第39話
アレクの実家の山まであと二日。あと二日も歩けばアレクの生まれ育った山に入るーー、その位置にある村の宿泊所で、イザングランは寝込んでいた。熱が出て、呼吸も荒いが喉の痛みはなく、食欲が落ちなかったのは幸いだと言えるだろうか。
イザングランが旅の道行をゆるめると決めてから逆にトントン拍子で旅がうまくいき始じめた。このままいけば実家は無理でも、山に踏み入るくらいはできるのでは、と期待していた矢先に熱を出してしまったイザングランは自分が情けなくて仕方なかった。アレクはぴんしゃんしているのに、と比べるのも
ノックの音がしてアレクが入ってくる。朝にイザングランが目覚めた時にはいなかったアレクだが、村でなにがしかの頼まれ事をこなしては様子を見にきてくれた。今も服の繕いを頼まれ、それを終えて戻ってきたのだった。
「イジー、瓜もらったんだ。食べるか?」
「たべる……」
アレクの
これまでの道のりで、獣や魔物獣を狩って毛皮や肉を売ったり、珍しい薬草や木の実、茸を採集しては売ったり、と学園を出た時の所持金より多くなったのに、自分が熱を出したせいで、とイザングランは自己嫌悪する。滞在が長引けばその分、費用もかかる。迷惑をかけている。
「ごめん……」
「気にするなよ、初めての長旅だったんだから」
起きている間は
「ここまで体調を崩さなかったのが不思議なくらいだよ」
言って、アレクがイザングランの額の濡れた手拭いを水に浸けてしっかりと搾り、またイザングランの額に戻す。ひんやりとして気持ち良かった。
枕元でアレクが瓜を切り始めた。ほのかに甘い香りがする。
「雨も降りっぱなしだし、休むのにちょうど良かったよ」
アレクが瓜を切る音の他には雨の音しか聞こえない。昨日の夕方から降り始めた雨は今もまだs降り続いている。この雨さえなければ、とイザングランは恨めしい気持ちで窓の外を見た。どんよりと暗い雲が空を覆い、滝のような雨を降らせていた。
夏休みの残り三十日を目前にした昨日の昼過ぎ、村へ着いたイザングランはもうすぐアレクの山だ! と張り切っていた。張り切りすぎじゃないか、と微苦笑するアレクが宿泊所を借りようと村の中心へ向かう。
なにせ旅人など滅多に来ない田舎の村なのだ。たまに訪れる旅人や商人は村が管理する公会堂を宿代わりにするのがほとんどだった。自分の知っている様式とは違う家々をきょろきょろと物珍しそうに見物するイザングランとは違い、何度も訪れたことのある村だ、アレクは迷うことなく公会堂へと歩いていく。その途中で村人がアレクに声をかけてきた。
「やあ、アレクじゃないか。久しぶりだな、里帰りかい?」
日に焼けた男は農夫らしく、腕などイザングランの倍はあるかという太さだった。
「うん。うちまで行けるか試してるとこ」
「ふうん?」
「公会堂を借りてもいいか?」
「ああ、大丈夫だよ」
アレクの連れているイザングランと、イザングランの連れている機巧馬に興味を示した農夫は、無遠慮に視線を寄越してくる。ほんの少しだけそれに気後れしながら、イザングランは会釈した。
「ちょうど良かった、またラシマを追い払ってくれないか? 昨日から被害が出始めててさ、ちょうどルーカスさんに頼みに行こうかって話が出てたんだ」
「報酬はどんなもん?」
「いつも通り買い物代金割引でどう?」
「じゃあ数もいつも通りか」
農夫の言ったラシマという獣を脳内魔物獣リストで探していたイザングランをアレクが見る。残念ながら検索には引っ掛からなかった。
「イザングランはやりたいか?」
「そうだな……」
正直なところ、気乗りはしない。けれども、ラシマを見たい、という好奇心もあった。
「獣退治は本来なら冒険者ギルド等に依頼するものだろう。僕たちは学生で、しかも僕は獣に詳しくない。加えて明日にはこの村を発つつもりでいるが、退治が長引けば滞在日数も増えて支出も増える」
