第5話テレビ番組オーソドックス 第八、第九回より抜粋(川島勲)

テレビ番組オーソドックス 第八、第九回より抜粋(川島勲)


本編 『朽ち果つ廃墟の片隅で 四巻』と時系列は同一。

テレビ番組オーソドックスは、第三回から第七回という四週にも渡って、義一達が今も奔走しているFTA問題について重点を置いた特集番組を放送したのだが、次の週からは一気に趣を変えて、『文学』という大きなテーマでの、一時間番組二週連続放送回。

ゲストは、本編に中々出て来ないのでお忘れの方もおられるだろうが、琴音が初めて数奇屋に行った時に対面した、オーソドックスへの寄稿者の一人である、世間的には認知度が低いが、その文章なりに対して、玄人な文学好きのコアなファンがついている、小説家の川島勲が登場。

これはラジオ・オーソドックスにもゲストで登場した時に議論をしたのだが、その時と大きくは変わらない内容を展開する。



司会  望月義一


出演者 川島勲



内容 『文学対談』(カッコ付き)

  ・文体は個人のものに非ず

  ・昭和四十五年七月七日 産経新聞夕刊より

  ・『文学を通して現実を見ようとするな。

    現実を通して文学を見よ』

  ・”歌聖”柿本人麻呂による万葉集の歌から

   日本の言霊信仰と、『言挙げ』についての略論

  ・価値観が希薄していく近代の中で

   和洋問わずどう文学が葛藤してきたかの略論

  ・『リアリズム』

   現実を認識するには、確固たる”枠組み”が大事

  ・日本では千年以上、西洋では約五百年に渡って、

  『翻訳』によって自国語を深めてきた歴史

  ・ヴァルター・ベンヤミン

   『翻訳者は自国語を外国語によって、

    拡大し深めなければならない』

  ・ポール・ヴァレリーによる、当時の時代観と、

   それと今現代との共通性

  ・ベンヤミンの『萌え尽くす炎』と、

   アリストテレスの『カタルシス』

  ・正統主義者、保守思想家のエリオットから見る

   本来の『オリジナリティ』


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義一「…さて、恒例…って、ふふ、まだ今回で第八回目なのですが、番組の初めに紹介がありました通り、今週、来週と続けて出て頂くゲストの方は、小説家の川島勲さんになります。川島さん、よろしくお願いします」


勲「よろしくお願いします」


義一「いやぁ、川島さんに出ていただける事になるとは、正直期待はしていませんでしたよ。佐々木先生もそうでしたが、川島さんもテレビなどの様な、公に顔を晒す様な事を好まれないので」


勲「…ふふ、編集長の頼みとあらば、個人的な思いは別にしても、出てきますよ」


義一「ふふ、ありがとうございます。さて、視聴者の方で、不思議に思われた方も多かろうと思います。

『何で今”文学”をテーマにするんだ?』

と」


勲「…ふふ」


義一「まぁ確かにですねぇ…ふふ、先週まで特集してきた、例のFTA問題について、実際にこうしている間にも、国会内では議論がなされているのですが、しかしまぁ、正直ですね。勿論今後も何とか交渉の場に出る事自体を阻止しようと活動は続けていくつもりですが、こうした番組でですね、国会の議論が終わるまで延々と自由貿易の問題点について番組をするのは、その…ふふ、私個人の精神衛生上にとても悪くてですね」


勲「あはは」


義一「ふふ、ただでさえ、今現段階でもかなり精神衛生が悪くなっている…って、また番組の最初で愚痴ってしまいましたが、それはともかく、そんなクダラナイ政策論議で精神を汚してしまったので、これを”浄化”させるには、有史以来ずっとその役割を社会の中で担ってきた、”本当の意味”での”芸能”しか無いだろうと思いまして、私と付き合いのあるしっかりとした芸をお持ちの一人である勲さんをお呼びしました。

ここでは普段通りで構いませんので、ここからは勲さんと呼ばせて頂きます。では勲さん、改めてよろしくお願いします」


勲「…ふふ、はい、よろしくお願いします」





義一「先ほどの話の続きですが、私と勲さんが初めて出会ったのは…あれは確か、神谷先生の書かれた本が賞を取ったというので、その授賞式の場でしたね」


勲「えぇっと…」


義一「ほら、勲さん、アレですよ。僕がまだ高校生だったか、もしかしたら大学生だったかも知れませんが、もう今から十五年以上前になりますけれど…」


勲「…あ、あぁー、思い出しました。私も何かその時、賞を取ったか何かで、確か神谷さんと同じ出版社の賞に同時受賞だというので、それでご一緒したのが最初でしたね」


義一「ふふ、そうです。勲さんは勿論、ただの学生でしたし私の事なんか知らなかったでしょうが、私自身は以前から勲さんの事を存じてまして…って、誠に失礼ながら、最初に知ったのは、勲さんの作品ではなく、神谷先生と一緒に受賞される方だというので、それで興味を持って、勲さんが書かれた、受賞の言葉を文章で読んでですが…」


勲「ふふふ」


義一「そしたら、その文章が…ふふ、本人は照れてしまうでしょうが、名文でしてね。それに感動した私は、受賞の場とはまた日を別にして、受賞者パーティーがあったのですが、先生に勲さんのことが気になると言ったら、

『だったら、何日か後にパーティーがあるから、一緒に来るかね?』

と誘っていただきまして、それで同行させて貰った先で出会ったのが最初でした」


勲「…ふふ、ありがとうございました。

さて、私ばかり褒められるのはフェアじゃ無いから、私からも少しだけ話をさせて頂くと、勿論私は難しい話などは、今でもそうだけれど分からなかったが、しかしそれでも、神谷さんの存在は会う前から存じていました。

なので、私は私で一緒に受賞したのも何かの縁だろうと、パーティーでお会いするのを楽しみにしていました。

で、実際に会って、博覧強記と言っても過言では無い神谷さんとの会話は本当に楽しくて、それ以来こう言うのは失礼でしょうが、私の方でも神谷さんの事を気に入りまして、それ以来ずっとお付き合いをさせて頂いています。

