変わるときは、こんなふうに。 ~~多知華 麻利絵編~~
カメとさかなのしっぽ
第1話 憧れの人
一人の少年が、細く降る雨の中を歩いている。小学校の校庭の端を、たどたどしい足取りで進んでいた。そのまま行くと体育館にぶつかる。遠目ではあったが、顔を見ることはできた。別のクラスの子だ。名前は・・・思い出せなかった。あとで調べておいたほうがいいか、少しだけ迷った。
四時半を少し過ぎた時刻。
雨だからなのか、今日は校庭で部活動をしている人はいない。
私は校舎の三階の図書室から、学年も名前もわからない少年の姿を眺めていた。
(きっと私も、あんなふうに歩いている)
図鑑を読む手を止めてまで少年を見ている理由に気がついて、きゅっと、両眼を閉じた。
ふらふらと雨の中を行く姿が、『自分』という存在への不安と重なっている。
部活動も、委員会の活動もしていない。同級生との会話は、まともにできたためしがなかった。家族とも、事務的な会話しかできていない。友達もいない。
(…これは、運命かもしれない)
雨の音を聞く。
将来を考えるとき。
良家の一人娘に生まれ育ち、偏差値平均68の有名私立校で6年間ずっと主席だった。IQ値も160ほどあるらしい。
二年前に授業中に作ったプログラムが評価されて、中学からは本格的に学ぶことを決めてはいる。ただ……。
図鑑を閉じて、自分以外誰もいない図書室を見回した。立ち上がり、図鑑のコーナーへと歩き、棚に戻した。鳥の図鑑。読んでいた理由は、製作しているゲームのため。
(遊びで空を飛ぶ人間を、彼らはどう思っているのか)
鳥たちにとっては、人が作る航空機はなんになるのだろう。本棚の隙間を歩きながら考えてみる。こういう想像を同年代の人たちよりもしていることが、友達がいない理由なのだとは思っている。話が合わない。
がらんとした図書室。市立や県立の図書館にも行くことがあるが、小学校にしては高さのある本棚が並んでいる。
自分しかいないことは分かっているが、一回りして誰もいないことを確認しておく。そして図書室を出て鍵をかけた。
お父様が校長先生に無理を言って、持っていてもいいことになった小学校のマスターキー、その予備。部活が終わる時間まで図書室にいるのは私だけなので、戸締りするのには使っている。それくらいにしか使ってはいない。
曇天の雨。窓は鏡のようになっている。
暗く静かな雨の向こうに自分を見ている者がいた。細めの双眸。あまりにもきれいに整えられすぎたボブカットの黒髪が、肩にまでのびている。まったく飾り気はない。
しばらく見つめてから、にっこりほほ笑んだ。
どうしてもそれが、自分だとは思えなかった。
⛓ ⛓ ⛓
電話をかけるために職員室に向かっていた私は、その途中でクラスメイトと出会った。
嬉しかったし、こんな同級生もいたのに知りもしなかったことを恥ずかしく思った。
彼女と友達になることが正しい行動なのかは、よくわからない。それでも嘉邑紀子さんと仲良くなりたかった。
「何の用?」
紀子さんは目が合ったまま険のある口調で聞いてくる。私は、職員室を手で示して答えた。
「家に電話をしたいのです」
「携帯でかけなよ」
「校則違反になるので持ってきていません」
紀子さんは、しばらく固まっていた。
「遠かったっけ?」
「いつも車で帰ります」
私の返答に、紀子さんは眉根を寄せた。嫌悪感か、苛立ちか、どちらにしても嫌な表情を見せた。
(これは…聞いてもいいのか…?)
少し迷ったが聞くことにした。
「帰らないのですか?」
「あーーどうしようかな」
とたんに雨の音が大きく聞こえるようになった。
「先生に用があったのですか?」
問いかけに、紀子さんは困ったように顔をうつむかせた。左のうなじが制服越しに見えた。両手をしきりに動かしながら、ちらちらとこちらを見て、何かを迷っているようだった。
(この場合は聞いたらよい。紀子さんは必要な人です)
彼女のことを知ったのは、ほんの一週間前だ。いったいどれだけ自分は一人でいたのか。自己嫌悪する。クラスでも浮いていただろうと気づいていた。
(紀子さんは、こんなにも困っている。でも、私にとって目指すべき理想的な人物です。さあ、言うのよ!)
