第2話 ずる休み
二限目の授業の終了を告げるチャイムとともに、クラスの生徒たちが騒ぎ始める。
教科書やノートを次の授業のものに入れ替えながら、今朝の、友則君とのことを思い出していた。
(無関係かどうかだけでも、確かめる必要がある)
そう考えて、同じクラスにいる紀子さんを探す。教卓前の自分の席から、後ろの校庭側の席を見た。彼女のほうも、自分の席からこちらを見ていた。
(私を見ている、のでしょうか)
少しだけ目を閉じて集中する。今から紀子さんと話をする。好印象を与えられるようにがんばる。
立ち上がり、彼女の席へと歩く。
紀子さんと目が合った。
「お話ししましょう」
「うん、いいよ」
紀子さんも立ち上がる。
「向こうで話そう」
「はい」
紀子さんが選んだ場所は、女子トイレだった。
「それで?」
入ってすぐの手洗い場にもたれかかった紀子さんは、私を睨むように聞いてきた。
「友則君を知っていますか?」
「知ってるかって? なんだ、告白でもされたのか」
「はい」
「まじかよ、やるねぇ」
私の返事に、紀子さんは腹を抱えて笑った。
「友則君とは、付き合いはなかったのですか?」
「あ?」
聞いた私に、紀子さんは睨みつけてきた。ない、ということだろう。
「そういう話だったら、悪いけど…」
「しかし全くの無関係だとも思えないのです」
出ていこうとしていた紀子さんは、それを聞いて足を止めた。やはりなにかあるのだろう。
「話しにくい内容ですか?」
「あんた、やっぱりいじわるだな」
悪態をつく紀子さんに、私は小さく首をかしげた。それで、どうしてですか? という意味にならないかなと、少しだけ思った。
「本当にわからないのです。どうして私を嫌うのですか?」
「え?」
紀子さんは、顔面を引きつらせる。呆れたような、哀れむような、そんな表情をした。
「あんたねぇ、別に嫌ってんのは私だけじゃないわよ?」
「そうなのですか?」
「うっわっ、マジで気づいてないのっ? あんた、『おじょーさま』もいいかげんにしなよ」
天を仰ぎ、盛大にため息をつく紀子さんを見て、私は手洗い場の鏡に目を向けた。
相変わらずの几帳面さで、一人の少女が立ち尽くしている。
(つまらない女)
すぐに視線を戻して、精いっぱいの笑顔を作った。
「ごめんなさい。私は、人間関係に疎いのです」
「あ~~うん、そうか……そうだよな」
納得されてしまったことに、泣きそうになった。
「私が嫌われている理由、教えてもらえないでしょうか?」
「あ、いや、だって……」
紀子さんは、つま先に視線を向けて、癖なのだろうか、髪の毛をかき上げる仕草をした。
チャイムが鳴る。
「……また」
紀子さんは、教室へと戻って行ってしまった。
私は、その後ろ姿を見て思う。
(いえ大丈夫。収穫はありました。少なくとも普通に挨拶くらいはできるようになったはず。着実な一歩です)
鏡の中の自分を5秒ほど観察して、あえて悲しい表情をしてみた。自然にできてしまったことに嫌悪する。
(普段の表情なのでしょうね)
泣かないように自制して、笑顔を作った。
(作り笑いでなくなる日々を求めなければならない)
頭の中の計画表に書き加えて、教室に戻ることにした。
⛓ ⛓ ⛓
授業はひどく退屈だった。
進学校だけあって一般校よりはレベルの高い内容なのだが、私にしてみれば今更のものばかりだった。それでもきちんと席についてノートを取りながら、二人のことを考えていた。
(間違いなく紀子さんは友則君のことを知っているのに隠そうとしています。……でもおそらく、何を隠しているのか、は気にしなくてよいでしょう。なぜ私が関わることになったのか、が重要です。もし、紀子さんが友則君に私を薦めたのなら隠す必要はありません。つまり二人の関係は間接である……でよいのでしょう)
黒板を見ると、世界の主な政策が羅列されていた。背中を見せている先生に心の中で謝り、後ろを向いて紀子さんの席を見る。紀子さんは、校庭のほうに視線を向けて、髪の毛先を指でもてあそんでいた。
体を戻して、今度は黒板を見ながら二人のことを考える。
(友則君は、私を相談相手に選んでいます。それはつまり、両親にも、先生たちにも、相手にされなかった、ということでしょう。紀子さんは、知っているのでしょうか。……まさか、本当に私が好きなんてことは……あるのでしょうか……?)
