋が凍る思いがした。
――彼は、私がジン=アドルフに向けた感情を知っている
それは、ローディアが聖女として様々な大人を見てきて培われ、得た、彼女の洞察力からわかったことだった。鋭いそれを持っていなければわからないくらいの、薄く曖昧なライリオンの警告。
ジンとマルタではなく、ほかのローディアの警護に当たっている赤旗の騎士たちは、ライリオンのそれに気が付いて冷や汗を浮かべる。
「はい。お言葉に甘えて、私もお休みしようかしら。ライリオン様、今日は時間の許すまで、私とお話しいたしません?」
「それもいいな。昨日は失礼した」
ローディアが何事もなくそう返したことに、ライリオンはすこしだけ満足したようだった。
「自分の言うことをきいた」ということよりも、ローディアのその聡明さと気丈さが好みだったようだ。
ローディアをすこしだけ認めたかのように、ライリオンが一瞬気を緩ませたことで、ローディアもそれをわずかに感じ取っていた。
「失礼だなんて。お疲れだったのでしょう? 無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう」
そう、ライリオンは目を細める。彼の低い声は、なぜかローディアの背筋に響く気がした。
彼の声を聴くたびに、ふるりとローディアの芯が震えるのだ。
修練所を離れるとき、ローディアはふと再びジンのほうを振り返った。
ジンはもうこちらを見てはおらず、彼もまたその場を離れようとしているところだった。
ローディアは見知ったその背中を見ながら「彼は本当に姉を愛していたのだろうか、それならばなぜ」と、その背を忌々しく感じていた。
三
「ライリオン様、ご成婚おめでとうございます。それについて、お話があるのですが」
「なんだ」
「せっかくの祝い事です。祝祭などやってみませんか? いやはや、それでなくとも騎士たちが祝いたい、祝いたいと騒がしくて」
赤旗の騎士団長、グレイル=デマンドとライリオンがそう話しているのを、ローディアはすこし離れたところ、ライリオンの執務室と繋がった寝室から、遠い気持ちで聞いていた。
寝室の扉を開け放しているとはいえ隣室であるから、ローディアからではライリオンやグレイルの表情を伺うことはできない。だが、グレイルの声の調子で、彼が本当に、自分たちの結婚を祝いたいと思っていることが伝わってくる。
「よいではありませんか、ライリオン様」
するりと入ってきた、青いフードをかぶった男を、ライリオンが見たのと同時に、ローディアも彼に視線を合わせる。
顔を隠すフードを彼が脱ぐと、その片頬に刻まれた青旗の紋章が見えた。
青旗の騎士団長にして、王宮魔術師である、トラン=マクベリーだ。
ローディアは彼が苦手だったために、そっと寝台に滑り込んで身を隠す。
トランはそんなローディアをちらりと見て「可哀そうな奥方様。俺がでてきたばかりに身を隠してしまわれた」
「トラン、またそんなことを」
「いいじゃないか、グレイル。本当のことだろう。彼女は俺を苦手と思っている。こんなに面白いことがあるか!」
「貴方は本当に……。申し訳ありません、ライリオン様。ここはひとつ、青旗の経費を削ってしまうのが手かと」
眉をひそめるグレイルを笑い飛ばすトランに見切りをつけ、グレイルが本気でライリオンに進言する。ライリオンは、ははっと大声で笑い「それもいいな、考えてみよう」
「やめてくださいよ、ただでさえじり貧なんですよ」
トランが心底不服そうに返すと、グレイルは「いい機会だ、諦めろ」とトランを突き放す。トランが口をすぼめたのを見て、ライリオンがくつくつと喉を鳴らして笑う。
「トラン、ローディアをいじめるのはやめてやれ」
「はいはい。まあ、そこそこにします。どうもこまごましたものを見ると、こう、
「こまごま……」
トランの言葉にグレイルが眉を顰める。
トランやグレイル、ライリオンからしてみれば、ローディアは大人びた聖女というより、十三の娘子に他ならなかった。小さな背丈も、細い手足も、なにもかもがただの子どもにしか見えないのだ。
こまごま、といったトランの言葉を妙に気に入ったようで、ライリオンは楽しそうにしている。
渦中のローディアは、といえば、自分のことを子ども扱い、小さなもの扱いしているトランを心の中で散々に言っていた。
「まあ、それは良いとして。祝祭をしたいと騎士たちが申しているのです。王家主催のものより見劣りはするでしょうが、最大の準備をさせてもらいますよ。どうなさいますか?」
「祝祭なんて、ライリオン様の性分じゃなさそうだがな」
「俺はそういう祭りはわりと好きだが、自分が主役となるのはな……ローディア」
不意に名を呼ばれ、ローディアはもそもそと毛布から顔を出す。その間抜けな顔を見て、ライリオンは「こちらへ」と手で合図した。「お前はどう思う? 話は聞いていたのだろう」
――本当に、この人は……
自分たちの話に、ローディアが耳を澄ませていたことに気が付いていたらしい。ローディアのほうも隠してはいなかったとはいえ、なんとなしに彼女も気まずかった。
ゆっくりと気落ちしながら寝室から出てきて、やっと開け放しの扉を閉める。トランがからかうような目を自分に向けているのも、ローディアは嫌で仕方がなかった。
「私は、良いのではないかと思います。騎士たちのご厚意に甘えたいですわ」
「そうか。なら、祝祭でもなんでも、やってもらおうか。騎士たちもそれで満足するんだろう」
「大満足ですね。これは、酒を浴びられるほど準備しておかねばなりますまい」
グレイルの言葉に、ローディアは「ライリオンも酒を飲むのだろうか」と酒におぼれる夫をつい想像してしまう。しかし「彼がそんな風に、なにかにおぼれて醜態をさらすのはあり得ないな」と小さく息をつく。
――そういえば、ジン=アドルフは酒に酔うことがあるのだろうか?