今言わなければいけないのだと、何かに言われた気がした。
「私で…」
「あんたさあ…」
意を決して話しかけるのと、言い始めるのが同じタイミングになった。
お互いに見つめ合う。そして自然に、紀子さんが話すことになった。
「実は、その……よかったらでいいんだけど……どうしたらいいのかわからなくて……」
「困っているのですか?」
雨が、うるさい。
紀子さんはこちらをにらみつけ、声を荒げてきた。
「そうよね。あんたには一生、関係のない話だよ」
目をそらして足早に立ち去っていく。
(怒らせてしまった……どうして?)
わからない。
自分以外誰もいないかのような夕方の校舎に、雨がより激しく降り始めた・・・そんな錯覚に陥った。
追いかけて、謝って、理由を聞いて、それで…教えてくれるだろうか。
わからない。でも、たぶん、ダメな気がする。
泣いていた。
わからない。
(教えて、ください)
この答えを知るために、どれだけのことをしなければいけないのだろう。
目を閉じていた。
(紀子さんが怒った理由が知れるのならば、目を失ってもよい)
人間にとって最も多くの情報が得られる器官を失ったとしても、彼女を理解できるのならばそれでよいと思った。書籍も、画像も、メールも、動画も、風景も、見れなくなってもよいと思った。
(わからないなら、死んだほうがましです)
自分でも極端だとは思うが、それくらい必死だった。まだ子供なのだろう。
目を閉じたまま職員室の扉を開き入ろうとした。手さぐりで、雨の音がノイズになって、指先に窓の冷たさが感じられた。
(何をしているの・・・? 紀子さんの顔も見れなくなりたいのか?)
心臓の音がすごくて、じとりと、嫌な汗をかいた。
目を開けて、変わらず一人の状況を確認する。
やはり、この身体は自分ではないと思った。
⛓ ⛓ ⛓
[嘉村紀子さんの視点]
部活の自主練で残っていた私たちは、別の部でのいじめの話をしていた。
余古井 友則とかいうやつが、後輩のサボりをチクったのが原因らしい。
この学校でのいじめは、私が許さない。
やり返せばいいのにと思ったが、先生に話しておくことにしたんだが、職員室に入る手前で、あの女と会ってしまった。
親の七光りって言われている多知華 麻利絵だ。
まあ私は、こいつは普通にがり勉なだけだと思っているんだが、クラスでハブられていることに気が付いていないダメなやつではあった。
(ほんと・・・勘弁してくれよ)
自分の問題も気が付いていないやつが、他人の心配してんじゃねぇよ。
あの女は、きっと何でも自分だけで出来てしまうんだろう。
(まあ・・・不器用なだけって気もするけどな)
すこしきつい言い方をしてしまったかなと思いはしたが、別にいいだろう。
意地悪なやつはもっと、キツイい方をするのだから。
⛓ ⛓ ⛓
翌日、普段ならまだ誰も登校して来ない朝早くから学校に来ていた私は、昨日の雨の中、一人歩いていた少年を見つけた。彼は校門の壁に寄りかかって誰かを待っているようだった。
「おはようございます」
少年に挨拶する。身長は同じくらいで、童顔で中性的な顔立ちをしていた。
「あっあの! 僕、
「はい」
何やら興奮している少年――友則君に、優しく微笑んだ。自然に笑顔になれたことに内心で喜びながら、直立不動で緊張しまくっている友則君を見つめる。
「ボクとっ、つっ、付き合ってくださいッ!」
折り目正しく頭を下げて、右手を伸ばしてきた彼を前にして、少し考えた。
(昨日、紀子さんは自主的に職員室に行き、何かをしていた。同じ時間、校内には部活動をしていた人たちと、雨の中を歩いていた友則君がいた。これは偶然だろうか?)
