忘れた女、忘れられない男 03

 土地神の神使としては成り立てでも、屋敷神の神使としては充分すぎるほどの経験がある。

 だから大丈夫だろうと、やってきたばかりの九朗を現世うつしよへとんぼ返りさせて。次は、私の番。


「行くのか」

 影布仕立ての黒い襦袢をそれらしい洋服に変化させ、元々身軽な私が出かける仕度を済ませると。寝殿の中をあちらこちら、忙しなく動き回っていた香夜子鬼王谷がやってきて。「まぁいいんじゃないか」と、私の身形――あるいは、それを仕立てた叶――に対してざっくりとした評価をつけた。

「下はこれを履くといい」

 そう言って、差し出される。香夜子鬼王谷が後手に隠していたのは、漆塗りのぽっくり下駄で。

「ありがと」

 さすがに履物までは賄えないのだろうかと、私は叶が魔力を混ぜた影の汎用性について考えながら、それを受け取った。


「あなたも来る?」

「是非に。――と、言いたいところだが。君が九朗に言いつけた『おつかい』の件もあって、忙しくなりそうだからな。今日のところは大人しく留守を守るさ」

「そう」

「もちろん、君が『どうしても』と言うなら喜んでともをするが?」

「叶がいるから、別にいい」

「ここでそいつの名を出すなんて。酷いひとだなぁ!」

 冗談めかして、大仰に嘆いてみせた香夜子鬼王谷が私の手を取ると。それまで長いことだんまりを決め込んでいた獣が撫で心地のいい擬態をはらりと解いて、攫うよう私を両手に抱き上げる。

「触るな」

 香夜子鬼王谷へと向けられる視線は、地を這うような声音以上の険を帯びていた。

「閨に連れ込もうってんじゃないんだ。手を握ったくらいでそう目くじら立てるなよ。――あんまり嫉妬深いと、あっという間に疎まれるぞ」

「っ……」

 元が同じものなだけに、心の抉り方を心得ているというか。よくもまぁ自分と同じ「成れの果て」にそんな酷い言葉が吐けるものだと、思わず感心してしまうくらい。叶に対する香夜子鬼王谷の言葉には、遠慮や躊躇いというものがない。

「ちょっと、鬼王谷」

「そいつは赤子も同然だ。今のうちにきっちり躾けておかないと、あとで面倒を被ることになるのは君の方だぞ」

「脅しつけて言うこと聞かせるのは好きじゃない」

「だからといって、いきなり見限られるのは困る」

「――私!?」

「他に誰がいる?」

 ついさっきまで、今にも死んでしまいそうな顔をしていたくせに。私が不快感も顕に声を荒げた途端、ご機嫌伺いとばかりすり寄ってくるのだから、叶も大概現金だ。

「何があろうと、どんな時だろうと、君がそいつの機嫌を取る必要はない。――そのことを、努々忘れないでくれ」


 ぱちん、ぱちん、ぱちんと三度。

 香夜子鬼王谷が見せた妙に覚えのある仕草を合図に、足下の影が私と叶をどぷりと呑み込む。

 水の中へ放り込まれたような感覚に反射で息を止めた直後には、二人揃って鬼王社の御寝所へと放り出されていた。


「あんまり甘やかすなって……?」

 まとめるとそういう話のような気はするものの、神域を放り出されてしまったので確かめる術はない。

 そも、確かめる必要があるほどの話なのかという問題はさておき。

「あれと私は元が同じなだけの、今はもう全く別の存在で……あれには私ほど、お前のことがわからないから」

 うっすら笑いながら、片手で器用に私の足へ下駄を履かせていく。叶はいっそ愉快気だ。

 私に関して、鬼王谷より勝っていることがあるという事実に対する内心の喜びを隠しきれていない。

「前のお前と鬼王は結局、今のお前と私ほど深い仲にはならなかったしね」


 要するに、鬼王は私の愛し方を知らない。だから私の振る舞いが純粋な愛情からくるものなのか、打算まみれの手管か判断がつかないということ。

 その点、叶は食事の都合で伝わる感情を判断基準にできるから、生まれたての赤子同然だろうと関係がない。

 今になって思えば、鬼王はそういうものではなかったはずだから。叶を「感情を喰らう鬼」として生み出した鬼王の「記憶の残骸のこりかす」でしかない今の鬼王谷に、叶がどれほどの慎重さで私に接しているか、実際のところがわからなくても、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。


「叶」

 感情どころか、思考さえ読めているのではないかと疑わしく思えるほど私の意図を齟齬なく汲み取って動く。叶ほど自分に都合の良い土地神を、他愛ない嫉妬や独占欲を見せられた程度で見限ってしまえるほど私が潔癖な性質たちなら。そもそも香夜子のために千年もの年月を無駄にした鬼王を理由に、その成れの果てである鬼王谷を遠ざけたとしてもおかしくはない。

 それがわからないのは、鬼王谷がしょせん「死んでしまった鬼王の残滓のこりかす」でしかないからなのだろう。

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箱庭の神様 葉月+(まいかぜ) @dohid

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