第38話

 アレクの実家がある山を目指して歩きながら、イザングランは自分の体力のなさを痛感していた。

 一日中歩くのが初めての経験で、仕方ないとはいえ、隣で平気な顔をしているアレクとは天と地ほどの差があった。

 どうしても歩けなくなれば、機巧馬に乗ればいいと考えていたが、それも甘かった。乗馬にも体力を使うのだ。機巧馬の背にゆられているだけでもひどく疲れてしまって、イザングランは荷物にすらなれなかった。

 イザングランの限界を悟ったアレクがちょくちょく休憩を設けてくれるから、倒れずに済んでいる。今も休憩に適した場所を見つけたアレクに腕を引かれ、木陰で休むことになった。山の麓にさえ近付いていないのに、情けないことこの上なかった。

 もちろん、イザングランだって最初からアレクの実家まで行けるとは考えていなかった。けれど、行きたい気持ちは本当にあったのだ。

 アレクの父と弟に会って話をしてみたかったし、アレクがすごした家がどんなものかも見てみたかった。

 コールズ学園を出発して一週間。夏休みはまだあと二か月あるが、その半分は帰路に使わなくてはならない。あとひと月でどれくらい行けるだろう。

 淹れてもらった茶を暗い気持ちですすっていると、アレクに肩を叩かれた。


「そんなに思いつめなくて、大丈夫だって。目的は野外活動だろ、のんびり行こうぜ」

「ああ……」


 明るくアレクに言われて、イザングランも笑い返した。気を使わせている。気分が落ち込みそうになるが、むりやり顔を上げた。

 自分の我がままで夏休み中、アレクに付き合ってもらうのだから、落ち込んでいる場合ではない。今年が無理でも、来年また挑戦すればいいのだ。


「早めの軌道修正は大切だな」

「うん? そうだな」

「という訳で明日から知識の収集と習得と実践にまい進しようと思う!」

「お、おう……?」


 ここ一週間は道行きを急いで効率を重視するあまり、ほとんどの雑事をアレクに任せっぱなしにしていた。だが、急ぐ必要はない、と気付いた。来年のためにも旅のあれやそれやを、イザングランも覚えるべきだ。

 茶を飲み終えた二人分の茶器を生活魔術で洗い、乾燥させてリュックにしまう。気合も新たにリュックを背負った。


「今日のまき拾いは僕がやるからな!」

「お、おう。頼んだ」


 それから夜の煮炊きするためのたきぎをアレクに教わって、拾いながら道程を進み、夕暮れが近付いたのでやはりアレクに教わり野宿に適した場所に腰を下ろした。

 魔術を使わず火を点けるのに手間取ったが、無事に夕飯を作れたのでよしとする。夕飯は日中歩いて流した塩分を補給するための塩スープと、焼き締めて腐りにくくした乾パンだ。スープに干し肉と乾燥させた野菜も入れたので、彩りは悪くないが新鮮なもの、やわらかいものも食べたくなった。


「食料がなくなったらどうするんだ?」

「買うしかないな。薬草取ったり、獣を狩って肉や毛皮を売ればなん食かは賄える」


 夕飯の後片付けを済ませ、人除け、魔物除け、虫除けの角灯ランタンに魔力を十分に込めて、イザングランは寝具の毛布をリュックから引っ張り出した。


「アレクもそうやってコールズまで来たのか」

「おう。けっこう大変だった」

「そ、そんなにか……」


 アレクが言うなら、そうとう大変だったのだろう。果たして、自分はアレクの足手まといにならないですむのか、そんな不安をかき消すようにイザングランは己の身体に毛布を巻き付けた。季節は夏でも、夜は冷え込む。

 機巧馬の傍らに身を横たえ、見上げた夜空には、コールズよりもよく見える星たちが広がっていた。


「アレク、………もしかして、冬に旅をするなら機巧馬より生きた馬のほうがいいんだろうか」


 固くて、なんの温かさも感じない機巧馬では、暖を取れない。夏だからいいが、冬であればとてもじゃないが隣で寝られず、風除けにできないだろう。そうだなあ、とアレクも毛布を用意する。


「そもそも冬に旅するのはあんまオススメできねぇなあ。夜は天幕がないと凍え死んじまうし、薪も余計に要るし。ひどい吹雪になれば遭難しちまうし」

「そうなのか……」


 まだ冬の気配が完全に去りきらない頃に、コールズ学園まで徒歩の旅をした人間がなにか言っている。とはいえ、イザングランは冬に旅するはやめておこう、と心に決めた。


「そういえば、まだ天幕の張り方を教わってない」

「お、じゃあ明日は天幕を張ってみるか」

「ああ。他にできる雑事は全部やってみたい。行程速度は落ちるが、かまわないか?」

「俺はいいけど。そんなにいっぺんにやって大丈夫か? 歩くだけでも疲れてるだろ?」

「だから、……少しゆっくりにする。情けないが、今の僕ではアレクの健脚にまったく敵わないからな」


 恥ずかしさからイザングランは顔をそむけた。いくぶん間があいて、アレクが弾けたように笑い出す。


「そんなに笑わなくてもいいだろう。これでも、前よりはずっと体力がついたんだぞ」

「ああ、いや、ごめん。バカにした訳じゃなくてさ、なんだろうな」


 まだ笑いに肩を揺らしながら、アレクもやわらかな下草の上に寝転がった。イザングランとは違い、寒さに強いアレクの毛布は体にかけただけだ。ころころと転がってきて、イザングランのすぐそばまでくる。

