第8話 運命の恋人 ぼくと千早さんの長くて短い一日


千早さんの妊娠がわかってから、僕は本当に浮かれていたんだと思う。

上司に育休を申請して、満期獲得を目指したのに、三分の一に削られた。

今いる部署はコンプライアンスがメインなので、新入社員や移動してきた人向けにコンプライアンス研修会が春から目白押しなのだ。


法令遵守、顧客情報の秘匿、データ等の持ち出し禁止、無断で労働時間を多くしないとか、モラルの順守とか多岐に渡るのですべてとは言わないけれど、その人たちが必要なことをは先に研修会で教えておくわけだ。

そして今一番の話題はハラスメントだ。

パワハラ、セクハラ、モラハラ、アルハラなど大体40種類くらいある。

それを前もって注意するのが研修会でもあるのだ。


当然四月前にすべての業務の采配を終わらせなくてはならないので、二月三月は残業三昧と言うコンプライアンスを無視した状況になる。


上司は家に帰れなくなってもいいのか?

生まれて二カ月三か月は一日会わないとスゲー変わるぞ、可愛いのが日に日に増してくるんだぞと脅してくる。


泣く泣く、一月の育休を確保した。


自分が不妊であると周知されてから、周りの雑音には耳を貸さないようにしていた。

大体良くない話ばかりだったし。


今はうわさ話や人の悪口を言う暇があったら、千早さんとイチャイチャしたいし。

終業後の酒飲みなんて御免だ。だって家が遠いし。

僕は一刻も早く家に帰って、千早さんのご飯を一緒に食べることを希望する。

妊娠後期になって、千早さんの身体はとっても大変そうだし、一緒にお風呂に入って、洗ってあげたり、お風呂上がりのスキンケアは、セックスの無い今の僕たちの最大のイチャイチャなのだ。



だから僕は知らなかったのだ、言い訳になるけど。

男性不妊のこの僕が社内でも指折りの優良物件だったことを。



11月の休日、千早さんと僕は少し早いけどいつ出産になるかわからないのでと、舞さんたちや春哉君のクリスマスプレゼント選びに出掛けることになった。

驚くことに千早さんは子供さんたちが大人になっても、誕生日やクリスマスプレゼント、バレンタインと贈物をしているのだ。

舞さんたちからも、千早さんの誕生日やクリスマスなどにプレゼントが送られてくる。


当然僕も千早さんから貰っている。

この間の僕の誕生日には、手作りのケーキと手編みのベストだった。

カーデにしようかと思ったんだけど、知君大きいから途中で面倒になっちゃった。

と、笑いながら言っていたけれど、ものすごく嬉しかった。

会社のスーツの下に着て出かけようとしたところばれて脱がされた。

「それとそのスーツ合わないから」


家の中でだけ着ることが許されるベストって何なんだ?


でも貰えてうれしい。

千早さんが僕のために一目一目編んでくれたと思うと、家宝にしたいくらいうれしい。



郊外のアウトレットまで車を出して、舞にはこれ、将哉君にはこれ、春哉にはこれと一つ一つ選んではニコニコ笑ってラッピングしてもらっていた。

それを横で荷物を持って見ていた僕の幸せと言ったら、この世の誰より幸せだと思う。


「次長、今日はお買い物ですか?」


誰かの声がしたけれど、僕じゃないと思って振り返りもしなかった。


「坂本次長ってば」

急に袖を引っ張られて、驚いて振り向いたけれど知らない女性だった。


「君誰?」

基本僕は会社の中で、コンプラ室の数人としか交流を持っていない。

それは、以前僕に種無しと言って揶揄した連中のことはすべて忘れたからだ。


知らない人とは話もしないし、挨拶もしない。

もちろん社内で面識のある人、うちの部署の人とか上司に紹介された上部の人とか以前営業に居た頃の取引先とかは別だけど。


仏頂面していると、みんな避けてくれる。



「え?私は以前坂本さんが営業に居たときに居ました野中ですけど」

「え?会ったことありました?」

五年も前のことなんて忘れているというか覚えてないと思う。

「いやですぅ、忘れているなんてひどいですぅ」

この媚を含んだ言い方って好きになれない。

「何か用ですか?」

「せっかくここでお会いできたのですからぁ、お茶でもご一緒しませんかぁ?」


「今は妻と買い物中なので、お断りします」

「え?そんなこと言わないでぇ、いいじゃないですかぁ」

なんなんだこの女性は?