…が、それだけじゃなくてですね、当時のパーティーでは、神谷さんと同じ…いや、今ご自身で仰ったから言いやすいけれど、何も前情報が無かった分と申しましょうか、神谷さんの側にずっと立っていた、とある学生さんの印象がとても強かったんです。それが義一くんでした」


義一「あ、いや…」


勲「…ふふ。第一印象は『えらく顔が整った、綺麗な男の子だなぁ』というものでしたが、その見た目に驚いただけでは止まらず、実際に話してみたら、ますます驚いてしまったんです。

先ほど神谷さんを博覧強記と称しましたが、これはお世辞でも何でもなく、当時…ふふ、君はあの時は、まだ高校生だったの?…ふふ、そっか。あ、だというのに、私が神谷さんと会話している横で、背が当時から高かったのに、肩を窄めてジッと話を聞いていたのだけれど、徐々に先生に相槌を打つ様になって、終いには私たちの会話にどんどん入ってきて、折りにつけて、会話の中身にあった知識や知恵の数々を口から迸らせるのを聞いて、私は楽しく聴きながら思ったものだよ。…『この子は、只者では無い』とね」


義一「い、勲さん…そろそろこの辺で」


勲「ふふふ」


義一「さ、さて…ふふ、ここで突然の話題提供となりますが、私も自分で言うのも恥ずかしながら、極度の文学オタクでして、古今東西…いや、”今”の作品は”東西”共にそれほど読んでいませんが、それはともかく、雑談の延長の様で申し訳ないですが、子供の頃ですね、今もですが、大好きな作家の一人にアントン・チェーホフがいます。

私の父の蔵書にチェーホフの全集がありまして、それこそ『三人姉妹」から『桜の園』などの有名どころに始まり、片っ端から読み耽っていた事を今思い出したのですが、子供ながらに読んでいてですね、ものすごく面白かったけれど同時に、文学というかフィクションなるものの限界まで、チェーホフが来てしまっているんじゃないか…という感想を漠然と覚えていた記憶があるんですよ」


勲「…ふふ、そんな事をチェーホフを読んで、子供の頃に感じるだなんて、やはり只者じゃないね」


義一「あ、いやぁ…あ、そ、それよりですね?これは視聴者向けに話すんですが、何故そのような事を思ったのかと言うと、一言で言えば、

『神を信じられなくなった人間たちが、それでも神を求めて彷徨う…』

それがチェーホフの精神なのだと思われました」


勲「なるほど…」


義一「という訳で、実は小説というもの自体は、二十代前半までは読み続けてきたのですが、”古東西”の作品は、勿論全てなんかは読み切れないですが、いわゆる各国家の誇る文学者の作品などはそれなりに網羅した辺りにですね、勲さんを前にして言うのは憚られますが…

『ああ、これで小説を読むのはお仕舞い…かな?』

って思ってしまって、それ以来は、過去に読んだ作品群を、それこそ番組の最初の方で申しました通り、精神を”浄化”させたい時のみに読むくらいになってしまったんです」


勲「なるほどねぇ…ふふ、いや、私も一応小説家の端くれだけれど、一読者としたら、君の気持ちは良く分かりますよ」





義一「えぇっと…ふふ、話は戻ると言いますか、勲さんはまた、何で小説家になろうと思ったのですか?それを是非視聴者の方々にお話頂きたいのですが」


勲「んー…ふふ、これをねぇ…打ち合わせ段階で、このような質問をするから”覚悟”を決めといて下さいって言われていたんだけれど…」


義一「(笑)」


勲「これといった理由があったのか…中々思い出せなくてねぇ…困ったなぁ。

まぁ、視聴者の方は退屈するだろうけれど、でも番組の方で勝手に編集してくれると義一くんも言うし、だったら、少し私の経歴でも披露してみますか。

私は文学部でしたが、神谷さんと同じ大学を出まして、そのまま同じ大学の大学院に入り、大学院を出てからは、北陸のとある大学の研究室に入りました」


義一「勲さんは、実は学者だったんですよね」


勲「い、いやいやいやいや。…ふふ、まぁ修士は取っていましたが、当時の時代状況もあって、別に取るのは大した事ではありませんでしたよ。文学部でしたしね。

まぁ全体の人数が少なかったおかげか、私のような半端者でも、大学の研究室に滑り込めまして、しばらく北陸の方で過ごしていたんですが、当時は高度成長期の最中だったと言うのに、私のいた地域には全くその気配を感じませんでした。…ふふ、全くの無風地帯でしたよ」


義一「(笑)」


勲「あそこには何年くらいいたのかなぁ…確か三年くらい北陸の方にいて、その後で東京に戻ってきてからは、池袋にある私立大学に職を持ちながら、主に翻訳の仕事をしていました。

ドイツ文学を中心にでしたが、もうですね…ふふ、その翻訳の仕事が存外に忙しくて、殆どが家と大学、後は図書館と、それ以外は何も無いような生活をしていたんです」


義一「…ふふ、この話を以前にお聞きして、勲さん本人に言ってしまった事を思い出しましたよ。

これは私がまだ大学生だったと思いますが、その話をお聞きして、すぐに夏目漱石の『道草』を思い出したんです」


勲「あー…ふふふ」


義一「『道草』は、確か漱石がロンドンから帰ってきたから暫くして書いた作品で、『吾輩は猫である』の執筆時の生活をもとにした漱石自身の自伝であるとされています。

主人公の健三は漱石自身で、彼は大学の先生で忙しい毎日を送っているのですが、その健三に養父が金をせびりに来たり、腹違いの姉や妻の父までが現れては、お金を無心に来る…とまぁ、そんな話だったと思いますが、

その中で、ある時に若い学生と主人公が歩いている時に、つい先だって牢獄から釈放された女の話題になりました。彼女は芸者をしていた若い頃に、男を殺して懲役を二十年ばかりくらってた女らしいのですが、その話を聞いた健三がこう返すんですね。

『俺も同じだ。牢獄にいたようなものだ、学校と図書館の中で暮らしたんだから』

と。…ふふ、当時もこの事を話した後で、勲さんに言ってしまったのを思い出しましたよ。『勲さんも同じようなものだったんですね』って」


勲「ふふふ、そうでしたねぇ。

んー…ふふ、こう話していても、何故自分が小説家になったのか、言葉を見つけれずに困っているのですが、しかし、その代わりに言っては何ですが、少しばかり芸談というか、私の話に付き合って頂きたいと思います」