――もしかしたら、姉を裏切ったその日に、勝利の美酒とやらに酔ったことがあったかもしれない……
それはとてもあり得る話で、だからこそローディアは、背筋がぞっと嫌悪で凍るのを感じた。当時の赤旗の団長は、そういえばいまの団長であるグレイルとは別人であったが、彼の従騎士であったジンが、当時の団長からその日に酒を進められていた可能性は十二分にある。
――ジン=アドルフは、一体どんな気持ちで姉を裏切ったのだろう?
当時のことは、ローディアもよく覚えている。いつも姉と庭園で密会していた騎士が、いつも通りに教会にやってきて、姉に言ったのだ。
「祈師様、お願いがあるのです」と。
姉がいた室に、ローディアもいて、ローディアは姉にオルガンを聴かせているところだった。自分のことなどまったく見えていない騎士のことを、ローディアは様子がおかしいと感じていた。しかしそういったことに疎い姉は全く騎士の表情に気が付かず、いつも通りその端正な顔で笑んで、どうしたのジン、と鈴のような美しい声で問い返した。
騎士は数秒迷いを見せて、意を決し、祈師様、と再度姉を呼ぶ。
「祈師様に会いたいという、俺の親友がいるのです。そいつのために、すこしだけ、神通力を解除してくれませんか」
神通力――
「それを解除するということは」と、ローディアはジンの言い分に首を傾げた。
「彼はなにを言っているのだろう、そんな危険なことができるはずがない」と思ったローディアに気が付きもせず、姉は二つ返事でそれを了承して、本当に絶対守護力を解除してしまった。そして、そこに踏み込んできた騎士たちによって、姉は身柄を拘束され「すこしの間」だったはずの約束は永遠に変わってしまった。
その作戦を考えたのは、きっとジン=アドルフではない。それはわかっているし、それが実行できたのは、姉に唯一、信頼され心を許されていたジンのみであったから、彼に白羽の矢が立って、そして彼はそれを実行しただけだということもわかる。姉の性格であれば、お気に入りからの進言は、どんなことでも叶えることなど明白だったのだから。
だからこそ、姉のその純粋さを利用したジンを、ローディアはどうしても許せなかった。ジンがそうやって姉を裏切ったこともだが、ローディアへのジンの申し訳なさそうな、まるでいまもまだ姉のことを悔やんでいるかのような偽善者ぶった態度が、ローディアの憎しみに拍車をかけるのだ。
「奥方様、どうかされました?」
「いえ。どうして?」
トランが珍しくも真面目な表情で、ローディアに訊ねる。ローディアが小首をかしげたのを見て、彼は「いえ。お気に入りの騎士のことでも考えていたのかなと」と目を細めた。
「お気に入り?」
トランはうっすらと口の端に笑みを浮かべている。
「ジン=アドルフ。お気に入りでしょう?」
心中を不意に言い当てられ、ローディアはトランの鋭さに驚いた。
「ジンか。たしかによく話しているのを見かけるな。年もまあ近いほうだろうし、仲良くなるのはよいことだ」
「ライリオン様、そんなに奥方様を子ども扱いするものでもないでしょう。奥方様が一人の騎士ばかりを相手にするのは、少々……いえ」
グレイルの言葉に、ローディアは心の中で何度も頷く。
「夫だというのに、この男は、自分がほかの男性のことを考えていても気にも留めないのか」と、ローディアは小さくため息をついた。
「まあでも、ライリオン様の言うこともわかりますよ、俺は。どうも奥方様とジンには、そういった色気は感じない。二人ともまだ子供のようなものですしね。ただ」
「奥方様」とトランはローディアのそばに寄ってきて、その耳元で小さくささやく。
「ジンを嫌っているでしょう?」
かあ、とローディアは反射的に赤面した。心を言い当てられることなど、いままでの彼女の人生でも、ほとんどなかったのである。
「口が過ぎましたか? まあ、俺はそれも含めて、あなたをおもしろいと思っていますよ」
トランの言葉に、騒ぐ心中を押さえてローディアは笑みを作る。
「まあ。ありがとうございます。でも、トラン様。私がジンを嫌うなんてありえませんわ」
「そうかな? 『聖女様』のお立場であれば、我が国の英雄たるあいつを嫌うのも道理がわかりますがね。素直に認められた方が、かわいげがあると思いますよ」
ぴくりとローディアの眉が跳ねる。それを見て、トランは口の端を歪めたままである。
「からかうなと言っているだろう」
やっとライリオンがそうトランをとがめ、トランは「申し訳ありません」とにこやかに笑った。ローディアは腹に据えかね、再び心の中でトランを「狸だ、屑男だ」とののしる。
グレイルやトランが部屋から出ていき、ライリオンと一息ついていたところに、今度は慌ただしく若い騎士たちが三人で室に入ってきた。
