第4話 友達

 余古井 友則よこい とものり君から電話がかかってきたのは、今日の作業をすべて終えて、そろそろ寝ようかという時刻だった。

『あの・・・こんな時間にごめんなさい』

「いいえ。きっと、この時間でなければ電話を使えなかったのね」

『ああ、さすがだなぁ。うん、僕は携帯電話を持っていないから』

 やっぱり多知華さんはすごいなぁ、とやたら感心する友則君に、少し苛ついてしまった。

「あなただって優秀よ。成績は知っています」

『多知華さんには負けるよ』

「麻利絵でいいのよ? 私たちは恋人同士なのだから」

『あの・・・それ、本気で言ってるの?』

「ちょっと、それはひどいなぁ。けっこう勇気だしたんだけどなぁ」

『ご、ごめん』

「もっと自信をもってください。あなたは良い頭脳を持っています」

『うん・・・』

 押し黙る友則君に、私は次の言葉を待つことにした。なんと返してくるのか興味があったし、もっといろんなことを考えてほしいと思ったからだ。

 一分ほど経って、ようやく声が聞けた。

『今日の昼休みに言いましたよね? あなたは何でもできる。周りがやらせてくれないだけだって』

「あなたもです」

『え? ああ、そうですよね・・・』

「特別なのは私だけではありません。あなたもです」

『でも、たち・・・麻利絵さんは天才、ですよね?』

 名前を言い直したことに、思わずふふっと笑ってしまった。

「普通に話してください。私が天才かどうかは自分では分からないわ。人が言う天才とは称号のようなものです。あなたは素晴らしい、という誉め言葉の最上位なだけです。特別とは違います」

『そう、なんですか?』

「はい。天才は先天性です。なろうと思ってもなれません。しかし特別にはなれます。人よりできるようになればいいのです」

 いま友則君は考えているのだろうか。彼は決断力がある。虐められて、自分で解決できない問題に直面した。それを解決するために、相談できるものを探して、私に声をかけた。

 どれだけの人が同じようにできるだろうか。

『はい・・・でも、僕は――』

「自信を持ってください。なれますよ」

 また苛ついてしまった。聞きたくなかった。

『あ、はい、分かりました。――あの、それで僕、考えたんです。何がしたくて、何が嫌なのかを、ずっと考えていました』

「うん。それを考えればいいことによく気が付いたね。賢い証拠だよ」

『そんな! からかわないでください。・・・それで僕、ずっと麻利絵さんといたいなぁって思ったんです』

 本心から言ったが、冗談だと思われてしまった。そして二度目の告白。すこし自分の決断が揺らいでいる。この感情が欲しかったものだろうか。嬉しかったが、隠していく。

「結婚を前提にしないことが付き合う条件です。それは分かっているわね」

『そうですよね・・・僕じゃあやっぱり、ダメですよね』

「それは違うわ。私のわがままです。怒っていいのよ?」

『怒れないよ』

 落ち込んだ悲しい声に、何か言ってあげたかった。しかし言えば別れられなくなると思った。

『僕は、ただ・・・』

「そんな暗い声を出さないでください。きっといい人が現れるわ。私が保証します」

『うん・・・』

 言ってしまった後で、失言だったと気が付いた。いや切り替えよう。どのみち付き合うことはできないのだから、はっきり言っておいたほうがいい。

『ありがとうございます。夜遅くにすいませんでした・・・』

 通話を切ろうとしている友則君に、「待ってください」と止めた。まだ話しておくことがあったので、急いで言うことにした。

「昼休み、私と会う前にあったことを聞きたいのです」

『――それは、どうしてですか?』

 話したくないのだろう、その声は冷ややかだった。

「彼らと会った時の対処を考えておきたいのです」

『会うんですか』

「会いたくはありません。でも同じ学校にいます。どこで鉢合わせするか分かりません」

『そう・・・ですね。僕ちょっと部活中に、後輩の子たちのサボりを見つけてしまって、注意をしちゃったんですよ』

 友則君は、事のいきさつを詳しく話してくれた。

(なに、それは? 八つ当たりも甚だしいわ)