義一「ふふ、どうぞ」


勲「ふふ、ありがとう。えぇっと…ふふ、いきなりシェイクスピアを持ち出しますが、シェイクスピアに『真夏の夜の夢』という有名な作品があります。

この作品の中に、王様の婚礼に際して城下町の職人組合が、芝居を一つ献上したいと言うので、そこで侍従の一人が職人たちの元に、一体どんな出し物を出すのか聞きにいくんですね。で帰ってくる。王様にどうだったか聞かれて、侍従がこう返すんです。

『世の中で最も長くて、最も短い芝居でございます』」


義一「あー、そうでしたね」


勲「それを聞いた王様が『最も長いとは、どういう事だ?』と聞きますと、『冗漫冗長、余計なことばっかりな芝居であります』と答えるんですね。

『では、最も短いというのは?』と王様が更に聞くと、 『余計なものが一切無くなったものでございます』と答えました。


義一「んー」


勲「この『真夏の夜の夢』は勿論喜劇なのですが、これは…ふふ、作家として受け取ると、作家にとって笑い事では無いんですね、実は」


義一「あー」


勲「またもや急に話が飛ぶようですが、私には書き直し癖がありまして、中々そのせいで筆が進まないという我ながら厄介な癖なんですが、これに関連する言葉で『推敲(すいこう)』というのがありますね。

これは中国は唐の時代の詩人で賈島(かとう)という人がいまして、当時唐を代表する文人であった韓愈(かんゆ)に師事して詩名は高く、『賈浪仙体』とも呼ばれる、一字一句に苦吟を重ねる詩風で,有名な『推敲 』の語源とされる逸話を生んだとされていますが、

話を戻しまして、私はですねぇ…これを言うと視聴者の方は、私のことを変人と思われるでしょうが…ふふ、それは否定はしませんが、それはともかく、書い直しを繰り返していくうちにですね、白紙の原稿用紙を見て、『あ、これが完成品じゃないか』と思うことがしょっちゅうあるんです」


義一「…あー、なるほど」


勲「…ふふ。でもそうはいかないのが職業著作家の悲しいところで。そう自分に笑った後で、また書いては直すの繰り返しの作業に戻っていきます。

…さて、推敲に話を戻させて頂きますが、果たしてですね、推敲というのが今の世の中で、今の言葉によって物を書く私にとって、そもそも成り立つものであるかという疑念が常に去来します」


義一「あー…」


勲「というのも、推敲するにも文章の規範と申しましょうか、私自身はこの規範を書いているのを、恥ずかしながら欠いていると自覚しているのです。

欠いているとは言っても、何も文法なり文体なり…ばかりでは無いです。情感と、その形容も含めて『あらまほしい』んです」


義一「んー」


勲「この規範というものが無いとですね、推敲というのが果てしない事になってしまうんです。取り止めもなくなってしまう。…なので、白紙になってしまうんですね。

んー…ふふ、過去の偉大な作家たちから学ぶことは出来ますが、踏まえることは難しい」








義一「今勲さんが出された言葉で一つ、”文体”というものがありますね?僕は勲さんにとっては良い読者とは言えないけれど、勲さんの書いた文章は、私たちの雑誌に寄稿されているのも含めてチラホラと読んでいるのですが」


勲「ふふ、ありがとうございます」


義一「でですね、以前に勲さんが書かれていたのですが、『文体、スタイルとは何ぞや?』という議題の時に、勲さん独特の口調で、こう仰っていたのをお見かけしたんです。

『文体、スタイルっていうのは、個人のものではないんだ』と」


勲「えぇ、そうでしたね」


義一「及ばずながら、それまで僕も似たようなことを考えざるを得ないと思っていた頃に、勲さんの意見に出会ったんです。これは励まされましたよ。…ふふ、確かまだ勲さんと僕が出会ってから間がないくらいの時だったので、先ほど言った例の賞の受賞に際しての文に感銘を受けたのですが、しかしそれ以降はまだ勲さんの文を読み漁れていない時期だったのもあって、これまた驚いたのと同時にですね…ふふ、繰り返しますが、励まされたのを覚えていますよ。

『あー、僕だけでは無かったんだ』と」


勲「ふふふ、いえ、こちらこそありがとうございます。

そうですねぇ…まずですね、

『”文体”、”スタイル”というのは、果たして個人のものなのか?』

という考えは、ずっと長い事持ち続けていまして、それは今も変わるどころか確信に近くなっていく一方なんです」


義一「いやぁー、勲さんの前で恐縮ですが、このように勲さん自身から聞くたびに、こう言いたくなってしまいます。『正しいなぁー』と」


勲「ふふふ。

『文体は個人ものではなく、むしろ個人を超えて伝統に繋がるものをいうのではないか?個人の特性、あるいは性癖、というものでは無かろう』と」


義一「その通りですね。個人を超えた伝統に繋がる、つまり公の文書を作るときに出るのが文体なんだと、私なりにまた言い換えれば、こうなると思います」


勲「その通りですね」


義一「不意に喩えを思いつくというか、思い出しましたが、エドガー・アラン・ポーの『黒船』なんかで言えば、あれは陳述書の形なんですね。あれが文体なんです。

『これから私が報告するところのことは…』

と始まり、

『ほとんどだれも信じてくれないだろう。しかし私は事実のほかは何も語らない』

といった調子で、まさに陳述書です」


勲「ふふ、その通りですね。僕自身も実は、後に議論になるかと思いますが、そもそもの『小説』の元を考えてみれば、陳述書形式になるのは当然と言えば当然で、僕は近代小説の原型はそれじゃないかと思ってるんですね」


義一「私も同意見です」


勲「…さて、しかしねぇ…現代の文章は、大なり小なり、分析的、そして解体的になりました。

”文体”と”解体”は、本来はというか、言うまでもなく正反対のものですが、個人のスタイルがどうのと近代日本で叫ばれ続けられている割には、現代人、特に文体を大事にしなくてはいけない作家たち、著作者たちが、おん自ら解体させていくのですからねぇ…。

