第15話 運命の恋人 ぼくと赤ちゃん
自分の人生は何でも手に入ると思っていた。
もちろん多少の努力を必要とするものもあるだろうけれど、しょせんそれはそれとして、いずれは自分の物となると思っていた。
もちろん、いくら自分が努力しても、頑張ってもお金を出しても手に入らないものがあるとは頭では知っていたけれど、それでも、そんなものはほとんどないと思っていた。
人が当たり前に手にするものを、普通に手に入れるものを自分が持てないと知った時の衝撃は、計り知れない。
自分の人生の根底から覆され、自分が生きていることの意味ですらなくなったように感じた。
周りから憐れみを込めた視線を感じ、ストレートな嫌味も遠回しな慰めの言葉も自分を素通りして行った。
自分が空っぽになって、今までの努力もすべてなかったことのように感じた。
これは今までは省みなかった不妊とされる女性たちは日常で浴びせられているのだと感じたとき、自分の今までの行動を恥じた。
同じ立場になって初めて知る、世間という大多数からの攻撃。
普通じゃない。
かたわのくせに。
理不尽な攻撃。
そのすべてを自分自身が受けることで、今まで周りに与えていたプレッシャーを感じた。
地面にめり込んでいるように生きてきた僕に手を差し出し、救い上げてくれて、立ち上がらせてくれた人が居る。
その人が、僕に与えてくれたのは家族。
人につけられた傷は人によってしか癒やせないということを実感した。
ここまでの結末を望んでいたわけではないけれど、その人が居たからまた生きていけると思っていた。
なのに、それ以上の贈り物をくれた。
体重2キロの小さな命。
千早さんが妊娠していると言った時、すごく戸惑った。
「僕の子どもなの?」
と、普通に考えれば殴られても仕方ないような言葉を発してしまった。
「もちろん」
と、力強く言われて僕は泣いてしまった。
40間近の
望んでも望んでも手に入らず、簡単に手に入れた人はたやすく放り出して、最悪死なせたりするのを見て、人の身体は不公平だと感じていた。
なぜ、欲しくて、経済的にも満たされて、愛情をもって育てられる家に生まれず、何人も簡単に死なせてしまう家にぼこぼこと産まれるのだろうとニュースを見る度にを呪ったりもした。
何人も欲しいと願ったわけではない。
たった一人でもいいからと思っていた。
今まで、子供が居なくても僕と一緒になりたいと願ってくれた人はいなかった。
子供が産めないかもしれないことを知りながら僕を求めてくれた人もいなかった。
「不妊なら、一緒に楽しみましょう」
と、酷い誘い言葉を投げつけてきた人もいた。
世間の不妊家庭で、たくさんの女性が痛みと苦痛と恥ずかしさを伴った治療を行うのに、男性不妊は漢方薬を飲む程度だと聞いてびっくりした。
もちろん、男性不妊にも痛い治療も恥ずかし治療もあるけれど、それは大体女性がいろんな痛みを伴った治療の後に来るものだ。
不妊治療中の女性が薬が合わなくて身体的に不都合が出ても、子供のためにと我慢させられることの多さに驚く。
それを踏まえて、まず男性が不妊検査を行うべきだと僕は今なら思う。
その下心は、僕と同じところまで落ちてこいということだ。
僕の不妊は結婚前のブライダルチェックでわかってしまったので、その先には行けなかった。
けれど、結婚してから夫が不妊だという人は結構多いことを知った。
自分自身に何の瑕疵もないのに、毎月治療のための通院があるので時間が取れるパートになると聞かされた人もいる。
あの時、僕は世を儚んだけれど、実際大変な思いをしている人をたくさん知った。
少数の人たちが、いたわりの言葉をかけてくれた。
その言葉が染みた。
本当に感謝しています。
妊娠期間は9カ月と聞いているけれど、妊娠したと千早さんが言ったのは、すでに6カ月もたっている時で、僕がハラハラドキドキしたのは数か月だ。
一月ほど早く生まれたしね。
あの時の感動は本当になんと言っていいのかわからない。
頑張っても望んでも一生手に入るとは思ってもみなかった宝物が僕の腕の中にいる幸福。
小野結
僕は君のためになら何でもできる気がする。
結ちゃんが千早さんと自宅に帰ってきた。
舞さんたちのおかげで家はきれいだ。
用意した和室に、荷物を下ろし千早さんが着替えて横になった。
「休んでいて、今お茶持ってくる」
結ちゃんは千早さんの横のベビーマットレスの上に下ろした。
今どきは退院時はきれいにして写真を撮るというので、真っ白なセレモニードレスを着ている。
ちょっと写真撮っておこうとデジカメを取ってパシャパシャ。
その後、ドレスを脱がせて、肌着と普段着のベビー服に着替えさせた。
ついでにおむつも取り換えた。
小さいから、細い足を持つときに折れそうで怖い。
結ちゃんが目を開けてこちらを見る。
小さな瞳に僕が映る。
見えているのか見えていないのか、不思議そうな顔をしてまた目をつむる。
「千早さん、今結ちゃんが僕を見たよ。お父さんだってわかってくれたのかな」
「お腹の中でパパの声を聴いていたから、パパかなって思っているのかもね」
「へへ。パパだよ。これからずっと一緒だよ」
それから、キッチンに行ってお湯を沸かして、マタニティブレンドのお茶を入れた。
千早さんが酸味がすっきりしていいと言って妊娠中から好んで飲んでいたのだ。
あまり熱いと飲むまで時間が掛かるので一冷まし《ひとさまし》してはこぶ。
「千早さんお茶が入ったから起きられる?」
「うん」
これから10日間ほど、千早さんは床上げが済むまでお布団の上で寝たり起きたりの生活だ。
和室にはエアコンを入れて緩く暖房するようにしている。
空気清浄機も加湿器も隅の方で動いている。
布団の横に結ちゃんのベビーマットレス、その横にこたつ。
千早さんが夜中の授乳のときに必要と言っていたので用意した。
こたつ。
これがのちに澪ちゃんの指定席となるのだ。
天板の上にお茶のカップを置いてみかんの山を飾る。
千早さんがこたつにはみかんと言ってきかないのだ。
家では廊下の隅に箱で買ってある。
ゆっくりと千早さんが起きて、ガウンを肩にかけてこたつに入ってきた。
「お疲れさまでした。結ちゃんを産んでくれてありがとう。これからもよろしくお願いします」
「何言ってんの。私が産みたいから産んだの。もし私に何かあったら、あとは知君にお任せだから、頑張ってください」
「僕は初心者なので、できるだけ一緒に頑張ってください。でも、万が一の時は任せて」
僕たちはにこりと笑ってひさしぶりにキスをした。
触れるだけの夫婦のキス。
今までは違う。
感謝と敬愛と愛情ともろもろを込めたキス。
わずか二キロの宝物。
本当にありがとう。
僕は思う。
僕が乏精子症じゃなく、普通に結婚して子供が生まれていたら、こんなに子どもが、大事だとは思えなかったかもしれない。
せっかく生まれてきた命をぞんざいに扱ったかもしれない。
子供の人格を認めず、暴君な父親になったかもしれない。
僕が千早さんを大事に思い、結ちゃんを大切に思うには、僕の病気は僕の目を覚ますために必要なことだったのかもしれないと考える。
千早さんに言うと、そんなことは無いわよと簡単に言うけれど、僕はやっぱり千早さんのおかげで目が覚めた気がする。
千早さんは素敵だし、結ちゃんは可愛い。
本当にありがとう。
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