ライリオンの執務室であるために、この部屋は、どうも騎士たちには常に開放されているようで、ローディアが嫁いできてからの短い間にも、何人もこうやって騎士たちがライリオンを求めて自由に出入りしていた。
「奥方様、いまよろしいですか? ライリオン様も見てください。この絵の三匹なら、どれがお好きですか」
突然の騎士たちの質問に、ローディアは戸惑いながらその絵を覗き込む。
質のよさそうな紙に描かれたその三匹は、猫が二匹と犬が一匹で、左から青い毛並みの細身の猫、毛むくじゃらの白い、オッドアイの猫、そして白い毛並みに丸々とした、茶色の斑が目元にある犬だった。
ローディアとライリオンは顔を見合わせ、ライリオンがなぜか噴き出す。そしてとても上機嫌にひとしきり笑ってから「好きなものを選ぶと良い、ローディア。きっといいことがあるぞ」
「じゃあ、この犬が良いわ」
「わかりました、ありがとうございます! ライリオン様、それ以上なにも言わないでくださいね!」
そうはつらつと答えて、騎士たちは入ってきた時のようにばたばたと出て行った。嵐のような彼らに鼻白み、彼らの足元に土煙でもたちそうである。
「祝祭が楽しみになってきたな」
「騎士たちが準備してくれるなんて、光栄ですわ。それにしても、陛下に許可をお取りにならなくてもいいのかしら」
「父上か……まあ、俺から言っておく。どちらにしろ、王室がでてくることはないだろうが」
ライリオンの言葉に、ローディアはちょっと唇を押さえた。この王子は、王には愛されていても、その正室である王妃には嫌われているらしい。
噂には何度か聞いていたものの、自分の前に一向に現れようとしない王妃の冷たい態度や、東の塔と西の塔にはっきり住居を分けられ、隔離されているようなライリオンの現状を見ると、王妃がライリオンを一等嫌っているのは明らかだった。
東の塔に王族が住むというのに、ライリオンだけは西の塔に分けられているのだ。騎士たちも西に集まっているからそのためかとも思ったが、どうも騎士たちが西の塔にきたのはライリオンが将軍になってかららしい。
そういえば、と、ローディアは、いまだに自分がライリオンの兄弟たちに会ったことがないということに気が付いた。ライリオンには、兄のルイヤ、弟のメリエル、マリア、セルフィウスという異母兄弟がいるのに、その誰にも会ったことがないのは、よくよく考えてみれば異常なのではとローディアは思う。
ほかに兄弟が四人もいて、その誰もが兄の結婚相手である自分に会いに来ないのだ。
姉もきっと、王族の五人兄弟、その誰にも会ったことがないだろうけれど、姉は特別な場所にいるのだから仕方がない。しかしライリオンの兄弟たちは王子であるとはいえ自由な身であるのだ。
「ライリオン様、あの」
ローディアが珍しく言葉を選ぶような素振を見せたことに、ライリオンは首を傾げる。ローディアはなんと言えばいいのだろうと思案しながら「あの……ライリオン様のご兄弟に、お目通りしたいのです」
「ああ。そうだな。兄上やメリエルになら、会えるかもしれないな」
「マリア様と、セルフィウス様は……」
「あの二人は、殿下が嫌がるだろう」
そうか、とローディアは納得する。
マリアとセルフィウスは王妃の実の息子であり、王妃はそのどちらもいたくかわいがっているらしい。そんな王妃が、嫌っているライリオンとその正室に息子を会わせたがるはずがない。
「まあ、一応口添えはしておこう。ローディア、どこか散歩にでも行ってきたらどうだ? 騎士を呼んで護衛につけよう。俺はいまから執務をこなさないといけなくてな」
「そういうことであれば、喜んで席を外しますわ。騎士ならジンを呼んでください」
「わかった。そうしよう」
ライリオンは執務室の端に立っていた、従者代わりの赤旗の騎士にジンを呼ぶよう言付け、机の端に積み重なった書類の山に、自身の体をうずめてしまった。
ローディアはジンがやってきてから部屋を出た。ジンは、以前と違い、今日は赤いマントを着ており、この騎士らしくいまだ弱気な表情でローディアの一歩後ろを歩いている。
「ジン。なにか、楽しい話をしてくださらない?」
「聖女様、そういうのが一番困るんですが……」
「困らせているのだもの」
そういって、ローディアは拗ねたように口をすぼめる。
「まあいいわ」
「いえ、なにか話します。そうですね――」
ジンは、話が得意ではない。それを知っているうえで、ローディアは彼が話すように駄々をこねるのだ。
彼が一生懸命話す物語はだいたいが最近のマルタの失敗談だった。だが、ローディアは知っている。彼女が彼に「なにか話して」と言った時に、彼が本当に話したい物語は、マルタの話ではないことを。