ふふ、私自身が、文体を持っているのかと言うと、それは他の人がどう思おうが、私自身は全くそうは思っていません。

んー…三島由紀夫が昭和四十五年の七月七日、産経新聞夕刊に寄稿した有名な文章がありますよね?」


義一「はい、確かこうでした。

『…こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考えていた私はずいぶん甘かった。

おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とする事を選んだのである。

政治も、経済も、社会も、文化ですら。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。

このまま行ったら”日本”はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。

日本はなくなって、その代はりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう』」


勲「…ふふ、流石義一くん、きちんと引用してくれてありがとう。

ただ…私は今ですね、勿論その時代に生きている人間で、その時代に影響を受けない人間というのは、我々のような芸人…ふふ、私は漱石と同じように、自分を芸人と称するのを良しとしてるんですが、それはともかく、芸人だけではなく、一般の人々ですら影響を受けずにはいられないのが世の常ですが、だからといって、自分が文体を持ててないのを、時代のせいだけにしたいのでもありません。

ただ私は、自分が文体を、伝統にきちんと自分が結びついているという感覚が薄いのを自覚して、それを恥ずかしいとまで思うあまりにですね、何とか文体を得たいと日々踠き続けて来た…というくらいな自負があるんです」


義一「なるほど。…今の勲さんの小説を書く”芸人”としての心を伺わせていただいて、それに対して安易な同調なり同意をするのは失礼だと思うのもあり、代わりにと言っては何ですが、先ほどの三島の言葉に余計なツッコミを入れることでお茶を濁したいと思います。

というのは、三島のあの言葉には、若干の間違いというかズレがありますよね。

確かに九十年代前半までは、三島の予言通りになりましたが、それ以降は、『富裕でもなくなり、抜け目』…これも、私は戦後の日本のどこが抜け目がないのかと反論したい気がしますが」


勲「ふふふ」


義一「ふふ。『富裕でもなくなり、抜け目しかなく、少なくとも過去二十年に渡って、デフレの影響もあってOECD加盟国中では唯一のマイナス成長、それもマイナス20%という経済成長率を叩き出した、”衰退没落途上国”』と、今生きる私ならそう訂正を入れたいですね」







勲「小林秀雄が、こんな事を書いていたのを思い出しました。

『自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学ができるんだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何ら患わされない眼が世間を眺めているからこそ、文学というものが出来るのだ』と。」


義一「ありましたねぇ」


勲「『隠喩を持ってきて現実を説明しようとする行為が表現行為の基本だ』とも言ったのですが、ここで小林は、そこには問題点もあると言ってましたね。

小説家は隠喩を使ってフィクションを作るんですが、この隠喩というのは当然古びていく…あっ、

アメリカの女流批評家として有名なスーザン・ソンタグは『隠喩としての病い』の中で、メタファーが社会に及ぼすメタファーについて問題提起していまして、

『病気の王国に住む人間が、いかにそれに耐えようとして空想、メタファーを織り成していくのか。

私の言う病気とはメタファーではなく、従って健康になるためには、隠喩がらみの病気観を一層しなければならない。しかし病気の王国の住人となりながら、そこの風景と化しているケバケバしい隠喩に毒されずに済むのは、ほとんど不可能に近い

その隠喩の正体を明らかにしたい』

と彼女は大まかに言えばそう言っています」


義一「あー…」


勲「小林秀雄に戻りますが、現実と文学との関係、隠喩と現実の関係、そしてリアリズム。何がリアルなのか。

この問題には真の解なんて無いのですが、だからと言って問いそのものを放棄してはいけないのであって、常に私たちは、その間を行ったり来たりしながら関わっていくしか無いんだと思います」


義一「今までの勲さんの話を、私なりに纏めるとこうなると思うんですが、勲さんはどうお思いでしょうか。

小林は要は、『文学を通して現実を見ようとするな。現実を通して文学を見よ』と言いたかったのではないかと」


勲「あー、その通りですね」


義一「ふふ、同意をありがとうございます。これは一見正反対のことを言ってるようですが、本当に正反対なのか、視聴者の皆さんも考えてみてください」





義一「『我々は皆ゴーゴリーから、その外套の下からやってきた』

というドストエフスキーが言った言葉は有名ですが、この外套は勿論、ゴーゴリーの作品『外套」から来ているわけでして、それはつまり、プーシキンに代表されるような”韻文”中心であったロシア文学、ロシア語の表現世界に、”散文”というものを確立したということです。

つまり”リアリズム”という概念を確立した。

勿論、『作者の日記』の中でドストエフスキーは、たびたびプーシキンを取り上げて、自分がいかにプーシキンに影響を受けて、恩恵を受けていたのかも書いていますがね」


勲 「その通りですね。しかしゴーゴリーのリアリズムは自然主義者たちのリアリズムと同じと、よくごっちゃにされますが、同じかというと私は違うと思います」


義一「はい」


勲「これは視聴者さん向けに言うのですが、リアリズムというのをただの現実模写だと捉えてはいけません。散文の本質が”リアリズム”なんです。

今まで見慣れていたモノのせいで見えなかったものを、新しい隠喩、新しい表現こそがリアリズムなんです。

ここでまた勘違いされがちなので、先回りして訂正を入れれば、新しい表現と言っても”新奇”なものを生み出すのが良いという事ではありません。

過去をしっかりと引き受けた、引き継いだ上で時代をしっかりと見た作者から自然と滲み出るのが”リアリズム”であって、これが現実模写と中々に区別が難しいところではありますが、ここをきちんと見分けるところが大事だと思いますね」



義一「元々小説というのは、『漢書藝能文志』という、後漢の時代に書かれた歴史書の中に出て来る言葉ですね。

『漢書』というのが、そもそも漢の歴史を記しているという意味ですし。

因みに、この中で有名な『諸子百家』も出てきます。

中国の法家、墨家、孔子の教えを守って伝えている一家を儒家などの、それぞれの学説や技術を集大成した一家、一門を『家』と言いますが、百家とは言っても、本当に百あるわけではなく、沢山あるという意味です。