 ランタンと弱い焚火の明かりだけではよく見えないが、呼気がすぐ近くでした。それから爽やかなアレクの匂いも。


「俺にあわせようとしてくれてるイジーが、健気だなー、がんばってるなー、って思って。ええと、それから……」

「それから?」

「……怒んねぇ?」

「内容による」

「そこは怒んねぇって言うところだろ」


 アレクがまた動いた。わずかばかり空いた隙間を埋めるように、今度はイザングランが寝返りをうった。


「言うだけ言ってみたらどうだ。どうせ僕が怒ったところで、たかが知れてる」

「それ、自分で言うかあ?」


 楽し気な、嬉し気な、笑いを含んだ声音がイザングランの耳をくすぐった。

 アレクに忠告や、苦言を呈してもそれは怒りくるものではない。一度、アレクと大喧嘩をしてしまったこともあったが、あれも怒りからきたのではない。思えば、イザングランがアレクに本気で怒ったことなど一度もなかった。


「たぶん、僕はアレクに怒ったりできないと思う」


 だって、と言いかけて、イザングランは首を傾げた。だって、なんだろう。なんと続くのだろう。


「イザングランはやさしいもんなあ。心が広すぎてありがたいけど、ちょっと心配になる」

「安心しろ、おまえにだけだ」

「……そっか」


 なにか、のどに詰まったような返答だった。夕食の乾パンが今ごろ食道に詰まったのだろうか。


「それで、さっき笑った理由は?」

「まだ覚えてたのか、それ……」

「当りまえだ。言いかけたのはそっちだろう」


 このままうやむやにする気か、とイザングランはアレクの毛布の端を引っ張った。


「……怒んねぇ?」

「内容による、が、アレクの言うことだし、大丈夫だろう」

「そっかぁ……」

「言ったろう。おまえ相手だと僕は怒ったりできないんだ」

「そっかぁ………」


 寒さに強いとはいえ、やはり夜は冷えるのだろう。アレクは毛布を顔まで引き上げて、外気を遮断した。


「ほら、怒ったりできないから、さっさと言え」

「……ウン……ちょっと待ってくれ」

「わかった」


 ちょっと、とはどれくらいだろう。イザングランは星空を見上げて、アレクの言葉を待った。

 烏の月に入ったばかりの夜空には、真ん中に烏座と、その両隅に獅子座と、狼座が見えた。他にも星座はあるが、一番分かりやすいのがその三つだった。

 狼の月らいげつまでは麓に着きたかったが、おそらくそれは難しいのだろう。旅の生活に必要な事柄を覚えて帰れればいいか、とイザングランは隣の毛布を見た。


「まだか?」

「……まだ」

「わかった」


 再び夜空に視線を移して、イザングランは星座を眺める。それから明日の予定を考える。明日はアレクと同じくらい早起きをして、朝食を作って、生活魔術で洗い物を終えて、と朝から忙しいのだ。時間はかかってしまうだろうが、アレクは構わないと言ってくれたし、とにかくがんばろう。

 それから、休憩をこまめに取って、体を休めている間に、アレクにいろいろ教わって……。

 つらつらと予定を考えている内に、瞼が重くなってきてしまい、イザングランはなんとか起きていようと瞬きを繰り返す。そこへアレクが手のひらをかざして目を閉じさせ、おやすみ、と声をかけてきたものだから、イザングランはあっさりと夢の中へ旅立ってしまった。

 すうすう、と立てられる規則正しい寝息を聞き届け、アレクも寝る体勢に入った。


「起きたら忘れててくんねぇかなあ……」


 懐かれているとは思っていたが、まさかここまでとは、とアレクはようやく熱が取れてきた顔を手であおいだ。まるでアレクだけがイザングランの特別だと言われたようで、体中が熱くなった。それなのに毛布を引っかぶったのだから、バカだなあ、と自分に苦笑する。


「かわいいなあ、って思ったよ」


 アレクは穏やかに眠るイザングランの、さらりとした黒髪をなでて、目を伏せた。

 弟のクルスと年が近くて、背も小さくて、だから弟のようだと思っていた。


「かわいいって、思っちまったんだよなぁ……」


 まだ母が生きていたころ、どうして父と結婚したのか聞いたことがあった。聞かれた母は陽だまりのような微笑みを浮かべて、アレクの頬を撫でた。それはね、とうんと柔らかく、蜂蜜よりも甘い声で歌うようにアレクに言って聞かせた。


「ルーカスがとってもかわいかったからよ」


 くすくす、と少女のように笑った母に、父のどこがかわいいのかまったく分からなかった幼いアレクは、まるで熊のように筋骨隆々で無精髭を欠伸しながら剃っている父を見て首を傾げるしかないのだった。


 もう少し、かわいくなるのおさえてくんねぇかな。


 誰にも聞かせる気の無いアレクの独り言は満天の星空にとけて消えていった。

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