それは彼の根底にこびりついたものであり、それはきっと姉との恋物語でもない。それがなんであるのかわからない、というわずかな興味もあって、ローディアはジンに話をねだるのだ。
「ねえ、ジン」
「はい」
「ジンも、祝祭に参加するわよね?」
マルタの失敗談が落ち着いたころに、ふとローディアがそうジンに訊ねる。
言外に、「絶対に参加して」と言っているのだ。それが分かったようで、ジンは一瞬視線をさまよわせる。
「はあ……まあ、そうですね。参加すると思います」
「そう。それならいいの。約束しましょう?」
ローディアがその細い小指を出すと、ジンもちょっと間を置いてそっとその小指に自分の小指を絡ませる。
「針千本!」とローディアはすぐにその指を離した。
「本当に針千本用意するから」
「……聖女様は、本当に……」
そう呟いて、ジンは黙する。
――本当に、祈師様に似ている……
ジンが飲み込んだ言葉を、ローディアは知っている。だから彼女はちょっとだけ頬を膨らませて、自分に合わせてゆっくり歩いていたジンよりも、早く足を動かすというこっけいなことをした。
どうしてだろう、いつの間にか、虐げてやろうと思っていたジンに、ローディアは一番心を許しているようだった。
そんな自分を、ローディアは理解できずにいる。
教会にいるときは、自分のことなど、なにもかもわかっていると思っていたのに、この城にきてからは、すっかり騎士たちにペースを乱されてしまっていた。
四
「やあ、聖女様」
「……?」
修練所の騎士たちを眺めていたローディアに、軽薄な声がかけられた。怪訝に声のほうを見ると、黒い目で、肩までつきそうな長髪の、涼やかな顔立ちの青年が立っていた。彼の服装を見て、どこの馬鹿な貴族だろうとローディアは思ったが、顔には出さず「私になにか
「いや、いや。用事なんてないんだけどね。兄上の正室に聖女様ときいて、どんな方だろうってね」
「兄上?」
彼が自然に「兄上」と呼ぶのは、もしやライリオンのことだろうか。ローディアは、はてと首を傾げる。
――こんなに頭の悪そうな貴族が、ライリオンを「兄上」と?
「俺が分からない? メリエル・アージー=キングストーン、第三王子だ。以後お見知りおきを、聖女様」
「メリエル様?」
そう名乗られて、ローディアはやっと合点がいった。なるほど、本当に彼はライリオンの弟であったのだ。彼の自己紹介をきいているはずの周囲の騎士たちも、なにも言わず、また、彼のそばを通るときにすこし立ち止まって礼をするのも、彼が王子であるからだったのだ。そうか、と納得したローディアは「さて」と口に手を当てた。
――この頭が悪そうな男性が、第三王子……
見目自体は、さすがライリオンの兄弟だけあって、とても整っているように見える。だがその服装が彼の最大の問題だった。フリルの多い服に奇抜な色、まるで道化のような恰好である。
「そういえば彼の噂をあまり耳にしなかったが」とローディアは彼について様々なことを思い出していた。
――そうだ。メリエルは、たしか娼婦と遊ぶのが好きだった気がする。そしてマリア、つまり王妃の実子であり第一王位継承者である
――どうしてこんなに面白いことを忘れていたのだろう?
「俺の噂はきいたことあるみたいだな。聖女様、面白そうなのがきたなって、顔に書いてありますよ。そう、深い事情は多々あるが、まさしく女好きの足りない王子が俺だ」
「ふふ。本当に面白い方」
「おや? 存外素直に笑うんだな」
メリエルは、ローディアの顔を覗き込む。ローディアは笑みを決して崩さない。
「存外とは?」
「うん? 存外、ですよ。騎士たちの噂では……」
「メリエル様!」と声を荒げ、メリエルの言葉の先をふさいだのは、慌てた様子のマルタだった。
メリエルとローディアの話を、マルタは盗み聞きしていたらしく、だが、しかしきっちり修練に励んではいたようで、彼が近づくと汗のにおいがした。
「おっ、マルタ」
「メリエル様、ちょっと口が軽すぎますよ!」
「お前のその口のほうが何倍も軽いと思うんだけどなあ。さてはお前、ごまかすということができないな? いや、ごまかし方を知らないのか?」
自分について、騎士たちが悪口を言っていたことに気がついたものの、必死に隠そうとする様子のマルタと、それをからかうメリエルの構図があまりにも愉快で、ローディアは気が付くと、小さく笑い声が漏れていた。
そんな彼女を見て、メリエルは「聖女様、なかなかかわいらしいじゃないか。これを気難しいというお前たちは、だから女に困るんだな」
「そういうことしか考えていないメリエル様にいわれても」