私は、彼をもう一度見つめて、結論を出した。
「なにか、相談事があるのですね」
友則は頭を上げた。真剣なまなざしで、何かを言おうとして、やめていた。
その手を握りしめる。
「結婚を前提としたお付き合いでないのならば、お受けします」
「ありがとうございます」
友則はうっすらと涙を浮かべて、満面の笑みを見せた。
私も、同じような顔を作ってみた。頬がひきつる。
「6年の多知華麻利絵です」
「あ……6年の友則です」
改めて自己紹介した後、校内に入り、二人きりで静かに話せる場所を探した。
そろそろほかの生徒たちも登校してくる時間になる。
彼はまだ緊張しているようで、見慣れているはずの校内をきょろきょろと見まわしていた。隣を歩く私は、粛々と、構造まで熟知している小学校の廊下を歩いていく。
「えっ、ここですか」
所持している学校のマスターキー(予備)を使って開けた場所に、友則君は驚く。扉の上に突き出しているプレートには、理科準備室と書かれていた。
「ここなら、静かに話せます」
教卓を背にする。
「聞きましょう」
問われて数秒、友則君は完全に固まっていた。
「あの、その、えっと……」
慌てて口を開くが、言葉になっていなかった。
「落ち着いて。最後まできちんと聞きますから」
笑顔になるように努めて、友則君の顔をまっすぐに見つめる。
「は、はい。つまり、その、好きになってしまったのです」
瞬きをして、友則君を見つめた。冗談ではないようだ。真剣な表情をしている。
(もし私に恋愛事は無理と思われていたのなら、侮辱ね)
ステンレスのテーブルへ手をついて、彼から少し離れてみた。流し台に視線を移動する。石けんと雑巾が置かれていた。
「友則君」
「っっひゃい」
裏返った声が聞こえた。
「『わかりました』」
「え」
向き直り、見つめられて、友則君は驚いた表情を見せていた。優しい微笑みになるように何とか顔を作る。
「行きましょう」
目を白黒させてワタワタしている友則君の手を取って、理科準備室から廊下へと出た。
「え、ええ?」
「よろしくね」
足をもつれさせて何度も瞬きをしている友則君に、私は、にこりとほほ笑んでみた。
クラスが違うので階段で別れた後、担任の先生である
「多知華さん、ちょっといいかしら」
先生が私の前でしゃがみ込み、目の高さを合わせてきた。
「がんばりすぎないようにしてくださいね」
「先生・・・?」
「多知華さんは、何でも一人でしようとするところがあります」
私は、先生の顔を見た。とても真剣な、優しい表情をしていた。
「『自分の時間』を大切にしてください」
「先生・・・でも、私は――」
多知華さん、と強く言われてしまい、続く言葉は言うことができなかった。
「本当に誰かを想うのなら、心配させないようにしましょうね」
「・・・それは、教育者としての意見ですか?」
冷たい言いかただとは思ったが、認められて努力していることを否定されたみたいで嫌だった。
美弥子先生は、そんな私に真剣な表情で、しかし優しくこたえてくれた。
「友人として言っています。もっと私たちを頼ってください」
「そんなこと・・・私がやらないといけないことだから・・・」
わかってはいる。けれども。だけど。それが”多知華麻利絵”なのだ。
「言い方を変えます。『子供なんだから遊びなさい。大人になったら遊べなくなります』」
私はびっくりして美弥子さんを見つめた。今までの将来の事や、ゲーム開発の仕事に関する話など、相談にのってくれた人のアドバイス。どう意味なのか考える。
「美弥子さん」
「はい、麻利絵さん」
「私は、『女の子』になっていいんですか?」
「はい。麻利絵さんは、女の子ですよ」
「わたしは・・・」
言葉にはならなかった。涙がこぼれていた。ずっと『いい子』でいた。いなくちゃいけなかった。ああでも。なにが特別だ。誰が優秀だ。
(子供は遊びなさい、か。先生の言うことじゃないな。誰が言っていたかな。昼休みがある理由、ですか)
私はずっと、図書室にいたのだったか。
話が合わなくなるのも当然だった。
「・・・先生」
「はい」
言葉にすることはできなかった。
他にしなきゃいけないことがあるだろうに、私が泣き止むまで、美弥子先生は、ずっとそばにいてくれた。
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