エンジェリック・パラノイア

鼓ブリキ

序章/旅立ち

 ギリエは姉のゴティと二人で暮らしていた。彼には姉程の敬虔さはなかった。大きくなったら旅に出て、荒れ地の向こうに住んでいる人を探しに行く事ばかりを夢見ていた。

「またそんな事ばっかり言って。旅に出て、戻って来た人は一人もいないのよ。あなたがいなくなったら、姉さんはどうやって生きていけばいいの?」姉は困った顔をしてそう言った。姉は日に三度、広場にある『始まりの聖母ノートル・ダム』の像の方角へ祈りを捧げていた。何を祈っているのか、ギリエは知らなかった。「僕の旅の安全でも祈っててよ」冗談めかしてそう言うとゴティは溜息を吐いた。


 ギリエは体が大人並みに大きくなっても、旅への憧れは変わらなかった。きっと僕は旅人になるべきなんだ。それは確信だった。

 ある日ふと思いついて、彼は荷造りを始めた。これは天啓オラクルだ、今日旅立とう。姉はもう引き留めなかった。集落むらで一番の力持ちの男との婚礼を控えていた。

「そう、やっぱりあなたは行くのね」憂いを帯びた顔で彼女は言った。

「止めないんだ?」

「あなたももう子供じゃないもの。悪い事をするわけじゃなし、自分の道を自分で選ぶなら私は何も言わないわ」ゴティは嫁入り道具の仕度をしていた。「ああそうだ、最後に聖母様にお祈りを捧げてから行きなさい。あなたを守ってくれるように」



 ギリエの荷物は最小限のものだけを選んだ。着替えと石を削った小さなナイフ。首から下げるのは成人祝いとして貰ったお守りタリスマンだ。それが集落の外に出る通行証の役割も果たすのだ。

 彼は広場へ向かった。昔はとても大きいと思っていた聖母像も、成長した視点で見ると随分ちっぽけに見える。全体に粗い造りで、顔などはほとんど分からず、ただその背に一対、鳥のような翼を具えていた。何故、聖母にだけ翼があって、末裔たる自分達にはそれがないのだろうか。それは長老さえ答えられない疑問だった。

 子供の時分に散々やらされたから、形式は身についていた。てきぱきと済ませる。外の世界の事で頭はいっぱいだった。

 ギリエは聖母に背を向けた。大股で去って行く若者を、偶像は見送った。




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