「まあ……いいか。お前の口がつつしむことがあったほうが驚くものな」
「どういう意味です」
「そういう意味だよ」
あら、とローディアはわざと小首をかしげて「私が気難しいと、みんなが
「あっ! い、いえ、奥方様……」
「まあ、まあ、聖女様。ここは俺に免じて許してやってくれ。こいつはどうも素直に物事を受け取りすぎているのか、あとは、まあ、女に慣れていなさすぎるのか」
「やめてください!」とマルタが声を荒げる。
「照れているのか? そんな場面ではないと思うぞ」
「誰がですか! 照れではなく羞恥です!」
完全に遊ばれているマルタに、ローディアは耐えかねて、ついに大声で笑った。
こんなに素直な反応の少年は、ローディアがいた教会にはひとりもいなかった。いや、いたのだろうけれど、ローディアのそばにくるような身分の高い少年たちは、みな、人形のように整っており、あまりにも冷たかったのだ。
身分差を理解している――つまり彼らはただ賢かった――ということなのだろうけれど、そんな彼らよりマルタとメリエルのほうが、ずいぶんと人間らしいとローディアは思う。
気が付くと、ローディアの中で、メリエルに対しての第一印象であった「愚かな王子」というレッテルがはがれていた。この王子は愚かではなく、気楽で親しみのある快活な王子であるようだ。
庶民的な王子といえばそれまでなのかもしれないが、司教の一族とはいえ一応は貴族であるはずのローディアでさえ、なんとなく好感を持ってしまうような、不思議な魅力が彼にはあった。それはもしかすると、くるくると表情が変わるが、決して人をあざ笑わない、しかし気持ちの良い笑みをたたえているその瞳に、理由があるのかもしれなかった。
「それはいいとして、なあ聖女様、もしよろしければ俺と食事でもいかが?」
「――は?」
メリエルの不意打ちの提案に、ローディアは意表を突かれた。
「唐突に、この男は、いったいなにをいっているのだろう?」と考えてみても、やはりその真意がまったくわからない。
ローディアはメリエルを凝視した。彼女らしくない反応だったが、彼女と初めて顔合わせしたばかりのメリエルは、おやと思っただけで次の句をつぐ。
「こういう誘いははじめて?」
「は……」
かあっと、メリエルのあまりの無礼さにローディアの全身が紅潮する。その様子を眺めていたマルタが、慌てて止めに入ろうとしたが、それより一瞬はやく、その場にいたらしいジンがそのローディアの振り上げた腕をつかんだ。
「落ち着いてください、聖女様! メリエル様のそれはただの病気ですから」
「おいおい、英雄様まで随分酷いことを言う」
「メリエル様も、あまり聖女様をからかわないでください」
ジンの警告に、メリエルは頭の後ろで腕を組む。
ジンの、口調とは裏腹に戸惑っている様子のせいで、メリエルにはジンの言葉があまり響いていない。しかし、メリエルは彼が本来もっていた引き際の良さで、ローディアに背を向けた。
肩越しに振り返り、にこやかに手を振ってまでみせる。
「じゃあな、俺はこれくらいにしておくよ。怒らせて申し訳なかったな、聖女様」
「ジン、なんなの、あの人」
「気にしてはいけません、聖女様。メリエル様は、その……女性が好きなのです」
ジンにだけきこえるように、小声で呟くローディアにジンは頭を掻く。
ローディアの腕をつかんだジンの厚い手のひらはもう離れており、ローディアはその手の熱に、わずかな戸惑いを感じていた。
しかし、メリエルへの怒りと様々な感情がないまぜになったローディアには、そのジンへ覚えた感情も、なにもかも、怒りであるような気がしていた。
「自分は、あの馬鹿な第三王子にも、ジンにでさえ憤慨しているのだ」と……メリエルへの感情はただしくとも、ジンへのそれは全く別のものだということを、いまの彼女は知りえない。
「ジン様、そういえばどこにいたのですか?」
「鍛錬していたんだぞ。どこを見ているんだ、お前は」
そんな彼女に気が付かず、マルタは自分がいま懸命に考えていた質問をジンに投げる。
ジンはといえばマルタに頭が痛くなる思いであるらしく、しわを寄せた眉間に指で触れていた。
二人を見ながら、ローディアはふと思いついたことを言う。
「ジン、私にも、マルタと話しているときのように話して?」
ローディアの突然の言葉は「ジンに一矢報いたい」というちょっとした八つ当たりだ。
対するジンは一瞬目を丸くしたものの、それもほんのわずかな間だった。
そのローディアの言葉をただの冗談だと思って、マルタが笑い飛ばす。
「奥方様、それはだめですよ!」
「そうです、聖女様。……いえ、奥方様。俺はその命には答えられません」
――奥方様?
