第9話 運命の恋人 千早さんと赤ちゃんが帰ってくるまで

手術後、一日たってようやく千早さんが食事をとった。

昔と違って今は麻酔が切れれば、ベッドの上で下半身を動かしたり、軽食を取れたりするらしい。

千早さんは疲れてもう何も食べたくないとか言っていたので、経口補水液とかゼリー飲料とか口にしやすいものを置いていたけれど、本当に何も食べずに寝ていた。

「高齢出産は体力勝負なのね」

どうやら本人曰く、舞さんから澪ちゃんまではぽぽーんと生んだらしい。

「赤ちゃん見た?」

「うん」

「どうだった?」

「ちっちゃかった。それで可愛かった」

「違うよ、なんか異常とか有った?」

そっちか。

「一見しては無いって言ってた。でもこれから検査してみないとわからないこともあるって言ってた。それでやっぱりちょっと小さいって」


千早さんははぁーッとため息を一つ。

「もうちょっとお腹に入れておいてあげられれば良かったんだけどなぁ」

「それは仕方ないよ。僕、千早さんと赤ちゃんどっちって言われると思って身構えちゃったし」

「え?そんなこと言われた?」

「ううん、言われてない。お医者さんに母子ともに助けるための手術ですって怒られちゃった」



「ホント言うと、血圧が下がらないとか言われている千早さんを見てすごく怖かった」



「このまま僕のところに戻ってこなかったらって思ったらすごく怖くなっちゃって、簡単に産んでほしいなんて言った事を後悔した。でも生まれてきた子供を見てすごく嬉しかったのも本当。なんかさ、神様って信じたことなかったけど、すべての神様に感謝したよ。それで、泣きそうになったら、舞さんに怒られちゃった」