色々考えてみたが、どれも違うように思えてくる。
誰に何を聞けばわかるようになるのか。
誰が何を知っているのか。
誰がそれを知っているのか。
(どの時代のどんな偉人も、その答えを求めていた)
黒板に書かれている名だたる王たち。多くの人たちに影響を与えたその偉業。でも……。
(紀子さんと話したい)
授業が終わるまで、何を話すかということだけを考えていた。
(まずは『友達』にならないとねっ)
授業終了のチャイムが鳴るとともに、私は紀子さんの席へと振り向いた。
(えっ・・・? いない・・・?)
紀子さんはすでに席を立って、教室から出ていこうとしていた。
追いかけることができなかった。寂しさのほうが勝ってしまった。
(・・・帰りましょう)
今日は、早退することにした。
・・・この時の私は、本当に子どもだっと思う。彼女たちの事も、先生たちの事も、何も考えられていなかった。
教室を見回すと、お菓子とジュースを出して、騒いでいるグループがあった。
(なんて好都合)
親を心配させずに今日だけ帰り、明日は登校できる方法がある。
わざと私は、飲食している彼女たちのそばを通っていく。そして偶然を装い、机の上に置いてあったペットボトルを肘にあてて落とした。うまい具合に制服にかかりシミができる。
これで早退する口実ができた。
「あっ……! ごめんなさいっ」
お菓子を食べていた子の謝る声に、クラス中が、しん、と静まり返った。クラスメイトの顔と名前は全員覚えている。この人は確か、
「シミになってる……どうしよう……」
私の顔と制服のしみとを何度も見ながら、その女子生徒は泣きだしそうになっていた。校内での飲み食いは禁止されているので、非は彼女たちにあるためだ。
(学ぶべきは、いったい何かしら)
別の子が床に落ちたペットボトルを拾い、もう一人の子が掃除道具を持ってき
て床を拭きはじめた。
がら、と教室のドアが開いて、紀子さんが戻ってきた。そのまま何事もないように、自分の席に着いた。関わる気はないということだろう。
(紀子さん……軽蔑しないでください)
心の中で謝りながら、頭を下げたままでいる女子生徒に声をかけた。
「平気です。少し濡れただけです」
「ごめんなさいっ、本当にごめんなさいっ」
両手をあわせて頭を下げて謝っている女子生徒、名前は
「あなたは悪くありません」
「でも、私の持ってきたジュースでシミができたから」
まだ謝ろうとする奈々絵さんに、できるだけ微笑んでみた。
「野乃宮奈々絵さん、ですよね」
「はい、すいません、そうです」
ひたすら謝ろうと頭を下げる奈々絵さんに、私は彼女の手を優しくなでた。
「奈々絵さん、一緒に保健室に行きましょう」
「えっ」
奈々絵は顔を蒼白させてシミになったところを見ていた。
(ああそうか。言い間違えたな)
自分のミスに気が付いて付け加えた。
「替えの制服があるか聞かないといけないでしょう」
「……ああ、うん、そうだよね、ごめんなさい」
「いいんです。もう謝らないでください」
「いやいや、私が悪いんで」
頑なに謝る奈々絵さんに、少しおかしくなってしまった。教室の雰囲気も落ち着いてきた気がしたので、奈々絵さんの手を引いて教室を出ることにした。
「着替えがないか聞いてくるだけだから。うん、先生には私から言うよ」
奈々絵さんが一緒にいた子たちに声をかける。それをうらやましく思いながら、教室を出て一階にある保健室へと向かう。
そこで奈々絵さんは、ようやく落ち着いたようだった。手を放す。
(他人とコミュニケーションが取れることは必須条件。作り笑いはもうたくさん)
奈々絵さんは従者のように私の後をついてきていた。
保健室についた二人は、ドアを開けて中に入った。
「すいませーん。……いない、ね」
なぜか小声で、奈々絵さんは室内を見ながら言った。誰もいない。鍵が開いたままになっているのは助かったが、勝手にあさるわけにもいかない。
「体操服なら持ってるけど」
「ああ、そうですね」
奈々絵さんは、すごく顔を近づけていた。肩にしがみつくようにして話している。フレンドリーな言葉遣いに、私は自然と笑顔になっていた。
(ああ・・・いますごくこの子に意地悪したいと考えている。そんな、人の優しさに付け込んではいけない)
こんな形で早退しようとしていることへの罪悪感だろうか。
大事にされて、お嬢様と普段から呼ばれていて、ずっとそれが当たり前だと思っていた。
なにがきっかけだったろうか。
特別扱いされたくないと考えるようになったのは、いつからだったろうか。
「ねぇ、どうする?」