ローディアの眉が跳ねたことに、ジンも、マルタも気が付いて、場がしんと静まり返る。
遠巻きにしていたほかの騎士たちも撃ち合いをやめてこちらを見ていた。
視線を一心に受けていることを知っていても、ローディアは、ジンが自分の呼び方をマルタやほかの騎士たちに、あからさまに合わせたことが許せず――線を引かれた、と理解するやいなや――じわり、とローディアの目頭になにかがこみあがる。背中をかけていったのは、冷静さを欠いている故の鳥肌であった。
ふい、とローディアはジンから顔を反らし、マルタの手を掴んで走り出す。
「わ、ちょ、奥方様!」と声をあげるマルタを無視して、ローディアはマルタを連れて、ジンから逃げ出した。
「落ち着いてください、奥方様! どうしたんですか」
修練所からでて曲がり角を何度も曲がり、人気がなくなったところで、ローディアは足を止めた。
ローディアのほうは息があがっているのに、彼女に引っ張られてきたマルタは、汗ひとつかいていない。マルタはあたりに、自分たち以外人がいないのを目で確認してから、いよいよ座り込んでしまったローディアの顔を覗き込むように、自分も屈みこんだ。
少年らしい彼は、彼らしい幼さで、ローディアを心底、心配している。
「すみません、俺、なにか悪いことを」
震えるローディアの肩に伸ばした手を、マルタは彼女に触れる前に下ろす。そうしていいのは自分ではないのだと、マルタは知っているのだ。だからこそ、どう慰めていいのか、
彼の故郷の妹や弟が泣いているときにしていたように、気安く肩を抱いてはいけないことはわかるのだ。
ローディアは、そのとき、彼女にとって初めての理由で泣いていたのだ。
自分らしくないと、ローディアはわかっている。こんな風にだれかに感情を揺さぶられることも、こんなところで闇雲に誰かにすがりつき逃げることも、ローディアは経験したことがない。
――どうして、私はこんなに悲しいのだろう? どうしてこんなに、ジンが憎いのだろう……
彼女の心は、まさしくジンに対して綻びだしているところだった。ローディア自身は気が付いていなくとも、無意識下で、彼女はジンを許し始めており、別の――もっと優しい感情も――抱きつつあったのである。
ジンひとりが自分を「聖女様」と呼ぶことが、ローディアの中で特別であり、ジンが自分をライリオンの奥方だと思っていない証拠のような気がしていたのだ。
ジンはきちんとローディアのことを第二王子の奥方だと思っているし、それもローディアはわかっている。
それでもこんなくだらない冗談で、無意識下でも、ジンが自分たちの関係を線引きしたという証拠を見せられたことが、ローディアにはとても悔しかった。
しかし、そんなローディアの心など、はなから「ライリオンという夫がいるから」という理由で知る由もないマルタにわかりようがなく、それはきっとジンにとってもそうであった。
五
祝祭は、グレイルが言っていたように王家が出てくるものとしては小規模ではあったものの、出店の数が多く、警備ではなく本当に楽しんでいる様子の騎士たちも合わさって、王家の
ライリオンの血筋を
ライリオンはといえば、すこしだけ上機嫌に思える。
夫婦が寝食をしている室で、美しい衣装に着替えたローディアを見て、ライリオンは「よく似合っているな。そうしていると、まさしく聖女だ」
「ありがとうございます、ライリオン様。少しは貴方様の隣に立っておかしくないようになれたかしら」
「おかしいと思われるのはこちらのほうだな」
ライリオンは口に手を当ててくつくつ笑う。血筋をほうふつとさせないこの王子の上品さは、メリエルと会ったその後のローディアには、目が覚めるような思いだった。
「おかしいなんて」とローディアはいつもの甲冑とはちがう、式典用らしい鎧を身につけたライリオンを、ついじっと眺める。
――容姿の美しさは変わっていないはずなのに、どうしてこんなに、この人は綺麗なのだろう?
「ライリオン様、ローディア様。そろそろお時間です」
輿入れしたその日に教会から連れてきた侍女が、そうふたりに声をかけた。ローディアが頷き、ライリオンはそんな彼女の手を取る。
節くれだった大きな手が、自分の小さな手を包み込んでしまって、いままでほとんどライリオンに触れたことがなかったローディアの心臓が跳ねた。
ほのかに頬を紅潮させた聖女はまさに美しく、彼女本人が思っているよりずっと、この夫婦は対の人形のように釣り合っていた。
騎士たち主催の祝祭に、ライリオンが先導して馬に乗り、その腰に腕を回してローディアが出てきたものだから、民衆の歓声はひときわ高く上がった。
乗馬の経験があまりないローディアのことを懸念して、ライリオンは馬をゆっくり歩かせており、それもあって、ふたりを民衆はじっくりと観察することができた。
「ライリオン様!」と彼を慕う歓声は多く、ローディアはいままで教会では見ることのできなかった、ひとりひとりの民たちが、こんなに喜びに包まれることもあるのか、と驚いていた。
そのとき、ひとつの生卵がライリオンに向けて、投げられた。
驚いたローディアが彼の腰に回す腕に力を入れる。
ライリオンも気が付き、すんででそれを避けた。ライリオンが避けてしまったために、その卵はほかの民衆に当たったらしく「誰だ!」と生卵をかぶってしまった不運な男が叫ぶ。それをちらりと流し見て、ライリオンは片手をひらりと上げて