「すごいしっかりした子だな……」
あからさまな子ども扱いにむっとしたが、イザングランは黙っていた。しかし表情でそれを悟ったらしい農夫は悪かったよ、と軽く謝ってやはり無遠慮にイザングランの頭を力強く撫でてきた。おかげでぐしゃぐしゃになってしまった髪を整える。
「そんなに時間はかからないと思うよ。ラシマは誘引香を焚けばすぐに寄ってくるからそこを叩くんだ。山に行かなくてもいいし、一度痛い目を見れば三ヶ月は畑に近寄らなくなるから、楽は楽なんだけど、いかんせん数が多くてね。いつもはルーカスさんに頼んだり、人手に余裕があれば村のみんなで追い払ってるんだけどね、ほら夏はどの家も忙しいから」
祭り大好きだもんなあ、とアレクが笑う。
「当たり前だよ、みんな祭りのために一年を生きてる」
大真面目に言い切って、農夫は豪快に笑った。どうやら村人は祭りに向けて準備をしているらしい。それでいいのか? 人の優先順位はいろいろあるんだな、となぜだか無断で人に薬を盛る猫耳っ大好き変態を思い出してしまい、頭を振る。
「三ヶ月に一度襲われてしまうなら殺してしまえばいいんじゃないか?」
「かわいい顔して、結構物騒な子だなあ」
殺さないよ、と農夫はゆったりと首を横に振る。
「山神様の使い出し、虫も食べてくれてるんだ。ラシマの数が減ると今度は虫が増えてね、畑がひどいことになるんだ。虫を相手にするよりラシマを相手にした方がまだ楽だからね、脅かして帰ってもらうんだ」
「なるほど」
世の中には書物で読んで知識としてわかったつもりになっていることがたくさんあるぞ、とイザングランは再確認した。うん、とひとつ頷いて、イザングランはラシマ退治を請け負ってみることにした。農夫は喜んで、ラシマ退治のコツを伝授してくれる。
「基本は殴ったり蹴ったりだけど、大きな音を出すのも効くし、ラシマが嫌うミカホオの実を煮汁をぶっかけたりも有効だね。獣だから火も怖がるよ」
「殴ったり蹴ったりはできそうにないが、大きな音、火なら魔術でなんとかできそうだな……」
「君、魔術が使えるの?!」
大仰に驚いた様子の農夫にイザングラン方が驚いた。アレクがそうなんだよ、と笑う。
「あ、ああ。使えるが……」
「すごいねー! この辺じゃ生活魔術を使うのがせいぜいだよ」
「イジーは応用魔術の成績が学年一位なんだぜ」
「へえ! ますますすごいな!」
「なんでアレクが自慢げなんだ……」
手放しでアレクに褒められて、イザングランは照れた。赤くなった顔を見られないように隠せば、アレクも農夫も二人してニマニマと見てくる。
「ラシマ退治するんだろう! 場所はどこだ、教えてくれ!」
居た堪れなさが爆発したイザングランだった。
結論から言えばラシマの撃退はこれ以上ないほど上手くいった。イザングランの予想よりもずっとラシマの数が多かった以外は。
誘引香を焚いて一時間もしない内にやってきたラシマを、アレクは腕力、脚力、体力で、イザングランは魔術を使って火柱を立てたり、火球を出したりして撃退していった。
すべてのラシマを追い払った後のイザングランはもうほとんど魔力が空になっていた。ラシマの気配が完全になくなって、安堵とともにへたり込む。念のために持ってきていた魔力回復の出番はなかった。とはいえ、休む間もない波状攻撃をさばいていたので、飲む暇がなかったとも言う。
「つ、疲れた……。へとへとだ……。テーリヒェン師のしごきと同じくらいキツイ……」
「お疲れさん。帰って美味いもんでも食おうぜ」
「ああ……」
今にも魂が抜け出しそうであったし、膝が大笑いをしだす寸前であったが、イザングランはそれでも一人で立ち上がった。すん、とアレクが鼻をひくつかせる。
「雨が降る前に終わって良かったよ、さっさとお香を消して――」