千早さんは、点滴の針が刺さってない方の手を僕に伸ばしてきた。


「頭下げて」


僕は言われるままに頭を下げた。


「多分、私は知君を置いて先に死んじゃうと思う。でも、それはまだだから。今じゃないから、もっと二人でいっぱい幸せになってからだから」

そうに言って頭を撫でててくれた。

この手があることに、この手の暖かさに僕は涙する。

僕は頭にあった千早さんの手を取り、僕の唇に寄せた。



「うん、でもなるべく頑張って死なないでね」

「うん」

「それから、二人じゃなくて、みんなだから。舞さんたちも春哉君も智君も秀君も澪ちゃんも赤ちゃんもみんな一緒に幸せだからね」


「そうね」

千早さんが微笑んでくれる。



「ところで赤ちゃんの名前って考えている?」

「知君が付けてくれると嬉しいな」

「ホント?僕が考えた名前でいいの?」

ニコニコと笑って言う僕に、千早さんは怪しんで言う。


「とりあえず候補を聞かせて欲しいかな?」

「千早さんは舞さんと澪ちゃんの名前を付けるときなんかルール使ってる?たぶんだけど、ま行にこだわっていたりするかなって思ってたんだけど」

千早さんは少し考えて言った。


「女の子だったからま行ってかわいいかなって思って付けたの。

それで前の名字が画数多くてそれに負けない画数で、でも名前書くのたいてい私だから、面倒だから一文字って決めたけど?」


「僕もそうに思っていた、画数はわからなかったけれど。それでね、まみってきたらつぎはむだよね」



「むで一文字って麦しか名前として見付けられなかったんだよね。それはちょっとかわいそうでしょう?どこかのおばあちゃんみたいだし」

千早さんはげふっと笑って言った。

「知君、笑うとお腹が引き攣って痛いんだけど」

「わかるわかる、僕も以前盲腸取った時、誰かさんがお見舞いって漫画や落語のⅮVD持って来てくれたよね」

あの時は暇つぶしかなと思っていたけれど、後日食事に行ったときに笑うと痛いっていったらやっぱりと嬉しそうに言っていたよね。

確信犯かよって思ったけど。




「それでね。結ぶって書いてゆいってつけたらどうかなって思ったんだ」


「僕と千早さんを結んでくれた赤ちゃんだし、僕と舞さんたちを結ぶ懸け橋だし。

でも、小野結おのむすぶじゃかわいそうでしょ、だからゆいちゃんって考えたんだ」


ゆいちゃん ゆいちゃんって千早さんは口の中で何度か繰り返していた。


「うん、可愛いね。それにちゃんと由来があるのっていいね」

「そうかな」

「小学生の時たいてい自分の名前の由来っていう作文書かされるのよ。うちの子供達もみんな書いていたから、きっと普通にどこでもやる授業なんだと思うわ」



「その時にきちんと由来があると、ちゃんと話してあげられるじゃない?」

「舞さんたちの由来って?」


「正直、舞の由来って、モスラから来てるのよね」

モスラ?なんで怪獣映画?


「あの子、お腹に居るときから活発でもこもこ動いていたから、モスラちゃんって呼んでたの。で生まれてきたら女の子だったからモスラはちょうちょだよねって」


「だから、舞飛ぶで舞」


「千早さん、モスラはちょうちょじゃなくて蛾じゃないかな」

「えーそうなの?」


これって舞さんは知っているのだろうか?

「澪ちゃんは?」

「それはもう上が舞で一文字だから、みがつく漢字を探したのよ」

あぁ、これも澪ちゃんに言っても大丈夫なのかな?  

わりと千早さんの名付って、いい加減かもしれない。

僕はずっと考えていたのに。



「じゃあ、智君と秀君は?」

「あれはあの子たちの父親が付けたから、意味なんて知らないわ」

これはもっと残念かもしれない。



「名前なんて個人がわかればいいのよ。大体呼んでいるうちに体に定着してそれっぽくなるんだから」

それってどこの錬金術師ですか。


「私の千早って名前だって、早春の花が咲いていたからとかって聞いたわよ。結構いい加減だと思うけどね」




「一生懸命考えてくれたのね、知君ありがとう、すごく嬉しい」

「だって、子供の名前を付けるなんて一生無いって思っていたんだよ。それが千早さんだから、産んでくれたんだって思ったら、できるだけかわいくていい名前を付けようと思って、名付けの本なんて10冊くらい読んだし」


僕は得意げな顔して見せた。

そして千早さんは、笑わせないでぇと言っていた。





結ちゃんは二週間で小児科から退院できた。

最初の一週間はNICUに居たんだけど、特に目立った疾患は見つからないということで、コットと言うちっちゃい箱ベッドに入って千早さんのもとに帰ってきた。

千早さんは、術後一週間で退院していいと言われていたのだけれど、結ちゃんがまだ入院中なのでそのまましばらく一緒に居ることになった。

でも、結ちゃんの経過が良好なので、二人は二週間後に家に帰ってきた。



一階の和室に、新しく買った高反発マットレスを敷いて、千早さんの寝床とした。

隣にカーブベッドという赤ちゃん専用のちっちゃいマットレスを用意した。

何が一番かって夜泣きをしないというフレーズに惹かれたのだ。


弟のお嫁さんが、赤ちゃんの夜泣きがひどくて、この子さえいなければ私はゆっくりと眠れると思ったことがあると言っていたのだ。

そんな恐ろしい状態になったら僕はきっと廃人になる事は決定だ。生きる屍だ。

お金で済むことは、済ませてしまう。


僕にはいわくつきのお金がたくさんあるから。


ゲン落としのために、幸せになる事に使われればお金だって成仏できると思うし。

違うかな?