「ライリオン様、ご無事ですか。卵がかかっていませんか」
ローディアが声をかけるより早く、ライリオンと並走していたグレイルが声をかける。
ライリオンは「大丈夫だ」と笑った。
「それよりも……これは、ローディアの護衛を増やすかな」
民衆のなかに交じる、異様な目をした集団を流し見て、ライリオンは呟く。
グレイルもライリオンの言葉に「承知しました」と小さく頷いた。ほかの赤旗の騎士や、警備兵、祝祭を行っている各騎士団長たちも、その集団に気が付いているようである。
ふと、祝祭を取り囲む民衆の中に、見おぼえのある顔を見つけて、ローディアは「あら?」と首を傾げた。
ライリオンは頷いて、肩越しにローディアを振り返り微笑した。
「メリエルがいるな」
「あの隣の、親しそうな女性は……もしかして、その」
さすがに「あの噂の娼婦ですか」とは言えず、にごしたローディアに、ライリオンは相槌を打つ。
「ああ。マリアから奪ったという女だろうな」
美しい桃色の髪がひときわ目立つ女と、随分くだけた様子で、メリエルはこちらを見てなにかを話している。その女の腹が大きいことに気が付いて、ローディアは少々驚いた。
「子が……」
ローディアは呟き、はっと口を閉じる。
――気付いてはいけないことに、気が付いてしまった
マリアから奪ったという娼婦に子がいるということは、メリエルの子か、それとも……面白い噂話になると思う以前に、王家を揺さぶることであるのは事実であり、だからこそ、ローディアには「これはライリオンにも知らせてはならないことである」気がした。しかしきっと、敏いこの夫は気が付いているだろう。
午前の祝祭が終わり、午後は自由にしていいという騎士たちの好意に甘え、ローディアは護衛の騎士に囲まれて天幕の下に座っていた。出店が並ぶ光景は面白いし、ローディアにとっても未経験であるから、すこし遊びたいとは思いつつ、それに誰か親しいものを誘いたい気持ちがあり、ローディアは誰を連れていくか思案しているところだった。
マルタか、時間が合えばライリオンでも良い。しかしローディアが本当に連れていきたいのはそのどちらでもなく、ジンであった。
――彼に、あんな風に取り乱したことを謝らなければならない
それはローディアがもうずっと長く、この晴れの日まで考え続けていたことであり、ジンのことを憎んでいたことも、彼女がずっと彼に対して抱えていた嗜虐心でさえ、遠い日のことのように思えた。
結果的に離れることになってからやっと、ローディアは彼に友情を覚えていたことに気が付いた。
いや、その感情は友情より浅く、そしてもっと異性に抱くそれに似通っているものだ。
ライリオンより年が近かったことと、ローディア自身がすすんでそばに置いていたことで、ローディアはライリオンへのそれより強く、ジンに惹かれていた。
しかし、それが叶わない思いであり、同時に叶ってはいけないものであることも分かっている。
――気持ちを伝えたいから、謝りたいわけではない
――それでも、あんなくだらないことで、こんな風になってしまうのは嫌だ
椅子から立ち上がり、ローディアは幕下から出る。それに数人騎士がついて動いたが、それを制して、彼女はそばに立っているのに、表情を全く動かさないジンに話しかけた。
「ジン。お願いがあるの」
「どうされました?」と形式だけの笑みを浮かべたジンに、ローディアは笑み返してみせる。
微笑むだけの表情なんていままで何度もしてきたのに、今のそれはひどく不格好だった。
「私とふたりで、縁日をまわってくださらない?」
二つ返事で了承したジンが考えていることは、ローディアにも手に取るようにわかる。
彼は、きっと、ローディアの気まぐれだ、と思っているのだろう。しかし以前のような親しさはなく、彼はローディアの数歩後ろを、警護しているだけであるといった無言で歩いていた。
しんと重たい空気は晴れの日にふさわしいものではなく、ローディアは塞いでいく気持ちを抑えて彼にやっと話しかけた。
「ジン、あのね。私、お祭りって初めてなの」
「そうなのですか? いままで、一度も?」
「そう。ねえ、隣にきてくださらない? 話しにくいわ」
ジンはいつも後ろを歩いていて、以前であればそのまま会話していたのに、ローディアはそう言ってジンに隣を歩くようにうながした。ジンは「はい」とだけ頷いて、一歩後ろまで距離を詰める。隣ではないが、警備がジンひとりしかいないため、ローディアはそれ以上なにも指図できなかった。
いや、彼女はそれどころではなかったのだ。
――謝りたい。謝らなければ。だけど、なんと言えば良いのだろう
「ジン、あのね……」
「聖女様!」
彼女がやっと重たい口を開いた瞬間、ジンが声を荒げて彼女に覆いかぶさった。
驚いたローディアが何事かと目を見開いて周囲を見ると、聖女とジン向けて刃物を突き出す、目をらんらんとさせた男と視線が合った。ローディアの血の気がさあっと引いていく。
「じ、ジン! あなた、けがは!」
「何者だ!」
いままできいたことのないような、激しい声でジンが言う。彼はジンに睨まれて身をすくめてから、意をけしてこちらに唾を飛ばしながら激昂した。
「どけ、犬め! その