 話を聞いて、彼らの自分勝手ぶりに腹がたった。

『まあ、僕も本格的に中学受験の準備をしないといけませんし、部活はもうしなくていいんですけど・・・』

「あ、私は他の学校に行くので転校します」

『えっ? ああ、そう・・・なんだ』

 本当に悲しい声に、胸が締め付けられた。

「明日、三人でお昼ご飯を食べましょう。お弁当、作っていきます」

『三人って・・・あ、嘉村さんか。――いいよ、そんなの』

「では、明後日の日曜日はどうですか?」

 友則君の頭の回転に満足しつつ聞いてみた。

『えっと・・・』

「どちらのほうが都合がいいかしら?」

『・・・日曜のほうがいい』

 友則君のその声は、すこし笑っていた。

「楽しみにしていてください」

 私も素直に笑いながらかえす。

「おやすみなさい」

『うん、・・・おやすみなさい』

 友則君の返事を聞いて、携帯電話を切った。紀子さんには明日の朝に伝えればいいだろう。部活の前なら時間はあるはずだ。

 一息ついて、書籍とパソコンだけの自分の部屋を見て、友則君のことを考えた。

(意外に彼のようなタイプはいるのかもしれない)

 自分が求める理想の男性像は、どんな感じだろうか。賢い人はたくさんいる。特別な人も、それぞれの分野に何人かいる。

(網を張って待つよりも、探したほうがいいかな。世に出てこない才能の持ち主はきっといる)

 自分の場所を追いやられた友則君は、『天才』として有名だった私と関係を持つことで、状況の改善を考えた。

(そしてそれは成功した。他人を変えるよりも、自分が変わるほうがいい)

 私は嘉邑紀子さんと仲良くなることで自分を変えようとしたが、友則君は、私と関わることで周りとの関係を変えようとしたわけだ。

(見つかるかな)

 そうしたうまいやり方を駆使して、安全に、かつ怠惰に、この現実で遊ぶ人物はいるだろうか。

 もちろん、真の自由を理解したうえでだ。

 そんな生き方をしている人はいるのだろうか。いたとして、それはどんな生き方なのだろうか。

(神のみぞ知る? それはつまらない答えだ)

 風呂に入ってから寝ようと、バスルームに向かう。と、携帯電話にメールの着信があった。

(そっか、決まったのか)

 それは大学付属小学校への転校手続きが、正式に終わったことを伝えるものだった。

(ちゃんとお別れをしないといけないな)

 カレンダーを見て、紀子さんと、友則君のことを考えた。


          ⛓  ⛓  ⛓


翌日の土曜日、授業はなかったが私はいつものように学校へ来て、図書室で本を読んでいた。市立図書館で閲覧ができるまでの時間を有効利用するためだ。

 自宅にはパソコンもインターネット環境もあるが、電子書籍は好きではなかった。

 図書室に並ぶ本棚を見回してみる。小学校にしては充分な蔵書量といえるだろう。

(知識はある。知識だけは)

 マスターキーを持っている私だからこそ校舎に入っても自由に出入りができるが、他の人には入ってもできるのは景色を眺められるぐらいだろう。部活用の部屋とトイレもか。図書室に本を読みに来ることも普通はないだろう。借りて読めばいいのだから当然だ。本来なら私もそうするべきなのだが、読みたいのは持ち出し禁止の図鑑や辞典だ。なので両親の口添えもあり、いつでも自由に読みに行くことができるように学校のマスターキー、その予備を使わせてもらっている。

 しかし本だけでは得られないものもある。

 私はいったいどれくらいの経験をしているのだろう。

 転校する日にちが決まるまで、もう何日もないだろう。その間に何か起こるだろうか。私は直接に関わっていないはずだが、彼らがどう考えるかは分からない。紀子さんも、もう何もないといいのだけれど。

 薬草ハーブの辞典に目を落とす。一応念のために鎮静作用のあるアロマオイルを上着につけてもらった。おかげで少し眠かったりする。

 彼らがやってきたのは、その時だった。

「ほらな、いるだろ?」

「マジかよ! なにしてんだこいつ!?」

 大きな声で騒ぎながら図書室に入ってきたのは、部活用のユニフォームを着ている三人の男子生徒だった。

(本当に来た。何をしているかですって? その言葉、そっくりそのまま返します)

