第4話 運命の恋人が

「運命の恋人が」


 ぼくがこの街に越してきたのは、今までの自分を捨てたからだった。

子供のころから勉強はできたし、親がやっていたので一緒に始めた剣道は自分に合っていたのか、同年代の中でも頭一つ抜き出たくらいにできた。

才能と言えばおごっているようだけれど、自分でも俺強えぇー的なことは感じていた。



いや解っている。

中二病的なものだ。


子供のころのあの無敵感はどこから来るのだろうか?

まぁそんな感じで小中高大とそつなくやってきたわけだ。



就職にしても取り立てて苦労をしたこともなく、あっけないほど簡単に内定を取ってそこそこ大手に入社した。

仕事は面白く、先輩たちに可愛がられて、何をやっても上手く行くというあの万能感に酔わされていた。

カノジョになりたい女の子たちが列をなしていたのもこの頃だ。


それがすべて打ち消されて、男としてのプライドが根底から覆されて、今まで下に見ていた周りの男から嘲笑されるようになったのは、結婚を控えて軽い気持ちで受けたブライダルチェックが発端だった。


当時付き合っていた彼女と結婚をしようと思っていた28歳の夏。

母が、万一お嫁さんに子供ができないと困るからブライダルチェックを受けて貰いなさいと言った。

ぼくは軽い気持ちで、彼女に受けてほしいと言ったところ、それなら二人でブライダルチェックを受けましょうと言われた。



その結果。

彼女は何の問題もなかったのに、自分はまさかの乏精子症と診断された。

それも顕微授精でさえ可能性はほとんどないという事だった。

当然のように結婚話は暗礁に乗り上げて、彼女側から慰謝料を払っても破談にしてほしいと懇願された。


彼女の父親から、不妊治療は女性の方が羞恥と苦痛を伴うものだし、何よりも不妊治療をしていることがわかると娘の所為にされる。

自分は娘が可愛い。だからこの話は無かったことにしてくれと言ってきた。

その気持ちはわかるので、こちらからもなかったことにしようと思っていた。

けれど、僕を打ちのめしたのはその後にお金ならいくらでも払うからと言う言葉だ。



金ならいくらでも払う。



実際には常識的な範囲の金額なのだろうけれど、そこまで言われることなのだと実感した。



今まで何をやっても躓いたことなんかなかったのに、何でも上手く行っていたのに、こんなことで自分自身に何の価値もないように扱われるなんて、人生解らないものだと笑うしかなかった。



破談になった後、彼女が悪いわけでもないという事なのか、自分の不妊の話が瞬く間に広まった。

同僚が、お前種無しなんだってな、いくら仕事ができたって種無しじゃ人としてどうなの?

と蔑んできたときは殺意を覚えた。




その後日々鬱々としていく僕を見て上司が転勤しないかと声をかけてきた。

行先は都内のはずれの方の支社だけれど、先任者はみんないい人ばかりだぞと言われて泣いた。



そしてこの街に引っ越してきた。

地下鉄に乗り入れている私鉄沿線は、昔風の下町でのんびりとした街だった。



この街に来て数年たったころ、いつも一緒の電車に乗る一人の女性に目がいった。

自分より少し年上だろうか。

割と地味な服装で、化粧も薄く、きつい香水も付けていない。

何が楽しいのかいつもニコニコしていて、気味が悪い人だなと思っていた。

ある時、電車の中に知人がいたようで、横で聞くともなしに話を聞いていると、娘さんの結婚が決まったので嬉しいと言っていた。

自分が離婚しているので、娘さんは男性に対して評価が厳しく、このままもしかしたらおひとり様を驀進するのではないかと思っていたという。



相手の女性が、ブライダルチェックは受けさせたのかと聞いた。



僕は自分の頭から血が引いていくような気がして、めまいさえしそうになった。

電車に寄りかかっていて良かったと思った。



ニコニコしていた女性が一変、顔をしかめて言った。



そんなもの受けないわよ。うちの子だってお婿さんになる人だって受けさせないわ。

結婚したら次は子供その次はとかおかしいでしょ?

相手を好きだから結婚するのよ。

子供を産むために結婚するわけじゃないのよ。

結婚して子供が居れば幸せなこともあるだろうけれど、子供が居なくても別の幸せがあるわよ。

それに、ブライダルチェックで何か引っかかったら、結婚させないの?

それこそおかしくない?