雨のにおいでもするのか? とイザングランが空を見上げたその時である。ポツ、と頬に冷たい水滴が落ちてきた。そしてその次の瞬間には空を見上げたままではいられないほどの豪雨が二人に降り注ぐ。
「うわっ、降ってきやがった! 帰るぞ、急げイジー!」
「わ、わかった」
雨の勢いで、香は消さずとも勝手に消えた。アレクに腕を引っ張られながら、イザングランは自分の体がほとんど動かないことに気づく。これからは魔力回復薬だけでなく、体力回復薬も持とう、とイザングランは決めた。
宿泊所で二人を待っていたらしい農夫が出迎えてくれた。
「二人ともおかえり、お疲れ様。怪我はないかい? いやあ、見事に濡れ鼠だ、災難だったね。ときどきあるんだ、この辺では。冷えただろう、つけたばかりだけど、火にあたるといい」
「ありがとう、大丈夫……へくち」
「かわいいくしゃみだね」
ありがたく火が赤々と燃えている暖炉に当たらせてもらって、イザングランはかわいくない、と反論した。またくしゃみが出る。
「服を脱いじまえ。冷たいだろ」
「うん……」
そう言われて濡れた服を見る。けれどなぜかアレクの前で脱ぐのが恥ずかしい気がして、イザングランは火に当たったままでいた。生活魔術を使えばすぐ乾かせるのだが、それだけのために魔力回復薬を飲むのはもったいない気がする。
「ラシマを追い払うのはうまくいったんだろ? 助かったよ。スープを用意したから夕食に飲んでくれ。拭くものもチェスト中にあるから、自由に使ってくれ」
「ありがとうございます」
イザングランも礼を言った。お大事にね、と農夫は帰っていく。扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた。
二人きりになってしまうと、不思議と落ち着かなくなってしまった、イザングランはもぞもぞと意味もなく身動ぎした。
「えーと、着替えてくるからイジーも着替えろよ」
「わかった……」
着替えを持ってアレクが衝立の向こうに消えた。聞こえる衣擦れになぜかドギマギしてしまう。のろのろと着替えて、イザングランはすぐに暖炉の前へ戻った。屋根や窓を強く叩きつける雨の音がいやに響く。衝立の向こうからアレクの声がした。
「イジー、着替えたか?」
「きがえた……」
暖炉にゆらめく火を見つめたまま答えたイザングランにアレクが寄って来て、額に手を当てる。イザングランはぼんやりと赤く照らされるアレクの瞳を見ていた。
「元気ないな、大丈夫か?」
「だいじょうぶ……だとおもいたい……」
ちょっと熱っぽいな、と呟いてアレクはスープをイザングランに渡してやる。熱々のそれを両手で受け取り、行儀が悪いがそのまま暖炉の前でちびちびと飲んだ。熱くて、美味しい。体が温まった気がした。毛布を取り出してきたアレクがイザングランに巻き付ける。
「もしかしたら今までの疲れも出てるのかもしれないな。ここまでほとんど野宿だったもんなあ」
「……そう、なんだろうか……」
それに加えて限界まで使い果たした魔力に体力、雨に濡れて体を冷やして、と体調を崩す原因が揃っていた。
「うう……。ふちょうをみとめたくない……」
あともう少しでアレクの山なのに。そう思う心とは裏腹に体が震え始めた。
「もうだいぶ悪そうだな。それ飲んだら寝ちまおう。どうだ、寒いか?」
「……さむい」
だよなあ、と笑うアレクに空になった器を渡して、イザングランは立ち上がった。よろよろと歩きながらベッドへ行こうとすれば、素早くアレクがそれを介助した。間近に感じるアレクの熱にイザングランはほう、と息を吐く。
「あれく、あったかい」
「そっかー。ほら、ベッドに着いたぞ。気持ち悪いとかないか」
「ない……」
潜り込んだベッドはひんやりと冷たかった。体を縮こませると雨の音が強くなった気がした。
「魔力が空なのも悪かったんだろうな。魔力回復薬、少し飲んどくか」
「うん……」