 一目でわかった。友則君を追い詰めたやつらだ。頬と手に絆創膏が貼られていた。紀子さんが原因だろう。

「なにか御用ですか?」

 座ったまま声をかけた私に、三人は何とも言えない笑みを見せた。とりたてて特徴のない男子生徒だ。

「ちょっと、話があるんだよ」

「どのような話でしょうか」

 動揺をみせないように完ぺきな演技を自らに要求する。憤りも、鬱陶しさも、心細さも、気づかせてはいけない。付け込まれる可能性があるからだ。

 何の反応もないものには、興味を示すものは少ない。

「お前、あいつと付き合ってるんだろ」

「相談に乗っただけです」

 なんだよそれー、と騒ぎだす。

「だったらさ、俺と付き合わねぇ?」

「相談なら聞きましょう」

「あ、俺、彼女がー、欲しいんだけどーー」

 笑いながら聞いてくる。

「遊びに行かない?」

 私は立ち上がり、改めて彼らを見た。

(遊ばせません)

 膝を軽く曲げて、スカートの端を持って、お辞儀をした。

「失礼しました、『先輩方』。多知華麻利絵と言います」

 後輩である彼らにたっぷりの皮肉を込めて言ったのだが、伝わってはいないようだった。

「お、おう」

 私の作り出した雰囲気にのまれて、彼らの顔に戸惑いが浮かんでいた。アロマオイルの効果もあっただろうか。

「今日は予定がありますので」

「お、おう・・・」

 彼らは、言葉をなくしていた。

「あーー」

 互いの顔を見合わせて、何やらごにょごにょ小声で言い始めた。

「行こうぜ」「まあ、タイプじゃねぇし」「だな」

 そして彼らは図書室を出ていった。

(優位でなければ、自分の価値がないと思っているのかしら。学生ではいたいみたいだけれど)

 ユニフォームは来ていたのだから、部活に来てはいたのだろう。まあ、サボっていたのだと思うが。

 からかう以上のことを彼らがしなかったのは、私だったからだろうか。まさか私と付き合いたかった、なんてことは流石にないだろうと思う。

(彼らにとっての面白いことって、何なのでしょうね・・・)

 出ていった彼らを記憶の片隅に追いやって、立ち並ぶ書棚を眺めた。自分の身長より高い書棚の壁は、迷宮のようにも、神殿のようにも思える時がある。

(そういえば、野々宮 奈々絵ののみや ななえさんには悪いことをしました。言い訳は見苦しいか。でも感情を制御できない日もある)

 読んでいた薬草ハーブの辞典を手に取って、その壁の間へと進んでいく。

 読んだことのある本と、読んでいない本が、頭の中で明確に区別される。読んだ本が暖色系になり、読んでない本が寒色系に見えた。切子のようでもあり、複数個が重ねられたピアノの鍵盤にも見え、深夜の都会の街並みにも見えた。

(全部読む必要はないと考えていたけれど、読んでみてもいいのかもしれない)

 いまの私には、この図書室はあらゆる想像を可能とする天馬行空てんばこうくうとなる。格物致知かくぶつちちとなり、芳草鮮美ほうそうせんびの庭を眺めた。ああ・・・そこに誰がいる。何が始まるのか。広大な知識の海原に、私は千姿万態の視点を夢想した。その瞬間、私は一匹の獣であった。一陣の風であった。異国の少年だった。輝ける太陽だった。一本の草木だった。偉大なる王だった。一冊の書物だった。

 頭の中で流れていく無数の物語に、ほんの一瞬ではあったが、ふわり、現実から解き放たれていた。

 もちろん私は、通いなれた小学校の図書室にいる。

 辞典の棚にたどり着き本を戻した。まだ読んでいない本を見ながら、これからのことを考える。

(紀子さんに日曜日の予定を聞いておく必要がある。それから・・・転校することを伝えないといけない。この学校の卒業式の日には私はいないから)

 卒業を待たないのは、両親の都合だ。自慢の娘の経歴を、少しでも良くしておきたいらしい。

 と、一冊の本が目に留まった。

『人と仲良くなる方法』

 気づけばその本を手に取って、瞬きも忘れて読んでいた。一字一句、すべて記憶していく。

 書棚と書棚の隙間に立ったままで読んでいく。

 そのとき私は、一人の少女だった。

 自分の能力を過信していたわけではないが、見落としていたようだ。だがそんな恥ずかしさよりも、足らなかった知識が満たされていく喜びのほうが勝っていた。

 ただページをめくる音がする。

 読み終えて、本を棚に戻す。

(さて、どうしようかな・・・つまりは積極性と包容力・・・でしょうか。やってみるしかないかな)

