第3話

 果たして同室者アレクとうまくやっていけるのかどうか。

 イザングランのほのかな不安とは裏腹に、二人の寮生活はそれなりに快適にすぎていった。

 朝の弱いイザングランとは違い、ほとんど朝日と共に起きるアレクに不用意に起こされることはなかったし、男女の性差も生活に影響を及ぼすことはなかった。

 それは偏にアレクのおかげだったろう。

 あれでいて気を使える人間だったのだ、アレクは。

 ふだんは生活費を稼ぐためだとかであまり部屋にいないし、いても読書をしているイザングランの邪魔することはなかった。けれど、時々食事を忘れるほど本に熱中していると襟首を掴んででも食事に引きずっていく。

 そういったアレクの絶妙なお節介のおかげで、イザングランは他の生徒に見られがちだった体重の増減や体調不良とは無縁でいられた。

 寮生活が始まってひと月もしないうちに、アレクが同室者で良かったと思うようになっていた。


 風呂から上がって、共有スペースで本を読んでいるイザングランに、同じく風呂から上がって来たアレクが声をかけてきた。


「こら、ちゃんと髪はふけよ。大切な本が濡れちまうぞー」


 言いながらイザングランの髪を拭うアレクは、鼻歌を口ずさみご機嫌だった。

 本を読んでいたいイザングランは視界に入り込むタオルがうっとうしくて、風と熱魔術を応用して早々に髪を乾かした。

 これで静かに読めると、続きを目で追ったイザングランだったが、今度は櫛で梳かされる。


「イジーの髪は細いしさらさらだよなー」


 言外に子どもみたい、と言われた気がして、知らずイザングランの眉間に皺が寄った。


「黒くてツヤがあって、からすみたいだ」


 ルナール帝国では屍者、つまりは敗者に群がる鳥だとして不幸や浅ましさの象徴として嫌われている。

 アレクからは悪気は微塵も感じないが、イザングランの機嫌は下降した。

 それに気付かないらしいアレクは続ける。


からすってさー、賢いんだぜ。畑を耕すとすぐに降りてきて虫をつつきにくんの。俺らの顔も覚えてるみたいでさ、ぜんぜん逃げねえし。

 前に助けてやったやつだと思うんだけど、未だに近くに寄ってくるやつもいてさ。見えにくいけど目がくりっとしててかわいいからさー、ついついパンくずとかあげちまって。よく親父に怒られた。仲間を呼んで来ちまうだろ、って」


 イザングランの髪を梳く手つきはやさしく、話す声は穏やかだった。

 うとうとと舟をこぎ始めるイザングランの首に水滴が落ち、慌てて背筋を伸ばす。


「あ、ワリ」


 人の髪はぬぐうくせ、自分の髪は放っておいたのか、と何故だか腹を立てたイザングランは、アレクの腕を引いて強引に座らせた。

 タオルで乱暴に拭くと、アレクから抗議が上がる。


「いた、イタタ、痛いって、イジー! もう少し力抜いてくれ!」


 誰かの髪を拭うなんて初めてなのだから仕方ないだろう、と鼻を鳴らして自分の時と同じように魔術を使う。

 瞬く間にアレクの髪は乾いていった。


「おおー」

「こんなのは初歩中の初歩だ」

初歩それすらできない俺からすると十分すげえって」

「………」


 僕は照れてなどいない。


 そう自分に言い聞かせながら、アレクから奪った櫛で金髪を梳く。


「イダッ! 刺さってる! 刺さってるぞイジー! 力抜けって言ったろ?! 頭の形を考えて?!」


 喚くアレクに眉を顰めても、櫛から手を離すことはなく、たどたどしく金髪を梳いていく。


「おお、上手い上手い。いやー悪いなー。上流階級のお坊ちゃんイジーにこんなことしてもらっちゃって」

「……馬鹿にしてるのか?」

「イダダダダ! だから刺すなって言ってるだろ?! バカにしてねえし!」


 涙目になってイザングランから逃げるアレクは、両手で頭を防御ガードした。


「将来ハゲたらどうすんだよー……。ただでさえ親父の額がヤベーってのに」

「それはそれは。ご愁傷様だったな」

「ヤメテ?!」


 実父の髪は豊かであるので、そういった心配はイザングランにはない。

 ただ、父方の祖父の肖像画は不自然な髪形が印象に残っていた。まるで毛の束を頭に乗せているような………。


「ふだんしねーことさせちゃって悪かったなー、って言っただけだろー。そこまで怒ることねーじゃん」


 確かに、とイザングランは思った。

 アレクの言う通り、そこまで怒りを覚えることではない。おまけに八つ当たりのようなことまでしてしまった。

 考え込むイザングランに、アレクは少し慌てたようだった。


「俺も言い方が悪かったよな、ごめんな。次からは気を付ける」

「………」


 アレクの大きな手が、イザングランの頭をぽんぽん、と軽やかに跳ねた。


「明日は薬草学だっけ? まともに受けられる授業があって助かるぜ」


 やれやれ、といった風にアレクは時間割りに目を通してベッドへ登って行った。もう寝るつもりらしい。


「ありがとうな、イジー。おかげで枕が冷たくねえや」

「こっちのセリフだ。

 ……ありがとう。それから、悪かった」


 それだけ言うと、さっさと灯りを消して、イザングランは逃げる様にベッドへ潜り込んだ。


「ええー……。言い逃げかよー」

「うるさい。寝ろ」


 衣擦れのあとに、木の軋む音がする。

 もしかしなくとも、アレクがベッドから下りている音だろう。

 灯りは全て消えて真っ暗だというのに、迷いなく歩けているようだった。


「失礼しますよーっと」


 寝るときは二人のベッドを隔てるカーテンが揺れる音がし、次いでイザングランのベッドにかかる梯子が小さく軋む。

 イザングランは起き上がり、暗闇に目をこらしてみたが、何も見えない。

 すぐ近くにアレクが来ているのだろう。息遣いはわずかに聞こえるものの、それ以外は何も聞こえなかったし、見えなかった。


「イジーはありがとうもごめんも言えてえらいな。よしよし」


 やわらかな声と共に頭を撫でられた。

 声とは違い、硬くてごつごつとしていたが、手つきはこの上なくやさしい。


「…………めんどうくさがらず灯りをつけろ」

「え、だって見えるし」

「僕は見えん」

「いいじゃん。もう寝るだけだろ。おやすみ」

「………おやすみ」


 髪を乱した手が、再び髪を整えて離れていく。

 きちんと己のベッドに戻れたらしく、遠く衣擦れの音を聞きながら、イザングランはほんの少し前までなでられていた箇所に触れてみる。

 当然、そこには自分の髪しかなかった。


 何をやっているんだ、僕は。


 急に恥ずかしくなったイザングランはシーツを被った。

 寮の室温管理は完璧であるはずなのに、ひどく顔が熱い。

 イザングランは今夜のアレクがどんな顔をしていたのか、そればかりが気になってなかなか寝付けなかった。

 それでも知らぬうちに眠りについていたイザングランは、その日アレクに頭を撫でられる夢を見た。

 まるで本当に撫でられているようだ、とゆるやかに覚醒したイザングランの寝ぼけ眼が一番に目に入れたのはアレクの顔面だった。

 イザングランは寸での所で叫ばずにすんだ。

 だいぶ嗅ぎ慣れてきた匂いが鼻をくすぐる。

 どうやら茶を淹れて、わざわざベッドまで運んでくれたらしい。


「この前とブレンドを変えてみたけど、どうだ?」

「………」


 顔いっぱいに期待するアレクには悪いが、やはり不味かった。

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