第42話 不穏な電話
「へーえ。スタッフに」
ママは露骨に明るい声を挙げた。
いつもの、DBが夢路ママと二人で仕事をしている時間だった。どん、とカウンタの上に、行きがけにしてきた買い物の袋を置く。
「いいことじゃないか。だいたいそうそうそんなスタッフなんか、普通に音楽業界入りたいって思ってる子でも、なれるもんじゃあないだろ?」
「そうかもね」
そう言えば、名古屋に居た時のバンドマン達も、とにかく業界につてを作りたがっていたようだった。転がり込んでいた相手もそうだった。そしてそんな話をうんうんと聞きながら、特に興味も持っていなかったのだが。
「結構皮肉だよねえ。望んでいる人がそういう仕事つけなくて、そうでない僕に白羽の矢が立つってさ」
「そういうもんさ。したいこととできることは違うよ」
「違うの?」
「あたしなんざ、それでずっと営業とかやってきた訳だからさ。……ああ、だから結局はしたいことの方に走った訳だけどさ、儲けとかなんか、まるで違うよねえ」
「そんなに営業って儲かったの?」
DBは目を広げた。
「あたしには合ってたね。まあだから、今も客商売していられる訳だろ。何よりまず、何かしら人間相手の商売が好きだったからねえ」
「ふうん。すごいなあ」
「ただその時に、どうしてもほら、あたしの姿に合った性格のフリをしないといけないだろ? 結局あれで参っちゃってねえ。いや、参ってるってこと、自分でもなかなか判らなくてさ」
「……ママでもそういうこと、あったんだあ」
「何、あんたあたしを何だと思っているの」
こら、と夢路ママはカウンターごしにDBの額をこづいた。
「……けどまあ、実際話決まるまでは秘密の方がいいねえ。特にトキの奴とか、今度こそあんたにへばりつきそうで困るよ」
「うーん……」
DBはうなった。口元に指を寄せる。
「確かに、それは、困るかもしれない」
「だから本決まりになったら、あんたは特に挨拶も何もいいから、とっととここは抜けなさい。もう特にここに自分の荷物って置いてはいないんだろう?」
「うん、結構あっちに移してあるし」
気が付いたら、女装の服以外は、P子さん宅に移していた。あまりにも自然だったので、忘れていたが。
「で、いつ? そのリーダーのおねーさんと会うってのは」
「あ、今日……」
今日だって! と夢路ママは声を張り上げた。
「何だね、でもあんた仕事してくのかい?」
「と言うか、HISAKAさんって人の仕事に切りがついた頃に呼ぶから、って」
「じゃあ今日と言わずに」
「明日って可能性だってある、ってP子さんは言ってた。連絡するから、そうしたら来て、って」
ふんふん、と夢路ママは腕を組んでうなづく。
「だから申し訳ないけど、今日は連絡来たら、抜けさせてね」
「そりゃあ、ねえ」
大きくママはうなづいた。
*
しかし連絡が来る、と判っていると、なかなか時間というものは進まないものだ。
開店時間が来て、客が入ってきて、店内がざわつき、笑い声が飛び交うようになったとしても、それは同じだ。
「だからね、DBちゃん、今度映画でも行かない?」
「……え?」
はっ、として彼は視線を壁の時計から外す。いけないいけない。今は仕事仕事。彼はにっこりと笑顔を作る。
「ごめんなさーい。ちょっとぼうっとしてたの」
「やだねー。でもそういうとこが可愛いからいいか」
けっ、と内心思っていたりするけれど、それでも無難な客というのは、気が楽だった。
「映画はでも、眠くなるから駄目なの」
「眠くなる?」
「暗くなるとほらこーやって」
すーすー、と両手を重ねて眠る真似をする。
「そんな、もう、子供じゃあないんだから」
あはは、と客はぽんぽん、と彼の背中を叩く。
「うん、だからごめんねー」
にこやかに、そうかわしてしまう。
