第43話 「……深刻なんだってば」

 しかしそれから、三時間しても、DBは戻って来なかった。


「どうしたのかしらねえ、あの子」


 ソファに手をついたたまきさんは、不思議そうに時計を見た。


「うーん……」


 ママは眉を寄せた。外見よりは肝が据わった子だ、と納得はしていても、やはり心配らしい。

 ぴろぴろぴろ。再び電話が鳴る。はい、と慌ててママは電話を取った。


「はい港屋です。……ああ!」


 思わずママは声を高めた。


『お忙しい所申し訳ございません。私、音楽事務所“WATER”の者で赤坂と申しますが』

「赤坂さん? HISAKAさんではなくて?」

『……あ、はい、うちのHISAKAからの伝言で、今から二時間後でしたら、ということをお伝えいただきたく……』

「……そりゃあまあ、ありがとうございます。……でも二時間ですか…… そちらのご住所は?」


 向こう側の「赤坂」嬢は―――PH7のメンバーには「マナミちゃん」と呼ばれているスタッフなのだが、夢路ママに向かって、おおよその場所を伝えた。


「……それじゃあ、すぐに向かわせたいところなんですが、……何かあの子、三時間位前に、誰かから呼び出されて、そのまま戻って来なくて」

『何ですって!』


 それまでの丁寧な言葉は何処へやら、いきなり「赤坂」嬢の言葉はヴォリュームを上げた。


「いえあの子、ずっとこの電話、待っていたんですよ、いつもよりそわそわしてましたし……」

『……では、どういうことなのでしょう? ……まさか』

「まさか……」


 いつの間にか、フロアのスタッフも、客も、ママが続けている電話に聞き耳を立てていた。

 ママの声は、何だかんだ言って、その昔営業で鍛えたものなので、はっきりしているのだ。しかも結構動揺しているから、ヴォリュームを控えていない。

 その時、からから、ドアベルの音をさせて、扉が開いた。周囲の目が一斉にそちらを向く。


「……な、何なの皆さん……」

「なんだあ…… トキちゃんかあ……」


 ふうっ、とたまきさんは胸をなで下ろす。


「何だあ、って何よお。あたしじゃあ悪い?」

「てっきり、DBちゃんが戻ってきたか、って思ったのさ」


 お葉さんはこっちおいで、と手招きをする。


「ねえねえねえ、何か皆さん、ずいぶん深刻な顔してるけど」

「……深刻なんだってば」


 彦野さんは声をひそめる。


「DBちゃん、居ないの?」

「そ。で、何か大切な用事が来るらしいのに、って皆で心配してたとこ」

「どうしちゃったんだろうねえ、約束は守る子なのに」


 客の一人はグラスの氷をからからと鳴らす。


「……じゃあ、さっき駅の方で見たの、やっぱりDBちゃんなんだあ」


 何っ!? と一斉にその場に居たスタッフと客の視線がトキの方を向いた。がちゃん、と受話器を置いた兄もまた、妹のそばに駆け寄る。


「ななななななななな」

「それ本当? トキ、ちゃんと言ってごらん、あの子は誰かと居たの?」

「誰か?」


 んー、とトキは眉を寄せる。


「居たことは、居たよ。男の人」

「誰!」


 ママは厳しく問いかける。


「誰って言ったって、あたしが判る訳ないじゃない」


 それはそうだ。


「どういう人だった?」


 たまきさんが重ねて問う。


「……えーと、そうそう、前よくここに来てたひと。でも最近見ないなあって思ったんだけど……」

「どんな奴だい」


 ママはぐい、と妹に迫る。


「……や、やだ兄貴怖いわよ。……えーと、何か、エリートサラリーマンって感じの……」


 スタッフは皆で一斉に顔を見合わせる。


「埴科だ!」



 こんこんこん、と忙しないノックの音にHISAKAはやや不機嫌そうに顔を上げた。


「何? マナミちゃん」


 作業中だ、と言ってある時に扉を開けるのは、スタッフにとっては基本的に御法度だった。

 メンバーはともかく、スタッフでは。HISAKAはメンバーには甘い。音楽以外の面においては。その足りない部分を補うのがスタッフなので、スタッフにはそれは許されていないのだ。

 しかし。


「すみませんHISAKAさん、電話したんですが…… 何か、HISAKAさんが言ったひと、三時間前から、行方が知れないってことなんです」

「……何の……」


 作業のことで頭が一杯だったHISAKAは、何をこのスタッフが言ってるのか、すぐに思い出せなかった。

 ああそうだ、自分が命じたんだっけ。ぶるん、と一度頭を振る。モードを切り替えなくては、と。


「どういうこと?」


 立ち上がり、長い髪をかきあげながら、HISAKAはマナミの方へと向かう。


「ええ、その店の主人のいうことによれば、誰かから電話が来たそうで、『必ず後で連絡するから』って伝えてほしいって頼まれたってことなんですが……」


 どういうことだ? HISAKAは形の良い眉を寄せた。

 P子さんの話によると、DBはある程度の生きるための知恵は回る子だ、ということである。

 それはそうだろう、とHISAKAも思う。

 P子さんにはそう口にしなかったが、おそらくP子さんが想像する以上に、したたかなのではないか、とHISAKAはDBについてはかんぐっている。

 ただ、P子さんというひとが、かなりの人見知りであり、その彼女がこれほどに入れ込むのだったら、身元は後で何とでもなるだろう、とHISAKAは考えたのだ。

 だいたい自分と相棒だって、そう偉そうなことを言えた義理じゃあない。

 だから余計に、一度会って、自分自身の目で、信用するに足る人物か確かめたかった。その上で、DBが身元を隠したいというなら、それに協力してもいい。だが信用するに足らない人物だったら―――

 何が何でも、P子さんから切り離すつもりだった。


「まずいわね」


 HISAKAは舌打ちをした。


「どうしましょうか」


 マナミはちら、とHISAKAの視線を伺う。長身の彼女はHISAKAとそう目線の位置が変わらない。


「わたし行ってきましょうか」

「そうね。何がどうなっているのか、良く判らないけれど、……でもあなた一人で大丈夫?」

「おそらく。向こうの店の人々、ママだのホステスと言っても、男性なんだし。何か厄介ごとになりそうだったら、すぐに連絡入れます」


 お願いね、とHISAKAはマナミの肩に手を置いた。


 「マナミ」と呼ばれているが、このひとの本名は赤坂菜穂子アカサカナホコという。ナホコ、であって、ナオコではない。

 正直、何故「マナミ」という呼び名がつくのか、付けられた本人も不可解、という顔だった。

 だが付けたMAVOがそれでいいの、と大きくうなづいてしまってので、やっぱり本名と全く違う「エナ」という呼び名をつけられてしまった同僚同様、納得されられてしまっている。

 足早にマナミは事務所の入っているビルから出た。電話の向こう側の相手から店の場所は聞いていた。

 とりあえずはもう一度電話を入れる。やはり戻っていないという。

 後ろのスリットが深いスカートで、やや大股に彼女は駅の方へと歩いて行った。高すぎないヒールが分厚い靴で、かっかっ、と音を立てながら。


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