後は空気清浄機に加湿器にとネットで見て、配達してもらってある。

今は便利だ。


千早さんたちが入院中はもちろん仕事に行っていた。

でも、僕の上司の新城さんが、お前腑抜けと叫んでいた。

そんなつもりないんだけどなぁ。

幸せすぎて、足が地についてねぇとも言っていたけど、普通に歩いているけどね。



新城さんとはバッチリやりあって、千早さんが退院したら、僕は育休突入だ。

予定より二週間も早くなったので、二週間余計に一緒に居られると思うととても嬉しい。

仕事の割り振りも、コンプラ室のみんなが喜んで引き受けてくれた。

新城さんが、この年末の忙しい時にお前の仕事を余計に受け持ってくれるんだから、みんなに感謝しろって言ってた。

もちろんです。


育休に入る前に、お歳暮と称して、コンプラ室の皆さん一人一人に千早さんの好きな彩花の宝石を一箱づつ配って歩いた。


別名ワイロともいう。


熨斗紙は祝だ。


舞さんと将哉君からは、年末のお掃除セットというプレゼントが届いた。

千早さんたちが帰ってくる前に、お掃除業者さんたちが来て家のあちこちをきれいにして行ってくれた。

「今年はお母さん大掃除できないし、お正月前に気になるところは全部きれいにしてもらった方が良いでしょ」


「それから、今年のお正月は母と赤ちゃんと家族水入らずで過ごしてください」

と言ってくれた。


智君からも、お正月のおせちのセットが届くと聞かされた。

「俺が居ても邪魔だろうから今年はこっちに残ろうかと思っています」


この話を千早さんにしたところ

「そうね、まだ新生児だし、バイ菌だらけの大人は遠慮してもらおうかしら」

なんていうので、僕はびっくりしてしまった。

「え?結ちゃんのはじめてのお正月だから、みんなに来てもらって欲しいけど、ダメなの?」

「秀や澪も、スキーに行くとか温泉に行くとか言っているし、今回は私と知君と結ちゃんでゆっくりしましょう」

と言われた。


がっかりしている僕に千早さんが言う。

「そんなにがっかりされると、私もがっかりだわ。

私と結ちゃんだけじゃ過不足かしら?」

「そういうわけじゃないけど、今までお正月はみんなで過ごしていたんでしょう?

僕の所為で千早さんが寂しいかなって思って」

「私は知君と結ちゃんだけでも十分楽しいお正月になると思うし、結ちゃんの最初のお正月くらい家族水入らずってどうかしら?でも、春哉は来るだろうし、澪だって顔を出すでしょうけれど」


そうか、今回はゆいちゃんが小さいから三人で水入らずってみんなが気を使ってくれているんだ。

ぼくたちのお正月はまだこれからもあるんだ。

これで終わりじゃないんだ。




僕の人生は28歳の夏で止まっていた。

そのまま、毎日何もなくただ過ぎて行くだけだった。

それが動き出した。


千早さんに出会い、千早さんと過ごせるようになって僕の人生が再び明るく彩られた。

そして、結ちゃんが増えて僕の人生がまた違ったシーンを描く。


生まれてこなければよかったとか、死んだほうがましだと思ったこととか、悲しいこと辛いことはたくさんあったけれど、それはきちんとした日々を送っていればいつかは報われるんだと実感した。


僕は僕の人生を投げ出さなくて良かったと思っている。


10年前の僕。

きっと幸せになる日が来るから、それまでは地道にがんばれって言いたい。



そして僕の周りにも、今辛い目にあっている人はいるんだ。

その助けになるがコンプラ室で、僕たちだと思う。


新城さんが、僕のことを浮かれているというけれど、しばらくの間浮かれさせてほしい。

だってこんな幸せが来るなんて思っていなかったんだから。

それに僕が幸せになれば、今辛いことにあっている人だって、坂本のようにいつかきっと幸せが来るかもしれないって思ってくれるかもしれないでしょう?



明日は、千早さんと結ちゃんを迎えに行くんだ。

ベビーシートも付けたし、車内も除菌したし。


これから、夜寝られないかもしれないけれど、千早さんの代わりになれるように頑張れるといいなぁと思う。



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