ローディアは男の言葉に身を強張らせる。
男の狙いはジンではなく、ローディアであった。
それは祝祭のときにライリオンとローディアを睨み付けていた集団のうちの一人であり、ジンも少々警戒してその顔を覚えていたのだが、とっさのことに頭が働かなかったローディアは驚きで言葉を失っていた。
ジンは男をにらみつけた格好のまま、男を拘束する機会を伺っているようで、黙している。
「は、はは……なにが聖戦だ! あんな、あんなものは戦ですらない! ライリオンは、祈師様を……罰当たりな……それなのに、その女はライリオンに嫁ぎやがった……」
ローディアは、男の言葉をききながら「でも」と心の中で必死に言い訳を探していた。
父であり司教の言葉を思い出す――ローディア、お前は王家に嫁ぐんだ――
聖女たるローディアが王家に嫁いだのは、教会が王家との戦に負けたとき、祈師を王宮に幽閉することと、その妹である聖女ローディアを王家に輿入れさせることを、王が教会に賠償として背負わせたからであった。
そもそも、その戦争での王の狙いは、祈師を王宮にいれ、その神通力を国のために使わせることであり、ローディアはといえば「王子の正室となる」といえば聞こえはいいものの、その実、人質として格好の餌食になっただけであった。
だからこそローディアは拒絶ができなかったのであるし、教会の上層部たちの同情と蔑みから逃げるように輿入れしただけで、男がいま言ったようないわれなどなにもない。
それでも「売女」という言葉はローディアを怯ませて傷つけるに足りるものであった。
ジンはいまだ、叫ぶ男の手元を凝視している。男の手元が恐怖や興奮で震えていることに、ジンはずいぶん前から気が付いていた。どうやってローディアの身を守りつつ、刃物を奪おうか考えていたジンは、男の背後に気が付き、そちらに目を向けた。
同時に、男が「ぐっ!」と潰れたかえるのような声を出し、首に突如、巻き付いた、別の男の腕に抵抗する。
「ライリオン様……っ」
助太刀したライリオンを、ローディアが、かすれた、いまにも泣き出しそうな声で呼ぶ。その声を皮切りに、ジンはローディアの肩に手を回しすっと身を引いた。その後ろから、慌ててやってきたマルタが刃物を奪い、それを踏みつけ、さらに現れたグレイルに体を拘束されて、男は抵抗を無理と悟り、おとなしくうなだれた。
「ジン様、奥方様! 大丈夫ですか!?」
マルタの声に、ローディアの頬に涙が流れたのを見て、ジンが男に視線をやる。するとそのジンの瞳を見た男が、ひっ、と情けない声を上げて顔面を真っ青にした。
「ジン、そこまでだ」
ひらりと手をひるがえし、どこからかトランが姿を現す。
彼は男の身柄を拘束するのにひと手間、魔法を使っていたらしく、フードを深くかぶり口元を隠していた。
フードを被っていても、彼だとわかったのは、その頬に刻まれた青旗の紋章が見えていたからだ。
「ヘールの目をしていたぞ」
そうジンにささやき、トランはにたりと口角を上げる。その言葉はジンだけに向けられたものであったが、ローディアにもかすかにきこえていた。
しかしローディアは、ヘールというその名の真相に触れることができなかった。彼女の精神状態が平常でなかったのもそうであるが、それ以上に、トランが口に出したその名がジンを揺さぶったことが、ローディアの肩に触れるジンの手が強張ったことで、ローディアにも察することができたからであった。
男が身柄を拘束され、一時は騒然となった祭りが平常を取り戻した頃、ローディアは珍しく眉間にしわを刻んだ夫に叱られて、これまた珍しく頭を下げていた。
「全く、こんなときに騎士を一人しかつけないなど……発見が遅れていたら、どうなっていたことか。いや、ジンがいたのだから、まあ貴女は無事だったかもしれない。それでも大事には違いないんだ。このようなことは、もう二度としないで頂きたい」
「ごめんなさい」
声を落としたローディアに、ライリオンはいつもの表情に戻り「……すこし、元気になったようだな」
「なにかあったのか? ここ最近、ジンを呼ばないなと思っていたが、仲直りでもできたような顔をしている」
そのライリオンの察しの良さに、ローディアはちょっと頬を染めた。視線を揺らし、数秒の間のあと、ライリオンの蒼天のような青い目を見る。
「仲直り、というほどのことはできていませんわ。でも……」
あの騒動のすぐあと、自分を心配そうに見つめたジンの目を思い出す。いつもの後悔や懺悔のような目ではなく、はじめて、ジンはローディアをまっすぐに見つめたのだ。
そこにはもはや姉の影はなく、ジンも、やっとローディア自身を瞳に映していたのだった。
――だから、いまはそれでいいかな、と
「でも、なんだかもっと、お友達らしくなれそうですわ」
ローディアの本心からの言葉に、ライリオンもふと表情を綻ばせる。そして彼女の絹のような金髪をするりと撫で「初めて、貴女の本当の笑顔を見た」
ライリオンが溢した声の柔らかさに、ローディアは驚いて頬を真っ赤に染める。
それから視線をさまよわせ「そう……」
そう、ともう一度呟いた彼女は、ライリオンに対しても、心の底から微笑んで見せたのだった。
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