忘れた女、忘れられない男 02
「言い忘れてたが、界を開けば外からの干渉を完全に遮断するのは難しくなるから。そのつもりでいてくれよ」
叶のご機嫌取りを兼ねた朝風呂へと向かう途中。ぺたぺた裸足の足音をさせながら戻ってきた
受け取ろうと伸ばした手には、太刀本体ではなく真白な羽織がばさりとかかる。
「うわっ」
そこそこ重量のある太刀を受け止めるつもりでいた私が羽織の軽さに勢い余って体勢を崩しかけても、支える叶はびくともしない。
それどころか、
「武器がいるほど危なくなるなら、閉めたままにしておけばー?」
「そういうわけにもいかないんだよ」
仕方なく。いなくなった
「私がお前の傍にいれば、何も危なくなんてないよ」
「じゃあなんで蝴蝶を?」
太刀の付喪である蝴蝶の身体が刀身、拵えが衣装であるとして。ほんの少しばかり
元通りに押し込んで手を離せば、あとには真白な羽織だけが残される。
太刀そのままより随分と持ち運びやすくはあるから。理由はともかく、この状態で蝴蝶を手元に置いておけるのことが単純にありがたくはあった。
「もしも何か入り込んだら……お前、手ぶらでも飛び出していきそうだから」
「から?」
「そういう時。そんな玩具でも、ないよりはましだろう?」
「玩具って……」
蝴蝶ほど上等な――あまつさえ話の通じる付喪憑きの――古太刀に向かって、なんたる言い様。
「もしかして、寝起きに斬られたこと根に持ってる?」
「――忘れた」
わかりやすい仏頂面とわざとらしく平坦な声音に、根に持っているんだろうなと。しがみついた肩へ隠れて笑う。
「真二つにされなくてよかったわね」
独り占めするにはなんとも贅沢な露天の朝風呂を満喫して。渋る叶をまぁまぁ宥め、蝴蝶の羽織を着込み、湯殿から戻ってきてみれば。私がほんのひとっ風呂浴びている間に、母屋の雰囲気はひっそりと様変わりしていた。
表向きの静けさはそう変わらない。けれど、さっきまではいなかった付喪たちの気配がそこここに感じられるというだけで、随分と賑やかになったよう思えるのだから不思議なものだ。
「鬼王社の蔵から付喪を入れるって聞いてたけど……いつからそんな属性ついたの?」
「別口だ」
「――詳しく」
正殿へと戻る道すがら。私たちのことを待ち構えていたらしい九朗と出会して、立ち話もなんだからと私はそこらの
「お前が『死なせるな』と命じたから、眷属として生かされた。反動でひっくり返ってる間に主人が神格を得て、今は神使」
「せっかく都留媛から解放されたのに。儚い自由だったわね」
「お前の下ならまだいいさ」
「どうだか」
神使であれば、神域へ入り込めても不思議はない。
念のため、確認を取るつもりで目を向けた叶は獣姿で私の足元に伏せていて。声をかける代わりに爪先でつついてみても、顔を上げようとすらしなかった。
「一応、俺の主人なんだが」
「私のペットよ」
「契りはしたんだろう?」
「獣と致す趣味はない」
はてと首を傾げた九朗は、思い出したよう腰裏へと手をやって。どういうわけか、見慣れた短刀をごそりと取り出す。
「それ、遮那?」
「お前がいないと機嫌が悪くて、手に負えないから連れてきたんだが……余計なことをしたか?」
そう言う九朗の視線は、私が着込んだ蝴蝶の羽織へ向けられている。
「まさか」
「太刀じゃ取り回しが大変だから、蝶野へ顔を出すのにどうしようかと思ってたの。褒めてあげる」
「そりゃどうも」
「遮那も、ちゃんと私のところに戻ってきていい子ね」
「あるじさま……」
九朗から私に、本体が手渡される直前。人型をとった遮那は、何故か九朗の後ろに隠れるよう、私から離れて顕現した。
「遮那?」
「あるじさま、ごめんなさい。遮那は香子といっしょにいないといけなかったのに……」
「それは、私が香子に降りた時のためでしょう? 予定が変わって香子を使う必要はなくなったから、お前はこっちに来てよかったのよ」
「おこっていませんか?」
「怒ってたら褒めたりしない。――ほら、おいで?」
「――はいっ!」
改めて差し伸べた手に、持ち慣れた重みがすとんと落ちる。
思っていたより随分早く手元に戻った護身刀を、私が襦袢の帯に差し入れ定位置に戻すまで。黙って成り行きを見守っていた九朗は、呆れ混じりの薄笑いとともに体を揺らした。
「相変わらず、付喪に甘いな」
「物は裏切らないから好きよ。……まぁ、それはもう別にいいんだけど」
私の人間不信と個人主義は、元はと言えば「見知らぬ世界にたった一人で放り出された」という誤った認識が原因だったから。失われた記憶の存在とおおよその真実を知らされた今となっては、それほどこだわるつもりもない。
「叶の神使なら、私の下僕も同然よね?」
否定させるつもりなどさらさらなく、私が小首を傾げて尋ねると。九朗は「そういうことになるんだろうな」と、渋々ながらも頷いた。
複雑な心境を映すその視線の先には、上等な
「ちょっとおつかい頼まれて」
「――なんなりと」
端から拒否権のない九朗はそれでも、精一杯の見栄を張るよう畏まって答えた。
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