小瓶の中身を三分の一ほど飲ませてもらって、イザングランはベッドに沈んだ。
そうして翌日も熱は引かずにずっとベッドの中にいる。雨も止まずに降り続いていた。イザングランは今すぐ泣き出したい気分だった。
「ごめん……」
「謝らなくていいって」
アレクがやさしくて、だから余計に自分が情けなくて、涙腺が緩んでくる。じわじわと歪む視界がさらに情けなかった。
うまく動かない体を起こしてもらって、切ってくれた瓜を食べさせてらって、また寝かされる。とうとう情けなさが限界に達して、イザングランの眼から涙がこぼれた。
「ごめん……」
「んひひ、どうしたよ。ずっと謝ってるな」
やさしく頭を撫でられ、眼にかかった髪を払われた。ますます涙が溢れてきて、アレクが困ったように笑う。
「今日一日しっかり休めば明日にはきっと元気になってるさ。雨も明日にならないと止まないしさ」
そう言って慰められても、イザングランの考えは悪いほうにばかり転がって行く。洟をすすりながら、もし熱が下がらなかったら、とか細く訴えたイザングランをそんなに心配するなよ、アレクはと笑い飛ばす。
「そしたら明日もゆっくり休めばいいだろ。元気になったら出発すればいいんだ」
「だって、せっかくあれくのやままでもうすこしなのに……」
「俺の家は逃げないんだから、来年また挑戦すればいだろ? それに、実はイジーがここまで来れるとは思ってなくて、山に入る装備を持ってきてねえんだなー、これが」
あっけらかんと放たれたアレクの言葉にイザングランの涙が引っ込んだ。
「ひどい。ぼくはちゃんとのぼるつもりだったのに。ひどい」
ばか、ばか、とかわいらしく自分を罵るイザングランの髪を少しばかり乱雑に撫でてやって、アレクはごめんごめんと平謝りをする。
「悪かったよ。来年はちゃんと持ってくるから」
「ぼくだって、つぎはねつをだしたりなんかしない」
目尻に残る雫を拭われて、イザングランは熱でうまく回らない頭が弾き出した結論でもってアレクを責めた。
「ひどいアレクは僕の言うことを聞くべきだ」
「そうだなあ、ごめんなイジー。もう一個瓜を貰ってくるか?」
「いっしょにねて」
「……うん?」
「いっしょにねて」
駄々っ子のように頬を膨らませけれどおずおずとアレクの袖の端を昨夜と同じように掴む。
「きのうは、いっしょにねてくれた」
「昨日はー……あー、寒いって言ってから。でも今は熱いだろ?」
たしかに体は熱かった。けれどアレクと一緒に寝るのだ、とイザングランはさらに頬を膨らませる。
「あついけど、いっしょにねるの」
まるで頑是ない子どものようなイザングランに、小さく吹き出したアレクはとうとう根負けしてはいはい、とイザングランの隣に収まる。
「あれだな、イジーは熱が出ると子どもみたいになるんだな」
「ぼくはこどもじゃない」
「そっかそっか」
イザングランはむくれながら額に乗っている濡れ布巾に魔術をかける。水分は飛ばして、けれど冷えは持続するように。これでアレクにくっついてもアレクの服を濡らさないで済む。
「こーら。体調の悪い時に魔術を使っちゃダメだろ」
「もうつかわない」
イザングランの大好きな匂いに顔を埋めて、収まりの良い場所を探す。しばらくぐりぐりと顔を動かしていたイザングランは、その内に深い寝息を立てて動かなくなった。アレクは安らかな寝顔を自分に披露するイザングランのさらさらとした黒髪を梳いた。
「どんどん可愛くなってないか……?」
いやでも、とアレクは無駄な抵抗を試みる。もうとっくに手遅れだと知りながら。
これだけ可愛い生き物なのだから、かわいいと思うのは自分だけではないはず、となんの解決にもならない結論を出して、アレクもまたイザングランの温もりを感じながら目を閉じた。
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