血を吸う鬼と護身刀 02

かなえ


 手の平で拭ったくらいではどうにもならなかった口元へ、どうせ処分するのだからと汚れたシャツの裾を押しつける。

 立ち上がった私としゃがみこんでいる銀の鬼。押しつけたシャツの向こうでもがりと動いた口が何を言っているのかは、くぐもりすぎていてよくわからない。少なくとも小言の類ではないだろう。年頃の女がはしたないだのなんだの、そんな真当なことを言いながらめくれたシャツの下に手を這わせているようでは、二枚舌もいいところ。


「――ぷはっ」

 ごしごし口元を拭うシャツから開放された鬼の第一声は「もったいない」だった。

 どうやら、シャツに染みた血のことを言っているらしい。

「自分でつけた傷じゃなくても治せる?」

「うん? それは、まぁ……治せるけど」

「なら、心配いらないわ。私が怪我をする度に嫌ってほど舐めさせてあげる」

「そういうのはあんまり好きじゃない」

「我侭ね」

 きらきらと月光を弾く銀色の髪を乱して手を放す。

 下ろしたシャツの下で大人しくしていた手の平もついでに引き剥がし、縋りついてくる指先を握った。

「私は。お前の御主人様は深山みやまかなでよ」

「私は叶。かなでの叶」

 上手に答えられた叶を褒めるために微笑んで、一方的に握った手を引く。

 促されるがまま、すんなり立ち上がった男の上背は私より幾らも高かった。私が見下ろし、叶が見上げる位置関係が逆転して、月明かりで煌めいていた瞳に影がさす。

「お前、どこからきたの」

「――あっち」

 微かに首を傾げた叶があどけない子供のような仕草で指差したのは、くたびれたアスファルトに舗装された道を外れた先。鬱蒼と広がる森の向こう側。

 そこそこ夜目の利く私の目には、生い茂る下草の合間に伸びる獣道がはっきりと見えていた。

(この先は――)

 ふと脳裏を過ぎる予感があって、そっと距離を詰めてきた叶を見上げる。

 私の手からするりと逃げた叶の両手は、遠慮も断りも無く私の体を抱きしめた。

 ぴたりと密着した体勢で臆面もなく頬ずりされるのは、まるで人懐っこい大型犬にでも纏わりつかれているようで。どうしても、年頃相応の羞恥心よりくすぐったさの方が先に立つ。

「さっきの傷は? 誰かにやられたの」

「どうだったかな」

 すりすりと頬を押しつけていた頭の動きを止めてまで悩んだ末、叶は結局「よく覚えてない」と私に答えた。

「美味しそうな匂いがしたから、こっちに来たんだ。そうしたら、お前がいた」

 夜な夜な繰り出す散歩の途中。どしゃりと不穏な音がして、振り返った先。そこに、叶は倒れていた。直前まで気配を感じなかったのは、人外としての性質の問題だろう。面と向かって話している今ですら、叶の気配は相当に希薄だ。大した理由のなさそうな接触を軽く許してしまえる程度には。ふとした瞬間、跡形もなく掻き消えてしまいそうなほど。

「体の調子は?」

「満腹には程遠い。けど……お前と動き回るくらいなら、問題はないよ」

 腰の裏。ベルトに吊った護身刀の柄頭に手を添えて、逡巡したのはほんの数瞬。

 立場上、この辺りで普段と違う何かが起きた可能性を知ってしまった以上、様子を見に行かないですませるわけにもいかないだろうと、諦め混じりの息を吐く。

「なら、自分のことは自分でどうにかしてね」

 気侭な散歩はおしまいだ。

「行くの?」

「行くよ」

「どうして?」

「家庭の事情、ってやつかなぁ」

 人の頭に頬を寄せたまま。ことりと首を傾げた叶を押しやって、舗装された道からほんの数十センチ低いところに広がる森へと飛び込む。夜歩きの格好は元々こういう事態も想定していて、近所の散歩に似つかわしくない厚底のブーツは、柔らかな腐葉土の地面を難なく捉えた。

 そのまま、軽い調子で獣道を走り始めた私の後ろからついてくる足音は

(でかい)

 気配のおかしさに気付いて振り返る――その前に、尋常でない大きさのが、あってないような獣道を走る私に追いついてくる。

「叶?」

 熊のように巨大な体躯の獣。姿は一見、狼に似ている。

 隣に並ばれると、その大きさがよくわかった。走ってもぶれない肩の位置が、厚底のブーツを履いた私とそう変わらない。

 最初にこのサイズで倒れていたら、さすがに助けようとは思わなかっただろう。この巨躯で暴れられたら、私のような子供では抑えるどころの話ではない。

「乗って」

 ぴたりと並走しながら器用に背中を落として見せられ、伸ばした手で首周りのふっさりとした毛並みを掴む。強く地面を蹴って体を跳ね上げると、叶が姿を変えた獣は危なげなく私を拾い、そのまま狭い獣道へ体をねじ込んだ。

 低木に引っ掛けられるのを嫌って落とした頭に細い帯のようなが添えられ、体にはまた別のが巻きついてくる。

「なにこれ」

「なんだろうね」

 私を乗せてから走るスピードをぐんと上げた獣の背中は思いの外、安定していた。正直言って、見た目不相応な乗り心地は格別。まるで障害物など一つとしてない空でも飛んでいるかのよう、獣はすんなり、私が想像していた通りの場所へと行き着いた。

(やっぱりここか)


 鬼王きおう神社。

 その名を冠した鬼王谷の中心に位置する、氏神のもりに。

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