頭を殴られたような衝撃を受けた。

愚かだったのは自分だ。

母が言ったからと言って軽い気持ちで相手に受けさせようとした、ブライダルチェックで自分が引っかかった。

もともと自分に何の瑕疵もなくあるとすれば相手だと見下していたのは自分だ。

あの時、断ることもできたのに。

子供が欲しいから結婚するわけじゃないと言えたら、自分はどうなっていただろう。




年頃になったから結婚する。

結婚したから子供が欲しい。

子供が生まれたら跡取りが欲しい。

生まれた子供は可愛らしく賢く、いい学校に行ってと望みは際限なく続くのだと知った。




あなたそんなことじゃ老後は寂しいわよ、やっぱり孫がいないとつまらないじゃない。

と知人だろう女性が言う。


孫が欲しいから子供を産んだわけじゃないわ。

私が、子供を欲しかったから産んだのよ。

それで大人になるまで育てたから十分楽しませてもらったわ。

それにね、例え子供が生まれなくても私の子供はとてもいい子でかわいいのよ。




いきなり目の前の霧が晴れたような気がした。

種無しだからって、僕に失望されても、幻滅されても、それは僕の所為じゃない。

たまたまそういう病気だっただけで、僕は僕だ。



乏精子症と診断されて、母はかたわに産んでしまってごめんなさいと泣いた。

親族からは勉強ができても種無しじゃあなぁと馬鹿にされもしたし、母の所為ではと言われたこともある。

しかし、そんなことで自分が貶められるいわれはないのだ。



いつもニコニコして気味の悪い人だと思っていたけれど、この女性はしっかりと自分自身のスケールで生きていける人なのだと、彼女を見る目が変わった。


いつかこの人に声をかけて自分を知ってもらって、自分のことを話したら、どんな風に言ってくれるだろうと楽しみになった。

早くその日がやってくるといいなと思った。


あれから、彼女の横にそれとなく立ち、彼女たちの話を盗み聞きしていた。

決してストーカーではないぞ。

つまらない通勤時間のひと時の癒しなのだ。

大丈夫だと思うけど、いや多分大丈夫なはずだ。



なのに、突然本社に呼び戻された。



 新しく社内コンプラを統括する部署を作るそうで、僕に窓口になって欲しいという。

以前から自分に目をかけてくれた元の上司から、最近明るくなったとか仕事も順調そうだと声をかけてくれた。

僕があんな目にあったから、同じようにつらいことで悩んでいる人たちの力になって欲しいと言われた。

それはとても良くわかる。

あの時の僕は一人だった。

でもその話を受けるということは、引越ししなくてはならないかもしれない。



この街から動きたくない。



上司から提案が有った。

出勤時間をフレックスにしてくれるという。

この駅から急行にのれば何とかコア時間に間に合う可能性がある。

いや始発に乗れば間に合うんだけど、彼女と同じ時間帯にホームに居たいんだよとは言えない。




せめぎあう心をなんとかいなして、転勤することにした。

もう同じ電車には乗れないけれど、せめて同じ時間帯に駅に向かいたい。





 声をかけることなんか全然できない、ただ見ているだけの数年が経った。


偶然スーパーのレジ前で彼女がいた。

小さな子どもと何やら喧嘩しているようだった。

いつの間にか子供ができていたのか?



