第40話 二人の違い
『安心しろ。私はお前の味方だ』
あの日、エストールの街の路地裏にて。
あの男はナハトに向かってそう言った。
『お前のことをバカにした連中を全員、見返してやりたいと思わないか? 私がお前に力を与えてやろうではないか』
目の前の男はいったい何者なのか? 信用しても大丈夫なのか? 関わると取り返しのつかないことになるのではないか?
浮かんだいくつもの思考は、泡のように弾けて消えた。
ナハトは黒い感情のままその言葉に身を任せた。
心が暗い影のようなものに支配されていくのが分かった。だが抵抗しなかった。ナハトに躊躇するだけの枷はもうなかった。
与えられた力は望外のものだった。
今までの自分は仮初めの姿であり、ようやく本来の姿を取り戻した。生まれ変わったかのような全知全能の感覚に浸る。
胸の中で黒く煮えたぎる激情に任せて街を襲った。
憎くて堪らない何もかもを焼き払った。
冒険者ギルドも。陰口を叩いてきた冒険者のクソどもも。凋落した【紅蓮の牙】に好き勝手なことを言う街の連中も。
気に入らないものは全て消してやった。
愉快で堪らなかった。
自分を認めなかった者たちが、圧倒的な力の前に屈していく様は。
胸の中の膿が溶けていくような心地がした。
だが、まだだ。まだ足りない。
この怒りを収めるにはあいつらを殺さなければならない。
自分のことを見限ったハルナとイレーネ。
そして何よりもあいつだ。
自分を今の状況にまで追いやった張本人――ジークだ。
奴らを全員殺し尽くさない限りは、心に安寧は訪れない。
エストールの街を壊滅させた後、ナハトに力を与えた男が再度現れ、今度はアスタロトの街を襲って欲しいと持ちかけてきた。そこには魔王を封印する楔である、光のオーブが安置されているから破壊して欲しいのだと言う。
男に言われるまでもなく、ナハトはアスタロトの街を襲うつもりだった。魔族としての矜持に目覚めたとかそういう殊勝な話じゃない。
アスタロトの街にはジークがいるからだ。
奴はあの街の衛兵として活躍していると風の噂で聞いた。門番としてアンデッド軍の進行を少数精鋭で撃退したのだとか。
……ジークが守る街を完膚なきまでに壊滅させる。建物も人も一つ残らず。自分の無力さを散々思い知らせてやった後、絶望の中で殺してやる。
だから、魔物をかき集めて、アスタロトの街を襲うことにした。
――今の俺に敵う奴なんざ、この世に一人もいねえ。ジークの野郎が守ってきたものを根こそぎ奪って踏みにじってやるよ。
戦う前、ナハトは思っていた。これは戦いではなく、一方的な蹂躙だと。ジークたちがただいたぶられるだけのショーだと。
しかし――。
実際に戦闘が始まってしばらくすると、勝手が違うことに気づいた。
ナハトの差し向ける魔物たちは一向に街中へと侵入することが出来ない。
門前の衛兵たちや、街を囲む石壁にいる騎士たちに全て阻まれてしまう。
『ナハト様! ご報告です! 西方の上空から侵入を試みようとしましたが、待ち伏せの兵たちに阻まれて失敗しました!』
『こちらの隊も全滅いたしました! 私も――うわあああ!?』
『我々の手が全て読まれているようです!』
配下の魔物たちから次々に通信魔法が入ってくる。
しかしどれも吉報ではなく、凶報ばかり。
再度連絡を取ろうとするが、繋がらない者も多かった。
すでにやられてしまったのだろう。
「くそっ……! どうなってやがる……!?」
ナハトの指揮は全て敵に読まれてしまっていた。
まるで心を見透かされてしまっているように。
――魔物の中に内通者がいるのか? いや、違う。そんな奴がいればすぐに分かる。俺の手が読まれているんだ。
いったい誰に?
