第一部 

ノーア


 ノーアは川辺に腰を下ろしていた。

 さらさらと静か音を立てる水は透き通り、陽光の反射は時折底にある小さな石達を見えなくする。

 不随意的に耳が――エルフアールヴの身体的特徴として最も顕著な水仙ナルツィッセの葉のような形のそれ――ぴくりと動く。草を踏む音。誰かがこちらへ歩いて来る。

「やっぱりここにいたのね」足音の主はノーアの背中より二歩分離れた所で足を止めた。「叔母さんが探してたわよ。最後の一日くらい一緒にいてあげたらどうなの」

 ノーアは川を見つめたままゆっくりと言葉を紡ぐ。

「あの人は小言が多い。たとえ血の繋がりがあったとしても仲良くなれるとは限らない。無理に擦り合わせようとする労力が果たして本当に必要だと思うか?」

「要るに決まってるでしょ。ましてあたしたちは明日から成人の身。仕事は仲良しこよしで出来る程甘くないのよ」声が背後からノーアの隣に移る。彼女はそこに座った。

 彼女はアル。ノーアの双子の妹。両親は彼らがまだ幼かった頃にした。それ以来二人は母の妹であるヨーゼファの膝下で育ってきた。

夢見がちアリスなのは今更だけど、もうちょっと自分の身の回りの事も考えなさいよね」

「お前の小言は叔母さんそっくりだ。そんな所は似なくてもいいのに」ノーアは傍にあった小石を拾うと川の水へ向かって投げた。重い水音がして、小石は水の飛沫に置き換わった。

「こういう性分だから、天体観測アストロロギーの仕事に割り振られたのよ。『まあいいや』で済まさない勤勉さ、あんたが手に入れるのは何年先かしらね」アルが冷笑を浮かべた。

詩人メネストレルにそんなものが要求されるとは思えんがね」ノーアは立ち上がる。「まあいい、もう帰ろう。最後の晩餐にまで愚痴を言われたらせっかくの馳走も台無しだ」






しかし、家路へ向かう彼の脳裏には既に夕食の事など霧散していた。考えるのは明日目にする物について。森に囲まれた村を抜けた先に、伝聞でしか知らない『街』が待っている。想像力は戒めを知らず飛び回り、機械的に脚を動かす現実は脳髄より退く。要するに、彼の幼少期から残る悪癖は未だ健在という事だ。




 野菜ゲミューゼ穀物ゲトライデキノコのスープピルツズッペ。ノーアが知る限り最も手の込んだ料理シュパイゼがテーブル一面にずらりと並んでいた。

「本当なら麦酒ビーアも出したい所だけど、あんた達は今夜はまだ子供だからね。わたしだけ」ヨーゼファ叔母さんが木彫りのカップを掲げる。「二人が天使様の為によく働くことを祈って」

「今まで育ててくれてありがとう」ノーアの言葉にアルと叔母は驚いた。自閉的な彼が感謝の言葉を口にするなんてのはこれまでになかった事だ。

「あんたも、そんな事を言えるようになったんだねえ」叔母がしみじみと頷く。「やっぱり、わたしの育て方は間違ってなかった。姉さんに育てられてたら、きっとこうはならなかったよ。監督官様セニャールの祝福の賜物だよ」

 ノーアはその言葉に軽い苛立ちを覚えた。なんだってこの人はいつも一言余計なのか。「感謝ついでに、一つ訊いてもいいかな」

「うん?」叔母さんが顔を上げる。酔いが回ってきたのか、頬に陶酔の赤みが差していた。

「おれ達の父さんと母さんはどこにいる?」空気が固まった。アルがため息を吐いた。

 沈黙。ノーアが料理を自分の皿に取り分ける。

「――どうしても知りたい?」ヨーゼファの目に暗い光が宿る。

「おれは明日この家を出て行く。次にいつ会えるかも分からないんだ。頼むよ」

 彼女は詰めた息を少しずつ、長々と吐いた。「そうね、もう子供じゃないんだし。知っておいた方がいいかもしれないわね」

「あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど」叔母がノーアの目を覗き込む。「あんた達の両親は『反逆者』だったの。だから仕方ないのよ」

「反逆者だと何が仕方ないの?」アルが口を挟んだ。

「天使様には何もかもお見通しなんだから。姉さんとあの男は禁忌の術式を調べていた。危険な代物、わたしたちには必要ないものよ。だから裁きを受けて、もういないの。この話はこれでおしまい。酒が不味くなっていけないわ」ヨーゼファはカップの中身を呷った。





 夜、人だけでなく草木さえも眠っているような静けさ。ノーアは寝台ベットの上に蹲っていた。蛍光石ランプには厚い布を被せているためその灯りが僅かに漏れる他は光源がない。空は灰色のクラウドひしめいていたクラウディド

「禁忌の術、ねえ……」てのひらを薄暗がりで見つめる。

 音もなくそこに火が灯った。熱はあるが苦痛にはならない。小さな光は揺らめきながら寝台を照らす。

 ノーアは誰にも話した事がなかった。両親が文机に二重底で隠していたものを見た事を。古い言葉で書かれていたが、文章を指でそっとなぞるとその意味が読み取れた。

 『火の熾し方アン・フォイアーン』――そのページにはそう記されていた。

 両親がいなくなった夜、彼は文机を調べたが、二重底ごとその書物アポクリファは消えていた。

 意識を集中させると火は消えた。あまり長い時間やっていると隣の寝台で寝ている妹が気づくかもしれない。

 記憶を反芻するうち、もったりとした眠気が彼を覆った。

 





夢を見た。

暗がりの中、誰かが目の前に立っている。二本の足の他は判然としない。

「やがて、闇に覆われぬ場所でまた会うでしょう」がそう告げた。

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