「授業は制服で受けたいのです」
「まあね、うん、だよね」
納得した奈々絵さんは、乾き始めた制服のシミを指先でなぞっていた。
「ほんとにごめんね」
「あのジュースって、コンビニのですか?」
聞かれた奈々絵さんが、瞬きするのがわかった。
「・・・うん、そうだよ」
「今度飲ませてください。私、コンビニに行ったことがなくて、よくわからないのです」
「もちろんだよ、新しくバナナ味が出ててね、おいしそうだったんだ」
「助かります」
「いいよぅ、ね、多知華さん、でいいかな?」
「はい、なんでしょう」
奈々絵さんはニコニコ笑顔で笑っていた。
「先生には言っておくよー、たぶん制服の替えは無いし、・・・居づらいもんね?」
その含みに、気づくことはなかった。私が学ばなければならないものだ。奈々絵さんは、私がわざとやったことに気が付いていたのだから・・・
「そうですね。奈々絵さんは教室に戻ってよいですよ」
寂しそうな表情になる奈々絵さん。でもすぐに笑顔を見せてくれた。
「うん、そうだね。多知華さん、また明日ね?」
「はい、また明日」
私もできる限りの笑顔をかえす。
きちんと笑えていただろうか、奈々絵さんはスキップするように手を振って、またねー、と教室に戻っていった。
「……はい」
かみしめる。
ひどいことをしたのは私のほうなのに、あんなにも純粋で、かわいく思ってしまった。
本当に一緒にコンビニに行ってくれますか・・・?
「はい、また明日」
保健室で一人、かみしめる。
その後、戻ってきた先生と話して、私は帰ることになった。
⛓ ⛓ ⛓
一人になって思うことは、自分がまだ自分で歩いていないという焦燥感だった。
普段は見ることのない平日の街並みを行く。
給食ぐらい食べたらよかったなと、最初の交差点に来て思う。住宅街と、昔からある神社、その茂った樹々が綺麗だった。
お昼前だからだろう、出前のスクーターが3台も並んでいた。
両親が食べないために、今までピザも、ホットドックも、ハンバーガーも、菓子パンの類さえ食べたことはなかった。どんな味なのか気にはなる。でもたぶん、お母さまが作るミートパスタのほうが美味しいと思う。どっちにしても飲食店には行けない。家に帰って待っていれば家政婦が来るから何か作ってもらおう。
ほんとうに、この時間に街中を歩くのはいつぶりだろうか。文化祭の時は、両親と車で帰った。運動会の時は、タクシーで帰った。入学式の時も、卒業式の時も、両親が送り迎えした。ああ・・・4年生の時の夏休み中の登校日以来か。あの日は、両親が日付を間違えていて、タクシー代も払うことができなかった。夏日の中を歩いて帰ったから、ものすごく心配されたんだった。日傘をもらったから覚えています。
住宅地の中の整えられた歩道を抜けていくと、自宅が見えてくる。建売の住宅から、デザイナーズマンションを通り過ぎると、個人の邸宅が並ぶようになる。そのひとつが多知華家だ。
自宅を見上げて、これは与えられたものだ、と言い聞かせる。この家も、この服も靴も、今日の夕食も、自分で手に入れたものではない。
(ではこの星は誰のもの? この身体は?)
玄関を上がって私が使っている部屋の鍵を開ける。こっちの部屋にはベッドと衣装棚しかない。普段ならそんなことはしないが、制服を床に投げ捨てて風呂場に向かった。
今この家には私しかいない。
広い家だ。こうして一人になると余計にそう思う。
脱衣所に入り、洗面台の横に立った。簡単なイスとテーブル、家族ごとに分けられている脱衣籠と、タオル、歯ブラシ、入浴剤など、きちんと分けられている網棚。そして壁につけてある全身を映せる鏡。そのカバーを外す。
白いブラウスからのびている白雪のような肌。その腕と脚。おかっぱ髪の、つまらない女がいた。
(見なさい、麻利絵。これはあなた。どれだけ否定しても、あなたは誰にも操られていない。役割分担と分裂は違う。私はあなたをいさめるけれど、支配はできないのよ)
わかってる。
冷静な自分の言葉に、わかっている、と沈痛に容認した。
鏡に映る少女のどこを見ても、自分しかいなかった。別の人間はいなかった。
「わかっています」
その目鼻立ちを、その肩と胸を、そのお腹と腰を、その両足とつま先を、何度も、何度も、ばかみたいに何度も確認した。
私しかいなかった。
悲しくて、しゃがみ込んで泣いた。
どこかで期待していたのだと、夢を見ていたのだと気がついてしまった。
私は、ずっと私なのだ。
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