千早さんと一緒なのになんで他の女と茶なんか飲まないといけないんだよ。

飲むなら千早さんと一緒に飲むよ。


「すいません、妻のところに行きたいので」

だからその手を離せよと言外に言ったけれど、離さないんでやんの。




「知君、お知り合い?」


やばい。

千早さんがこっちを見て言った。


「会社の人らしいだけど、僕は見識が無くて、困っているんだ」

「困っているなんてひどいですぅ」

助けて助けて、千早さん助けて。

ごめん、僕じゃこの宇宙人と会話できない。

嫌がっているのに伝わらないんだ。

千早さんは僕の隣に来て、にこやかに言った。



「いつも主人がお世話になっています。でも、今日は身内の、プライベートな買い物なのでご遠慮していただけるかしら?」

野中という女性は剣のある顔をしていった。

「夫の同僚とのちょっとしたお茶でも、お断りになるんですか?私が若いからって嫉妬ですか?」

「いいえ、若さなどに嫉妬なんてしませんわ。知君は私の夫です、私のことが一番好きなんです。なんで他の女性に私が嫉妬するのでしょう?」

あんた頭悪いわねって顔で得意そうに千早さんが言う。


「それに、誘っているのに嫌がられているってどんだけーとか思いますわ」

そうそう、僕ちゃんと嫌がっているし、断っているんだよ。

というか野中という女の攻撃が千早さんに向き始めている。

妊婦の千早さんに何かあったら取り返しがつかない。

頑張ろう、僕。

ずいっと千早さんの前に出た。




「君どこの課?僕がコンプラ室って知ってて、嫌がらせをしているんだよね?」

「嫌がらせなんて失礼ですね、ちょっとお茶でもって言ってるだけじゃないですか」

「それを断っているのに無理やり誘うってセクハラだよ」



野中と言う女の顔がゆがむ。



「結婚している男性をお茶に誘う、そして断られているのに無理に誘うって、セクシャルハラスメントの二連発だって知ってる?

君ちゃんとコンプライアンス研修会出ていますか?」


休み明けに会社に行ったら上司と相談する。

そしてコンプラを敵に回したことを後悔させてやるって心に決めた。

千早さんが、ポンポンと僕の手をたたいた。

「私の夫が素晴らしいのは私が一番よくわかっていますわ。でもね、こういうのって早い者勝ちなんですよ?」


一瞬あっけにとられたその女の顔をくすりと見下げるように笑った。

それから千早さんが僕の手を握ってくれたので、そのまま歩き出した。


野中という女はその場に立ち尽くしていた。




「ヤダわー、ないわー。自分でも恥ずかしいわー」

千早さんは一人で恥ずかしがっていた。

「なんで?」

「だって若い子に見栄はって、知君は私の物よ宣言しちゃったじゃない」

一人で恥ずかしわーみっともないわーと言ってた。


「なんで??僕はすごく嬉しかったよ。ホントは僕一人で立ち向かわないといけないのに、千早さんに助けて貰っちゃって、なんか情けないよね」

「そんなことないよ、すっごくカッコよかったよ」

「ホント?」

「うん、知君がきちんと既婚者を誘うのはセクハラだって言ってもらって、私、安心したし」

「なんで?」

「だって、誘われることがステイタスみたいな風潮じゃない?今って」

「僕は千早さんが、前のことで傷ついているのちゃんと知ってるから、絶対他の女性と二人っきりにならないって決めてる。あ、うちの母は別だけど」

「ちゃんとそうに言ってくれる知君だから、私も知君を好きでいられるの」


ねぇねぇ、今すぐキスしても良いですか?

この溢れるほどの、愛情を千早さんに伝えるにはどうすればいいですか?



「今日帰りにパスタ食べて帰ろ?」

千早さんが照れ臭そうに言う。

「いいね、ティラミスも食べたいね」


気が付けばずっと手を繋いだままだった。

このまま一生手を繋いで生きていきたいと思ってます。







休み明けに上司に相談をした。

「僕が以前いた営業のどっかに野中って女性居ますか?」

「野中ってのは二、三人いるが何かあったのか?」

「妻と出かけた先で絡まれました。嫌だって言ってるのにお茶に行こうとか無理やりですよ」

「あぁ、お前今結婚しておけばよかった物件だものな」

「なんですかそれ?」

「お前、一応名の知れた大学出ているし、見た目はそこそこいいし、それに仕事できんだろ。ここに引っ張ってきてからも給料ランク上がってるだろうや」


まぁ確かに。


「今まで不妊だから、子供が欲しい女性からは範囲外とされていたけれど、今どきの高齢独身女性の星になったしな」

「高齢独身女性の星?」

「今の奥さん一回り上なんだってな」

「ええ、まぁ」

「だからだよ、今更子供は望まないけれど、年上の女が好きなんだろうから自分でも大丈夫と思うんだろうな」

絶対それはない。

年上だろうが年下だろうが、それは千早さんだからなのに。

「もしかしたら、自分でもお前を取れると思うんだろうさ」


「ぜーーーーーーーーたいにありえませんから」

「あーわかってるって」


「とりあえずその野中のプロフ出して、あてはまる奴に忠告しなきゃな」

「お願いしますよ、それから社内で僕は妻一筋って宣伝しておいてくださいね」





「そんなん俺の仕事じゃねぇよ」

と上司が叫んだけれど、無視だ無視。

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