 窓の外では、元気に部活をしている生徒の姿があった。


          ⛓  ⛓  ⛓


 図書室を出て、がらんどうの教室をチラ見しながら下駄箱へと歩いていく。

 土曜のお昼前。部活で来ている生徒しか学校にはいない。

(そうね・・・今日あたり連絡が来るかもしれないな)

 自分が企画・製作しているゲームソフトの開発状況を思い浮かべる。

 学校行事に参加していないわけではないが、それ以上に仕事をしていた。

 閑寂な下駄箱で、一人っきり靴を履き替える。昇降口を出て、トントンッと短い階段(というか段差)を下りて、創設者の銅像の横を通り過ぎて、半分だけ開けられている校門を通り抜ける。

(私は認められて好きにさせてもらっているけれど、自由かと言われれば違うのでしょうね・・・)

 転校した先で、どんな人に出会うことになるのだろう。仲良くなれるだろうか。さきほど読んだとおりに実践できるだろうか。たぶんまた、親の七光りと言われるんだろう。認めてくれるのは、誰になるだろうか。

「あっ・・・多知華さん?」

 声をかけられたのは、そんなことを考えている時だった。

「こんにちは、野々宮さん」

 ジャージ姿のクラスメイトが、銅像わきにある校庭に続く道から走って来る。野々宮奈々絵さんだ。その後ろから一緒に走ってきたのだろう3人が「誰~~」「このあいだの子かぁ」と言いながら集まった。

「みなさん、こんにちは。多知華麻利絵です」         

「こんにちはー。空月 帆野歌そらつき ほのかといいます」

 すらりと背の高い、お姉さんが丁寧にお辞儀してきた。       

「おお~~、星宮 天舞音ほしみや あまねだよ~~」

 髪の毛がくるくるになっている、リスみたいな子が額に手を当てながら駆け寄ってきた。

「宇任 莉乃たかとう りの、です」

 小柄な身長に、野生の小鹿を連想させるしなやかな体の子が、帆野歌さんの後ろにいた。

 5人で校門前にかたまって、自己紹介をしあう。

「多知華さんも部活、ですか」

「いえ、わたしは・・・」

 莉乃さんの疑問に答えようとしたが、そこでさっき図書室で読んだ本の内容を思い出した。

(まずは、みなさんの緊張をときましょう、ですね)

 初めては、なんだって緊張する。何が正しいのか、どうすればよいのか、分からなくなってしまう。

「あの・・・」

 奈々絵さんが、すごく心細い声を出して見ていた。

「あの、わたし、退学になるんですか・・・?」

「えっ・・・」

 すぐには何を言われたのか分からなかった。たいがく、と言ったのか。なぜそんなことになる?

(違うでしょう!! 私がやったことじゃないかっ!!!)

 私は慌てて携帯電話を取り出した。父親にメールを送り、電話もかける。

「野々宮さんごめんなさい。お父様に言い含めておくのを忘れていました。ごめんなさい」

「ぅえっ! あっ、あっ、ごめんなさいっ」

 私に謝られた奈々絵さんが、なぜか謝っていた。

 父親とは通話はつながらなかったが、メールの返信はあった。『その子と何かあったのか』と、一言だけだったが何にもないことは分かった。おそらくは先生のほうで配慮してくれたのだろう。お礼しておかなくては。

 携帯電話をしまって、奈々絵さんに向き直る。

「大丈夫です、お父様はご存じありませんでした。退学になんてなりませんよ」

「あ、はい! ありがとうございますっ」

 私と奈々絵は、お互いに頭を下げあった。

「ふふふっ」

 帆野歌さんの笑い声に、天舞音さんも笑い始めた。

「二人とも何をされているんですか」

「鳥さんみたいだよ~~」

 言われて、私たちも顔を見合わせてから笑い始めた。

「そういえばそうですねっ」

「うけるーーっ」

 莉乃さんも、堪えきれずに吹き出した。

「はと、かな」

「あははははっ」

 5人で笑いあう。

「やぁーもーぅ、おなかいたぃー」

「あはははっ、ぽっぽーっぽっぽー」

「はと、のマネ」

「豆食べますかー?」

「くるっぽーっ、くぉーくぉー」

 みんなしてハトのマネをしながら、校門前でぐるぐる回りあった。腰を曲げて、手をはばたかせて、頭を上下させて歩いた。帆野歌が、豆をばらまくようなしぐさをしていたので近寄って行くと、後ずさられてしまった。くるっぽっぽー?