さて、何故この話をしたのかと言うと、諸子百家という五、六十ページほどの部分があって、その中に儒家やら何やらが出てくる一番最後に小説家というのが出てきます。

ここではどんな意味かと言うと、稗官、つまりは今でいう政府雇いの週刊誌だとかのフリーライターみたいなものがいまして、政府に雇われて、長安や洛陽で街に出かけて行って、噂話を聞いて、それを纏めて上官に提出すると言う仕事をしている人のことです。

彼らがまとめた色んなお話を『稗史小説』と言いまして、つまりこれが小説なんですね。小さな、街の噂だと」


勲「その通りですね。あ、孔子も確か、これについてコメントしていますね。

『こういう小説というものは、非常にクダラナイ。こんなものに夢中になって皇帝が自分の噂話、自分の治世の評判が良いかどうかなんて気にしてるのがクダラナイ』と」


義一「ふふ、そうでしたね。…って、何だか自分で話を振っておきながら、収拾が付かなくなりそうな気配を感じるのですが…ふふ、それでも取り敢えず、このまま話を進めます。

小説は英語でNOVELですが、これも単純に新しい事が原義ですからね。

日本では坪内逍遥がノベルを小説と初めて訳しました。

…さて、ここで一旦話を戻します。

先ほどゴーゴリーを出したので、せっかくなので日本とロシアを比較して見たいと思います。

ゴーゴリーが最初にやった事は、ウクライナの民話の小説化と言って良いと思うのですが、日本には既に、それこそ世界に誇る潤沢な文学作品を生み出してきましたから、ロシアとはまた別なんですけれど、

例えば、万葉集に代表される漢字を真仮名として用いた表記様式で書かれた”男手”や、源氏物語などに代表される仮名、平仮名による表記様式で書かれた”女手”という、それら二つの文学を分けずにキチンと引き受けたりと、漢文学、漢籍の素養がある上に、二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石なんかは、今挙げた人で言えば順にロシア語、ドイツ語、英語の素養を身につけました。

因みに、先ほど挙げた、男手と女手というのは、

『男・女が相互排除的に使用する表記様式のような意識』

という意味でおいて、何も男は男手を、女は女手を使用したという意味では無いのだけは補足しておきたいと思います。

当時の貴族たち自身の言語使用の実態においては、男も女もともに漢字と仮名による表記様式両方が必須のものであったのでありました。

さて、話を戻しまして、ここでふと、西洋と比較するのに大切だと思うので、日本の過去の作品に少し触れる事を視聴者に許して頂きたいですが、劇作文、江戸時代の井原西鶴や上田秋成の作品を読んでると、ある事に気づきます。

それは西洋とは違って、個人の内面は描かれていない事です。

確かに、悲しいだとか、生きてるのは虚しいという程度のことは書かれていますが、近代の青年が恋や生き方に悩む、その言葉に出来ない混沌とした内面を、どう言葉にするか、これは描写するというより創造に近い作業になっていきますが、これが近代の小説家まで頭を悩ませる事になります。

井原西鶴だとかと時代が違うと言えばそれまでですが、明治に入って近代小説を描こうとした作家たちは、どうしてもこの壁を乗り越えなくてはいけなかったのですが、中々越えられません。

その証拠として、二葉亭四迷は浮き雲の執筆を中断せざるを得ませんでした。

日本近代小説の幕開けと言われているこの小説を読むと、現代の私たちには変わっているあまりに、面白いと思える点が幾つかあるのに気づきます。

というのは、この小説には殆ど句読点が無いんですね。日本語には元々句読点が無いと言って良い。

明治になってから句読点を頻繁に使うようになりますが、浮き雲の段階では、まだ無い。その他にも面白い点がいくらでも見つかりますが、それは視聴者の方々が是非ご自分でお手に取って読んでみて下さいと提言して、今はこの辺で終えるとします」






勲「先程に私はリアリズムについて触れましたが、私なりにまた別の視点から考えるリアリズムというのは、日本で言えば、儒教に代表される一つの文明、文化のヒエラルキーの中で、その枠組みの中でいかにその教えを自分が体得するか、あるいは納得出来たかという時に、初めてリアルという認識を持ってきたのだと思います」


義一「要は、枠組みが大事なんですね」


勲「そう、その通りです。西洋なら、勿論キリスト教という大きな枠組みがあるおかげで、纏りを持った現実を認識できるわけです」


義一「確かに枠組みがなかったら、どこまでも広がっていってしまう訳で、人間の能力では収拾がつかなくなってしまいますものね。

ふと今ですね、チェスタートンがこんな事を言っていたのを思い出しましたよ。チェスタートンの言葉というのを知る人は多くないでしょうが、巷間に伝わってよく知られているであろう言葉を、正確では無いですが引用しますと、こうでした。

『絵画は額縁によって決まる』」


勲「あー」


義一「要は、まずどの程度の大きさの中で表現するのか、額縁という枠組みがまず決められなければ、絵に着手する事が不可能だって彼は言いたいんですね」






勲「日本というのは、昔から『言霊信仰』がありまして、言葉には霊力が宿ると思われてきました。

紀貫之が古今和歌集の仮名序で高く評価していた奈良時代の歌人である山部赤人と共に、飛鳥時代の歌人で”歌聖”と呼ばれて、長年に渡って称されてきた柿本人麻呂の歌にこんなのがあります。

『磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ ま幸くありこそ』

これは万葉集に入っていますが、ここからも言霊をいかに大事にしてきたのか分かりますね」


義一「ちょっと口を挟んですみませんが、その歌の前にこんなのがあったのを思い出しました。

『葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸(ことさき)く ま幸くませと 障(つつ)みなく 幸くいませば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)しきに 事挙げす我れは 事挙げす我れは』と。

つまりですね、一応現代語訳しますと、

『この葦原の瑞穂の国は天つ神の御心のままに、人は言挙げをしない国です。しかし私はあえて言挙げをいたします。この言の通りにどうぞ御無事でいて下さいませ。お障りなく御無事にお帰りの時、荒磯に寄せる波のように、変わりのない御姿でお目にかかりましょうと、百重に千重に寄せる繰り返しの波の様に、私は何度も言挙げをいたします。幾度も言挙げをいたします、私は。』