ああそう言えば、この客とももうじき会わなくなるんだろうな、とふと思うと、気楽半分、空いた半分に、少しの風が吹き抜けた。多少の情はさすがに移る。名古屋の男に感じたように。
ぴろぴろ、とその時電話が鳴った。はい港屋です、と夢路ママが答えた。
「DBちゃん電話」
はい、と彼は立った。彼自身の気持ちとは裏腹に、心臓がどきどきしている。
「はいもしもし代わりました」
『DBちゃん久しぶりだね』
心臓が飛び跳ねて、止まりそうになった。この声。
「……埴科さん?」
露骨なまでに自分の眉間にシワが寄るのが判る。
「何か用ですか?」
来なくなったから、ほっとしていた客だった。だからつい、言葉も冷たくなってしまう。
『用があるから、わざわざ電話したんだよ。実は今近くまで来てるんだ』
「今は僕は仕事中です」
彼は声をひそめて答える。
『だが君は来たくなるよ。君のお宅のことで……』
DBは思わずぐっ、と受話器を握りしめていた。
「……何のことですか」
『君の、ご実家のことだよ。九州の……』
さぁっ、と一気に背中が寒くなる。いつの間に、そんなことを調べたというのだ?
「……どうしたいというのですか、あなたは」
握る手がじっとりと汗ばむのを感じる。
「嫌な客」のレベルだったら、ママだの先輩達をある程度頼ることもできる。だがこればかりは、自分の問題だ。
彼は唇を噛んだ。そんなことをすれば、口紅が取れてしまう、と注意されているのに。
『何、簡単なことさ。少しだけ付き合って欲しいんだ』
「少し、ですか。今なんですか」
『そう、今』
向こう側で含み笑いのようなものが聞こえる。
ああ嫌だ嫌だ、と彼は思う。この元・客は、「兄」と何処か似ていて嫌だったのだが、それ以上かもしれない。
人を自分の自由にしようとするあたりは同じかもしれないが、「兄」はもう少し正攻法でやっただろう。
もっとも、それは、「兄」がそれをできる立場にあったからだけかもしれないが。むしろ、埴科のやり方は、自分の中のそんな部分を思わせる。
……そうすると、むしろ、同族嫌悪だったのか?
ふとそんな考えが頭をかすめる。
「……何処ですか」
『その気になってくれたのかい?』
冗談じゃない。そう思ったが、口にはしなかった。だいたい、相手が何処まで自分の「家」のことを知っているのか、これだけでははっきりしない。
「とりあえず行きます。今、何処なんですか」
だから、そのあたりをすっきりさせておきたかった。ただ今、というのが具合が悪いが―――
DBは受話器を置きながら、少しの間、目をつぶった。
「どうしたね、DB。今の、例の電話かい?」
ママはやや不安げに呼んだ。彼ははっとして振り向く。
「何、ずいぶん緊張してたんじゃないかい? お化粧が汗で取れるよ」
「あ……」
実際そうだった。じっとりと、嫌な類の汗が額と言わず、脇の下と言わず、だらだらと流れていたのだ。
「……ママちょっとお願いがあるんだけど」
「何だね。抜けるって言うのは、さっき言ったろ」
「や、そうじゃなくて」
どう言ったらいいんだろうな、と彼はこめかみに指を置くと、少しばかり目を伏せる。
「……ちょっとだけ、用ができたから、……すぐに戻るとは思うんだけど」
「何だねあんた、この大事な時に!」
「うん、それはそうなんだけど。だからママお願いがあるんだ」
「何だね、お願いって。また物騒なことでも」
DBは黙って口元を上げた。
「物騒にならないように、したいんだ」
ママは露骨に顔を歪めた。
「だから、あの、さっき言った電話が来たら、必ず後で連絡するから、って伝えてくれないかなあ」
「……それはいいけれど」
「お願い」
胸の前で手を組み合わせ、小首を傾げる。ママはしぶしぶうなづいた。
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