「多知華さんって面白い人だったんですね」

「うんうんっ、一緒にやると思わなかったよ~~」

「ずっと、お父様に『いい子』でいるように言われていましたから」

 帆野歌さんと天舞音さんにこたえる。

「お父様かあー。うちではパパって言うかな」

「おとん、だよ」

「あー私の家もパパだよ~~」

「そうなんですね。まあでも、転校しますし、いいかなって」

 奈々絵さんと天舞音さんがパパ、莉乃さんはおとんのようです。

「転校? 卒業、だよ?」

「多知華さんでも間違えることがあるんですね」

「もうすぐ卒業式ですよ~~」

「みなさんはこの学校で卒業ですよね。でも私は別の学校に転校して卒業します」

 首をかしげる莉乃さん。帆野歌さんは笑っている。天舞音さんには指摘された。

「はぁ? なんでそんなことするのよ?」

「中学からすればいいのですよ~~」

「お父様が決めたことなんです」

 奈々絵さんと天舞音さんが、自分の事のように怒っていた。

「みなさんは部活なんですね」

「そうだよ~~」

「自主練なんだけどね」

「中学でも陸上やるから、ね」

「そうなんですね。私も何かやろうかな」

「トランポリン面白いよ~~」

「ハンドボールが楽しいですよ」

「一緒に、走る?」

「ふふっ、走りましょうか?」

「じゃあ、部室までラストスパート、行っくよ~~」

「「「「はーい!」」」」

 帆野歌さんの掛け声に、私も一緒に走り出す。部室の場所は知っている。始めて行く場所だけれど。

「はっ・・・はっ・・・は・・・っ」

 走り出して十秒もしないうちに息切れしていた。

「もうすぐそこですからね」

「びゅーーん、だよ~~」

 天舞音さんと帆野歌さんは、もう姿が見えなくなっていた。奈々絵さんと莉乃さんが、遅い私に合わせて一緒に走っている。

「っ・・・はいっ!」

 なんてことのない距離なのだろう。校舎を回り込んですぐ、校庭手前の運動部の部室まで100mもないくらいだ。それでも私にとっては、心臓が壊れるんじゃないかと怖くなるほどの距離だった。