となります。

確かに、ここにあるように、日本人は昔から、この平安以前から言挙げはしないと、そういう意識、美意識は持っていました。

なんせ、日本武尊(やまとたけるのみこと)が死ななければならなかったのは、言挙げしたからですからね。

伊吹山の白いイノシシを、神の化身だと知らないで、『お前なんかは帰りに殺してやる』と、まぁそんな言葉を言ってしまったばかりに死ぬ事となってしまいました。

なのですが、今さっき触れた様に、人麻呂もあの様な歌を読んでいるわけです。

まぁもっとも、この場合の言挙げは、何かを暴き立てたり暴露をしようという事ではなく、ただ単純に恋の事なわけですが、勲さんがおっしゃった通り、言葉には霊力が宿るという信仰から、おいそれと簡単に言葉を口にする事は恐れるのが言霊信仰の一つです。

でも今の人麻呂の歌の様に、自分の気持ちを何とか伝えたいと思った時に、言挙げをするという逆の発想も出てくるわけです。

さて、ここまでの話で私が何を言いたいのかというと、我々みたいな人種はですね、

『保守を標榜する割には、言挙げをしすぎる』

と、全く日本人らしく無いと言われてしまうのですが、しかし、このように保守の態度らしく自国の過去を辿ってみると、言挙げをしない事を良しとしつつも、それでもどうしても言わざるを得ない、言挙げせざるを得ない場合には、しっかりと何度も言挙げをして見せる様なパターンはいくらもある訳です。

これは本居宣長にしてもそうで、彼も自分では言挙げをしないと言っていますが、実際に彼の著作を読んでみますと、言挙げをしています。

なので、よく私たちが言葉にこだわって色々と批評をすると、言挙げするなと伝統主義の右系統からからかわれたり、怒られたりするのですが、伝統を重んじるのならば、少しは自国の歴史や文化を学んで欲しいと、そう思うというか、訴えたいんですね。

…って、せっかくお話くださったのに、こんなつまらない愚痴で話を遮ってしまいまして、すみませんでした」


勲「あはは、いえいえ、構わないよ。同意見だしね。

さて、優れた文学作品を生み出してきたのは良いけれど、明治に入って以来、近代に否応なく入ってしまった日本人は、どうそれを書いていったら良いのか。

一体心理というのは描写出来るものなのだろうか。これが私含む作家、あらゆる文章を書く人間の悩み…のはずです。

ここで少し関係があると思われるので、散文について戻ります。

散文というのは、そこにあるがままの自然を捉える、同じ時代に絵画では印象派が出てきたのも偶然では無いでしょう。そこに寓意を読み取るのではなく、ただ光の揺らめきなり、目に写るそのものをそのままに捉えてる訳ですが、これを散文でやるというのが、近代のリアリズムだと思います」


義一「そうですね。ふと思い出しましたが、私の大好きな人の一人で、政治学者と言って良いでしょう、E・H・カーその人と同時代人ですが、歴史哲学者でコリングウッドという人がいます。

彼が『自然の観念』のなかでこんな事を言っていました。

『自然とは真にそう見えるがままのものである事、つまり自然は精神の産物であり、それ自身の権利で存在しているのではなく、真に作り出された産物である。なぜなら、真に生み出されたものこそ、真に存在するからだ』」


勲「私も同意ですね」







義一「先ほど勲さんがお出しになった二葉亭四迷は、『”詩想”を捉える』と言いました。音楽に楽想という言葉があるようにですね。

音楽というのは音が素材な訳ですが、音というのは意味を持っていなく、言うまでもなくただの音です。

そんな何でもない音で一つの構造物を作るには、建築物を作るように、厳密な法則と技術が必要となる訳です」


勲「そうですね。それでいくと文学ではどうか。

小説を書くには、”一般に厳密には”とこの後のために留保を置いときますが、続ければ、技術的にこうでなくてはならないというものはありません。それは素材である言葉自体に意味が含まれているからですね。

義一くんが今言った、建築物なり音楽なりは、ありとあらゆる技法を屈指して組み上げなければ、意味のあるものに仕上がらないのですが、言葉はそれぞれのものが伝達の意味を持ってるので、テキトーにしても何とか格好はつきますから」


義一「ふふ、一応は格好くらいはつきますね。

んー…今ふと、ドイツの肩書きは哲学者で構わないと思いますがヴァルター・ベンヤミンがこのような事を書いていたのを思い出しました。簡単に言って仕舞えば、

『翻訳者は自国語を外国語によって拡大し深めなければならない』

という事です。

西洋で一番分かりやすいのは、やはりルターがした聖書のドイツ語翻訳でしょう。ルターはラテン語でしか読めなかった聖書を、そのラテン語のからではなく、新約はギリシャ語原典から、旧約はヘブライ語からドイツ語に翻訳しました。

当時ラテン語を読める人は聖職者だけでしたから、信者は教会に行って神父の説教を聞く事でしか神の声を聞くことが叶わなかった訳ですが、ルターは信仰者としての使命、もっと言えば翻訳者の使命を実行して、やり遂げた代表者の一人であると、これは先程触れたベンヤミンも言っています」


勲「なるほど」


義一「何故今ベンヤミンを思い出したのかと言うと、先ほどの私の話に関連するんですが、ルターは当時の教会よりも、聖書を重視するという意味でも、”純粋言語”、つまり神の言語への信仰がルターにはあったとも言える訳でしたが、二葉亭四迷は繰り返しますが作品の”詩想”を捉える、これを分かりやすく言い換えれば、二葉亭四迷はロシアのツルゲーネフの翻訳をやっていますが、それで言えば、作品の中に捕らえられている”純粋言語”を日本語によって掬い出すという事を言いたかったのではないかと私は思います。実際に二葉亭四迷が訳したツルゲーネフからは、日本人の気配が滲み出ていますから…って、思いっきり主観ですけれど」