会話を聞いていたらつい吹き出してしまった。




「親子で仲が良いんですね」

「ママじゃないもん」

「私は親じゃありません」

「え?」

「ママもっとかわいいもん」

「ざーんねんでした。ママと婆はよく似ていると言われますぅ」

「ええ?」

子供さんは不満げに口を尖らせた。


「私はおばあちゃんでこの子は娘の子どもです」


「ええ?お孫さん?」



あの結婚した娘さんの子どもかと思う。

生まれたんだとよかったなと思える自分がいてびっくりする。


「お若いおばあちゃんですね」

「ありがとうございます」

貴方はおばあちゃんになったのですね。




先にレジを済ませた二人が、店の出口で何かもめていた。


どうやら子供がぐずっているらしい。

なら手助けをしたい。

僕は貴女に救われたのだから。



「近くまで一緒なんですから、先ほどのお詫びに荷物もちます」

声を掛けた。

「え?良いんですか?悪いわぁ」

にこぉと笑いながらエコバッグを突き出してきた。

思わず苦笑して受け取る。



「毎朝駅までご一緒してますよね。坂本と言います。年は36歳で普通のサラリーマンです」

「私は小野と申します。この子は娘の子どもで春哉と言います。今二歳です」

小野さん。

名前を知った。

これからは見も知らない人じゃなくて、名前を知っている知人になるだろう。

それが嬉しい。







僕が駅のホームで吐き気と腹痛で立てなくなった時に、一緒に居てくれたのは小野千早さん。

僕とは一回り上で、ざっくばらんで公明正大な明るい人。

腹が痛いとか結構恥ずかしいんだけど、吐き気と頭痛もあってもう本当に何とかしてほしいと思った。

その時に、お水をくれたり病院まで付き添ってくれたり、なんと病室まで一緒に居てくれた。

入院中もお見舞いに来てくれて、母との間の会話の糸口になってくれた。

実は僕は母とあまり上手く行っていなかった。

もちろんあれがきっかけだ。

母は僕の顔を見ると、ゴメンね。ゴメンね。と泣くので鬱陶しくて仕方ない。

いや、小野さんと知り合う前は、そうだよそうだよ母さんがきちんと生んでくれなかったから破談になったんだとか思っていたんだ。

反省している。



今は違うぞ。

病気は僕の所為でも母の所為でもないし、たまたま乏精子症だっただけである。

子供は望めないかもしれないけれど、他は健康であるし、仕事もある。

それなりに生きていけるんだと知っている。



今回の入院はその僕の気持ちを母に話すいい機会となった。

だからそんなに自分を責めないで、父やほかの兄弟の子どもだっているのだから、楽しく生きてほしいと言った。

やっぱり泣いてしまったけれど、これで最後にしてくれと言ったら笑ってくれた。






退院後小野さんを食事に誘ったのだけれど、ちょうど忙しい時期だったようで、一月待たされた。

駅で会った時は挨拶してくれたけれど。



食事をした時に、きれいに食べる人だなと思ったけれど、まさかあんなことを言われるなんて思わず赤面してしまった。

剃毛した僕の性器を見たいのかと思って、思わずまだ早いとか考えてしまったし。


何度か食事をするうちに、お互いが一人暮らしなのでだんだん回数が重なってそのうちに話題の映画に行こうとか、水族館に行こうとか、藤の花がきれいだから行ってみようかとかになって毎週末一緒に出掛けることになった。



こうなってくれば付き合っているも同然なのだけれど、僕たちはまだ意志の表示をしていない。


チャンスはあった。

でも、僕は自分では納得していながら、まだ小野さんに自分が乏精子症だとは言えなかった。


やっぱり世間一般では、揶揄されることだろうと思っているからだ。

小野さんならたぶんそんなことは無いと思うけれど、僕はまだ小野さんのことを絶対大丈夫と信頼していなかったのだ。




小野さんは、時々ものすごく接近してくる。

つまりは僕をそういう対象としてくれているのだろうと思うけれど、自分のことながら卑下してしまって、やっぱりなかったことのように流してしまった。





出かけたときに事故渋滞に巻き込まれて、まだ家まで遠いのでコンビニで何か買おうと駐車場に入った時に、千早さんが僕に言った。



「あのね、私あなたを押し倒したいと思っているのだけれど、年上すぎて迷惑かしら?」

僕はびっくりして固まってしまった。

でも言わなくてはならないと、ようやく口を開くことができた。

「別に千早さんが年上だからってわけじゃなくて、僕には重大な欠陥があってそれを言っておかないとと思っていて」

「つまり?」

「僕は男性不妊なんだ」

絞り出すように小さな声でやっと告げることができた。


「それは不能とかEDとかってこと?」

違う違うそれはまた違う病気だよ。


「いや、勃つよ。セックスはできると思う。でも乏精子症なんだけど、精子の数が少ないというか妊娠させる能力がほとんどないから、顕微授精とかでも子供が持てない可能性がある」

「あのね、私今更子供が欲しいわけでもないのよ?もちろんあなたの子供を産めたらとは思うけれど、実際もうすぐ50歳だし、子供なら四人もいるし孫もいるから赤ちゃんに不自由はしてないのよ」


僕は黙って聞いていた。


その時千早さんが僕の太ももに手を置いて、小首をかしげてにこっりと笑って言った。

「女にも性欲はあってね、好きな男とセックスしたいと思うのよ」

なんと言うことだ。

僕がおろおろしている間に、とどめの一撃がやってきた。

千早さんも僕のことが好きなんだって。

撃ち抜かれた。もう僕は瀕死だよ。

助けて。



「それって僕のことが好きってこと?」

「ええ、だから泊まらない?あそこに」

千早さんは通称ラブホテルと言われる場所を指さした。



それから駐車場を使わせてくれたコンビニに敬意を表して、いくつか必要なものとか飲み物とかを買ってラブホテルに入った。





久しぶりのセックスだったけれど、千早さんも久しぶりだというので、明日休日だし二人でゆっくりセックスをした。

千早さんが避妊しなくていいから、そのままで感じたいなんて言うからものすごく早かった気がする。


僕は破談になってから他の女性とセックスをしたことがない。

まず性欲が無くなった。


一部の不心得な人から、避妊しなくていいなら一緒に楽しみましょうと誘われたことはあるけれど、それは断った。

気持ち悪い。

妊娠しにくい、人工授精も難しいと言われたけど、妊娠する可能性は全くのゼロじゃないからね。

それに好きじゃない女性とセックスするほど、落ちぶれてねぇよと思ったしね。







それから千早さんの子供たちに紹介されて、一緒に暮らすようになって、ある日爆弾を落とされた。

「閉経したと思って病院行ったら6か月だった」

びっくりして言葉も出ないぼくに千早さんが言った。

「私妊娠しやすい質なんだよね」

僕たちは慌てて婚姻届けを出して、母子手帳をもらったのだった。



運命の恋人が君だったね。

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