 フォームもなっていない、不格好な走りかた。

「とーちゃーく!!」

「うん、いい感じのウォームダウンでしたね」

 普通に話している二人の後ろで、ひたすらに呼吸をしていた。汗が止まらない。吐く息が白い。

「今日も寒いですから、汗は拭いてくださいね」

 帆野歌さんが差し出したタオルを、受け取る手が疲れで震えていた。

「はぁ・・・っ、ありが・・・とう、ござぃます・・・」

 切れ切れにお礼を言って汗を拭いた。

 陸上部の4人は、運動後のストレッチをしている。

 莉乃さんの体の柔らかさに見入ってしまった。人間の脚って、180度に開くんですね。その状態で膝に胸があてられるとか、すごいです。

「多知華さんも、ストレッチングしておきましょう」

「はぁっ・・・でも・・・っ、制服ですし・・・」

 帆野歌さんが私の左腕を持って揉み始める。

 汗を吸ったタオルを首にかけて、背筋を伸ばして空を見上げた。空気は、こんなにおいしいものだったのか。

 ぐぅぅぅ~~とお腹の音が鳴る。4人の視線が集まったので、鳴らしたのが私だと分かった。

「あ・・・あの、わたし、帰りますね・・・」

 恥ずかしさでどうにかなりそうだった。

「大丈夫ですよ、私たちもこれから食べに行きますから」

「そう。むしろそれが目的、だよ」

「牛丼3杯は食べすぎだって~~」

「・・・言うな、だよ」

 ばらした天舞音さんに、莉乃さんが頬を膨らませていた。

「コンビニに行きたいって言ってたよね。行こっか」

 奈々絵さんの提案に、反対する人はいなかった。

「はい、よろしくお願いします」

 もちろん私も一緒に行くことにした。

「多知華さん、授業してたの?」

「ふふっ、今日は土曜日ですよ。図書室に来ていただけです」

「あ、そうだった・・・制服だったから、つい」

 照れる奈々絵さんに、汗を拭きながらこたえた。

「多知華さんは、コンビニって行かないんですか?」

「いくひ・・・」

 行く必要がなかったと言いそうになって、さっき読んだ本の内容を思い出した。

(相手のことを考えなさい。いつも利用しているものを必要なかったと言われて、喜ぶ人はいるかしら)

「送り迎えもしてもらっていますから、行ったことがないんです」

「もう働いているからですよね」

「ゲーム作ってる、よ?」

「なんで疑問形なの~~?」

「莉乃さん、はい、作っています。今日もそれの調べ物をしていました」

「いろんな動物が出てくるゲームなんですよね」

「はい。動物たちの陣取りゲームですから、図鑑を見て調べていました」

(もっとくだけた言い方をしなさい)

 自分の発言に反省する。ため口を覚えていかなくては。

「近いところでいいかな」

 着替えを済ませて制服姿になった奈々絵さんが、部室から出てきた。

「おすすめがあるところがいいな」

 私の返事に、奈々絵さんがほころんで笑顔を見せた。今日が最初で最後だと気が付いたからだろうか。

「うん・・・ちょっと遠いけど、行こうか」

「みんなもいいかな?」

 私からの提案に、少しだけ間があった。

「いいですよ~~」

「あそこのが美味しいから、いいよ」

 天舞音さんと莉乃さんが靴を履き替えながら着替えて出てきて、一緒に行くと言ってくれた。

「うん・・・行きましょうか」

 帆野歌さんも来てくれるらしい。

「みなさん、ありがとう」

 4人の優しさに、少し涙ぐんでしまった。

「行こ行こ! お腹すいたよ」

「おすすめって何ですか」

「牛丼ですよね」

「・・・美味しい、よ」

 天舞音さんは、莉乃さんをいじるのが好きらしい。

「私はサーモンサンドです」

「カルボナーラがおすすめ~。美味しいんだよ」

「うわー、迷う。いろいろあるんだね」

 帆野歌さんと奈々絵さんのおすすめも聞きながら、私たちは学校を出ていく。目的のコンビニには裏門からのほうが近いらしく、運動部の部室を通り過ぎた先から、車の通れない歩道に出た。

 小学校の周囲は、閑静な住宅街だ。歩道を右手に運動場を見ながら歩いていく。その先の道路の向かいには神社がある。

「多知華さんは、お小遣いっていくらもらっているんですか?」

「お小遣いですか? お父様に言えばもらえます」

 帆野歌さんは、うん?と首をかしげる。

「月でいくらじゃないんですか?」

「そうですね・・・小学校に入学したときに、好きに使いなさいと渡されました。使いすぎないように、とは言われていますけどね」

「それって、いくら、ですか・・・?」

 恐る恐るたずねてくる。

「ふふっ、月で言うと・・・3千円くらいですかね~~」

「あ、そんなものなんだ、ね」

 莉乃さんは、僕のほうが多いよ~~と喜んでいたが、天舞音さんは違っていた。

「それって・・・一年のときにですよね?」

 私は、にっこり微笑んで見せた。計算したことが分かったためだ。

「子供に持たせる金額じゃないでしょ・・・」

 帆野歌さんも、信じられないと驚いていた。

 入学した日のことを思い出して苦笑いした。

「まあ、お父様ですから。渡されてすぐにお母様と話して銀行に預けたんです。誕生日のプレゼントや、お年玉ももらっていますから、もらった時より増えていたりします」

 聞いていた4人全員が、どういうことだよーー、という表情をしていた。

「あっ、じゃあさ、今日はいっぱい使おうよ~~!」

「わ、それいいね!」

 天舞音さんと、奈々絵さんが騒ぎ出した。

「ふふっ、そうだね、使っちゃおうかな~~」

「「おおーーーーっ!!」」

 5人で何を買おうか言いあいながら、目的のコンビニへと向かう。

 私の表情は、満面の笑みだった。

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