ハルナやイレーネに指揮が出来るとは思えない。
だとすれば――。
「ジークか……!」
奴とはこれまでに何度も戦いを同じにしてきた。
ナハトの思考や指揮体系を把握していたとしてもおかしくない。だが、ジークに完全に掌握されているのは耐えがたい屈辱だ。
「てめえら! 怯むんじゃねえ! 殺せっ! 殺すんだ!」
配下の魔物たちに向かって指示を出す。しかし、魔物たちの攻撃は最前線に立つジークによって完璧に防がれてしまう。
「バカヤロウ! ジークばかり狙うんじゃねえ! 他の奴から狙っていけ! まずは後衛の連中を殺すんだよ!」
『ダメです! 奴にしか意識が向きません!』
『他の者を狙おうとしても、攻撃を吸収されてしまいます!』
「ぐっ……!」
ナハトは魔物たちの報告を聞いてあることを思い出していた。
まだジークが【紅蓮の牙】に在籍していた頃。ダンジョンで戦っている敵は皆、ジークのことばかり狙っている気がしていた。攻撃をしているのは自分たちにも関わらず。ただ突っ立っているだけの奴にしか目をくれなかった。
……あれは奴のスキルだったっていうのか。突っ立っていたわけじゃなく、敵の攻撃を全部自分一人で受け止めてたってのかよ。
ジークがこちらの攻撃を全て止めている分、後続の衛兵たちは後顧の憂いなく存分に力を発揮することが出来ていた。
その姿は――かつての【紅蓮の牙】を彷彿とさせた。
冒険者たちの言葉が脳裏をよぎる。
『凋落しだしたのはメンバーが一人抜けてからだろ? あの大柄の男だよ……確かジークとか言ったっけか』
『確か【紅蓮の牙】の連中がクビにしたんだろ? 実はそのジークって奴がパーティの要だったんじゃないのか?』
ハルナとイレーネの言葉が脳裏をよぎる。
『やっぱりあいつがパーティの要だったのよ。あたしたちが戦えていたのは、あいつが敵の攻撃を受け止めてくれてたから』
『だよね。うちもそう思う。いなくなるまで、気づけなかった』
ふざけるな。そんなわけがない。
だが……。
今の劣勢と、魔物たちからの報告は真実を示しているように思えた。
――俺たちの……【紅蓮の牙】の躍進は全部あいつのおかげだったってのか。俺はただのピエロだったって言うのか……?
「ジークさん! お身体は大丈夫ですか!?」
「ああ。問題ない」
「へっ。さすがだな。もうちょっと踏ん張ってくれや。そしたら、あたしらが魔物連中を一網打尽にしてやるからよ」
「スピノザ。期待しているぞ」
「敵の目が君に向いているおかげで、敵は皆、隙だらけだからね。面白いように魔物たちの眉間に矢が当たるよ」
「ファム。引き続き援護を頼む」
「エレノアさんが騎士団の方を指揮してくださるおかげで、石壁の警備も万全です。魔物は一匹も侵入していません」
「後で彼女にはお礼を言っておかなければな」
「きっと喜んでくださると思いますよ」
「あたしたちも負けてはいられないわ! イレーネ! ぶちかますわよ!」
「おっけー」
「よし! 俺たちも第五分隊の連中に負けてはいられねえ! 続け! 王都を守るために魔物共を一掃してやるんだ!」
「「うおおおおおおおっ!」」
ナハトは目の前に広がる光景が忌々しくて堪らなかった。
どいつもこいつも、生き生きとしていやがる。何よりも、全員、ジークに対して全幅の信頼を寄せた眼差しを向けていやがる。
……吐き気がする。胸の中の黒い感情が疼いて仕方がない。
「おい、てめえら! もっと気合いを入れていけ! 死ぬ気で戦うんだ! 相打ちになるくらいの覚悟を見せやがれ!」
『無理ですよ! もう勝ち目はありません! このまま無駄死にするのはゴメンだ! 俺はここで降りさせて貰います!』
『後はあんただけで勝手にやってくれ!』
「――あっ! てめえら! 待ちやがれ!」
魔物たちはナハトの指示とは裏腹に、次々と撤退していく。呼び止めるが、彼らの心はすでに醒めきってしまっていた。
ナハトの周りからは誰もいなくなっていく。孤立していく。
ジークの周りには大勢の人が集まっている。信頼されている。
ジークをパーティから追い出した時には完全に見下していたはずなのに、今では完全に自分が見下される立場になってしまっていた。
「まだだ……! まだ終わってねえ……! 奴さえ殺すことが出来れば……! 魔物連中も戻ってきて勝機があるはずだ……!」
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