勲「ふふ。いや、私は少なくとも、君が言わんとする所は分かりますね。

今翻訳の話が出ましたが、日本語の書くシステムそのものが、漢語という外国語による翻訳であったというのを触れざるを得ないですね。

日本語にとって、描写の問題は同時に翻訳の問題でもあった訳です。

今の奈良を中心とした大和国には文字がなかったので、我々は漢語という外国語を使って日本語を書くシステムを作るという、壮大な冒険を続けてきたという歴史があります。

その結果、漢字から仮名が生まれました。

『安』から『あ』が生まれ、『以』から『い』、『宇』から『う』、『衣』から『え』、『於』から『お』。

ついでにカタカナで言えば、『阿』の『阝』から『ア』、『伊』の『亻』から『イ』、これは平仮名と被ってますが『宇』の『宀』から『ウ』、『江』の『エ』から『エ』、これまた被ってますが『於』の『方』から『オ』といった具合にですね。

まぁこれは一つのトリビアと言いますか、豆知識を述べた上で、これ以上掘り下げると、文学と微妙に逸れていってしまいますし、取り敢えずこの辺りで話を終えたいと思います」






義一「1920年代だったと思いますが、初めの方に出た小林秀雄にも、批評家とはどういったスタイルをもって批評しなくてはいけないのか、その方法なり思想なりに多大な影響を与えた、これまた私の個人的に好きな、フランスを代表する広義で文学者であるポール・ヴァレリーが、こう言ってるのを思い出しました。

『永遠という思想の消滅は、長い時間を要する仕事への嫌悪が増していることと、丁度符号する事態のように思われる』

我々の永遠の観念というのが、単純に頭の中で生まれるのではなく、我慢に我慢を重ねた細やかな手仕事だとか、何かジッと一つのものに専心していく、その長い時間に耐えていく、その中から永遠という観念は生まれてくるというのに、今まさに、永遠という観念、思想が消滅して、今だけ、金だけ、自分だけが良ければいいという、軽薄にして、しかもそれだけに専念してたら、結局は自分の首絞める事になってしまう未来が分かり切っているのに、それでも刹那的な人生しか生きられなくなると、当時の時代を見たヴァレリーが言ってるんですね。

私たちの時代は、言うまでもなくこれが昂進していると思います」


勲「そのヴァレリーの話を聞いて、こんな事を思いました。

かつて過去の人間たちは、神が作ったフィクションの世界に生きていたわけですが、現代の私たちはというと、私たち自身が作ったフィクションの世界にいるとも言えると思うんですね。

そうすると、たかがフィクションを書き、たかがフィクションを読む、それで良いじゃないかと。

面白ければ良いじゃないか、楽しければ良い、そのことが現代的だと錯覚するんですね。

これはまぁ、私と義一くんが共通して知っている、神谷さんの定義する近代そのものって感じもします」


義一「ふふ、そうですね」


勲「しかしですね、どこか全感覚で得心出来る様な物語を持たなければ、人間としての生存、つまり言葉、精神的存在が危うくなるのは、火を見るよりも明らかだと思うんですね。

それは、私には小難しい事だから分からないが、これは義一くんや神谷さん達の言う、真正保守の意見にも重なるとは思うのだけれど」


義一「その通りですね」


勲「さっきのヴァレリーにしても、同じ様な表現をしていましたよね?

私はですね、フィクションは、真面目に受け止めるべきセンセーショナルな真理を含んでいると思っている…というよりも、これは文学という芸能に於いて、その様な物でなければ、フィクションですら無いと言いたいわけです。

まぁ、これは今までの議論の中でも手を替え品を替えて出てきたので、今更付け加えなくても良いと思いますので、この辺で終えときます」





勲「前の話に戻るようですが、小説は音楽や建築、その他の芸術、芸能と比べると、言葉という意味を含むあまりに、どうしたって格好にはなるといった話をしましたが、それはやはり格好がつくというだけであって、やはり究めたいと思うならば、好き勝手に書いていても、それは無理な話でして、結局は小説にも形式が必要という結論になります。

人生で考えると分かりやすいと思うのですが、私たちは人の数ほどに人生の形はあるにはあるのですが、しかしだからといって、個々人が好き勝手に生きて良いわけではないわけでして、それと同じように、繰り返しますが、人生にも小説にもある程度の形式は必要になってきます。…分かりますかね?」


義一「あはは、私には分かりやすいです」


勲「ありがとうございます。これは他を巻き込まないようにという意味で、私個人の考えと言わせていただきますが、私自身は芸術至上主義ではありませんが、無数のモチーフと、幾つかのテーマを、音楽や建築のように組み立てたいと、作品を書く時にいつも意識しています。

さて、モチーフとは何でしょう。色々な説明が出来ると思いますが、私自身で言えば、一口に登場人物だと思います。一人一人がモチーフであると」


義一「なるほど」


勲「なので、一つの小説のモチーフをつかもうと思ったら、一番掴みやすいのは登場人物たちをみることだと思います。

これは突拍子もなく聞こえるかも知れませんが、実は読者もこのモチーフに働きかけています。というのも、言うまでも無いですが、読者が読み進める事によって、登場人物たちが活動を始めて、小説内の時間が進み始めますが、つまりですね、大昔に描かれた作品であっても、読者が読む事によって、いつでも作品は”現在”であるのです。

…ふふ、これもまた分かり辛い話になってしまったかも知れませんが、時間の制限上、一旦ここは置かせてもらって、なぜ人物がモチーフだと思うのかについて軽くでも話したいと思います

それは、今まで話してしまった事でもあるのですが、要は人物だけが時間を担うことが出来るからです。

人物は皆、小説の中で時間を担って生きています。彼らにはそれぞれの時間がありますし、それを統一するメインの時間、つまりは主人公が担う時間という個別のものもあったりします。

さて、読むという行為、向こう側に小説の中を流れる時間があって、そしてこちら側に私たちの生きている時間があり、それが読む時間の中で一つになるという時間の感覚が”リアル”と言うのだと私は思いますね」


義一「なるほど。芸術を鑑賞する時のリアルというのは、まさにそういう風に、私たちが生きている時間と作品の中を流れる時間が一つになった時、その時私たちは本当の意味で感動する、それがリアルというのでしょうね」


勲「その通りだと思います」






義一「前にも私が引用したヴァルター・ベンヤミンが、こんなことを言っていたのを思い出しました。

『長編小説が意味を持つのは、他人の運命が、それを焼き尽くす炎によって、私自身の運命からは決して得ることの出来ないような温もりを、私たちに分け与えてくれるからなのだ』と」


勲「あー、なるほど」


義一「『読者を長編に惹きつけるもの、それは、みずからの凍りつく様な人生を、長編小説の中で読む死に於いて暖めたい、という希望に他ならない』

と続けて言っていました。

つまり、小説の主人公というのは大体に於いて、普通の人では体験しない事を経験していくのですが、それはまず大方に於いて不幸です。それが焼き尽くされるという表現になっているわけですが、その炎によって読んでいる読者は、自身が生きている運命からは決して得ることの出来ない様な温もりを、その中から汲み取ることが出来ると言っているんですね。

これはある種、アリストテレスの有名な『詩学』の中に出てくる、”カタルシスの発散”を私なんかは思い起こします。

私はアリストテレスの書いたものでは、圧倒的にこの『詩学』が大好きなのですが、そんな個人の好みはともかく、これも一応視聴者向きに説明しますと、

”カタルシス”というのは、心の中に解消されないで残っていたある気持ちが、何かをキッカケにして一気に解消されるというのが一般的な説明ですが、

勿論この意味も込めた上で、アリストテレスもベンヤミンとある意味一緒で悲劇を持ち出していまして

『観る人に怖れと憐みを呼び起こし、その感情を浄化する効果が悲劇にある』

と書いていました。まさにそれこそが、長編小説が読まれる、長編小説が書かれる”意義”の中でも、重要なことだと私も同意するんです」


勲「私も同意です」







義一「”author”という作家を意味する言葉がありますが、これも元に辿ってみると、”originator”、『創始者』という意味に辿り着くのですが、このoriginatorは元は”original”と同じ語源の”origin”に辿り着くわけでして、これは源泉、起源という意味になります。

ここから私たち…と言っても良いのですが、この場には私しかいないので、個人の責任の元で言うと、私が真正保守思想家だと見ている一人に、哲学者にして二十世紀を代表する詩人でもあるT・S・エリオットを思い出します」


勲「あー、なるほど。エリオットですか」


義一「ふふ、はい。エリオットは一九一九年、三十一歳の時に、『伝統と個人的才能』という短い評論を書いています。

彼は先ほど触れたヴァレリーと同じ様に、当時ですら人々の間で共有されているはずの価値観が薄れて希薄になっていく事を、これは感性豊かな芸術家だから尚だったのでしょう、とても危惧していたんですね。でも価値観の引受人であり、それを人々へ表現して見せるという任務を担っている芸術家であるせいもあって、近代に特有の異端からの牽引力に抗うために、その息絶え絶えとなっている歴史的”正統”に身を寄せる他になかったわけですが、彼の紹介は私が大好きなのもあって、これ以上話すと長くなるので、この辺で終えときますが、正統主義とも見えるエリオットは、『伝統と個人的才能』という短い評論の中で、その立場を鮮明にしました。

これは、個人的には今の芸術家と称する人々、もしくは芸人と称する人々にはよく読んでもらいたいと思うのですが、私個人の想いはともかくとして、ふと先ほどの勲さんの話を聞いていて、関連するかはわかりませんが彼の詩論をふと思い出しました。

『詩は情緒の解放ではなくて、いわば情緒からの逃避である。それは個性の表現ではなく、いわば個性からの逃避である』と」


勲「そうですね。僕が批判した新奇なものというのが、ある意味ただの思いつきである個性という事になるのかもしれません。私も何も、別に新しい表現などとは言いましたが、それは何も無いところから自分で思いつくままに生み出せとは言っていないのですから。これは誤解されてしまったかも知れませんけれど」


義一「ふふ、同意をありがとうございます。

さて、エリオットはこうも言っています

『作品の最上の部分だけでなく、最も個性的な部分でさえも、実は彼の祖先たる過去の詩人たちの不滅性が最も力強く発揮されている部分である。伝統には何よりもまず、歴史的感覚ということが含まれる。この歴史的感覚には、過去が過ぎ去ったというばかりでなく、それが現存するという事についての知覚も含まれる。時間的感覚だけではなく、時間を超えるという意味での超時間的感覚なものに対する感覚であり、これら二つが同時的な感覚であって、これが作家を伝統ならしめるものである

詩人というのは、現在あるがままの自己を、何かより価値あるものに絶えず委ねてゆくことなのだ。芸術家の進歩とは、いわば絶えざる自己犠牲であり、それはつまり絶えざる個性の滅却なのである』

さて、ここで先ほどのオリジナリティの元であるオリジンに戻りますと、私はいわゆる本質的な芸論として、エリオットに全面的に賛成なのですが」


勲「私もです」


義一「上出来な個性を有した人間は、己の独創性、オリジナリティのオリジン、源泉が一体どこにあるかを尋ねずにはおれないのであり、そして実際にその源泉を探し求めてみれば、その源泉が必ずや歴史的感覚の集蔵庫たる伝統のうちにあるのだと、知らざるを得ないという事を言いたかったのだと思います。

さて、私は勲さんの前でなんですが、勿論全てとは言いません。私も幸運な事に、全体から見れば絶対数が少なくても芸に謙虚に邁進している方々とお付き合いさせて頂いていますが、カッコ付きの芸能の分野だけではなく、近代のありとあらゆる領域において、不滅の標語となり仰ているのは『個性の解放』であり、それに基づいて甘ったるい胸焼けがするようなヒューマニズムの物語がたくさん紡がれていますよね?

オリジナリティーのオリジンが、人間の個々の中にあるとしてしまえば、あらゆる新奇な創作が個性解放の名目の元に、ついには個人のあらゆる欲望を解き放てという掛け声に駆られて、称賛されるという事態に今なっています。

エリオットの作家人生を貫いていたのは、かかる非人間的な主張をヒューマニズムと名付けて平然としている近代の言葉遣いの変態ぶりと、それによって促されてきた近代という時代の奇矯さとを共々明るみに出そうとしてきたのでしょうね」


抜粋終わり

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