第39話 流れ流れて何とやら①

 身の回りの荷物、というのは、極端に言えば、当座使える資金だけでいいのだ。それを身の回りのあちこちに分割してしまい込む。何かあった時に、一度に手放してしまわないように。

 離れから、門をくぐらずに外に出る方法を、彼は幾つか調べてあった。それは小さな頃、外からやってきた子猫の道だったり、転がりこんできたボールが通ってきた場所だったりする。

 この時彼が使ったのは、そのどちらでもなかった。

 何度か花を探した時に、その穴を彼は見つけていた。決して大きな穴ではなかったが、うっそうと茂る木々に隠され、その存在は内側からは判らなかった。木々の枝と、垂れた蔓のせいで、外側も隠されている。見つけたのは、たまたま彼がその蔓の花が綺麗だ、と思って近づいた時、風が吹いたからだった。

 そして彼はその蔓のカーテンをそっと開けた。

 季節は秋。初夏に咲いた花は、既に実を付けつつあった。もう少し遅れたら、枯れてしまって、穴の存在を知らせたかもしれない。

 「兄」がそんな些細なことにまで目が届かない性格であることを、彼は感謝した。

 穴をくぐり抜ける。辺りを見回す。大丈夫、誰もいない。

 住宅街からも、繁華街からも離れた彼の住んでいた大きな家は、夜の夜中には、誰も近づきはしないのだ。

 近づくとしたら、それこそ警備の者くらいだろう。ただ警備の者も、近寄る時間というものがある。それに関しては、見計らっていた訳ではないから、賭だった。

 何かを起こそうとするのは、格別に明確な理由がある訳ではない。小さな理由が積もり積もって、そしてある時爆発するのだ。

 彼にとっては、それがその昼間の「兄」の態度だった。

 それまでは、まだ我慢しよう、と思っていたのかもしれない。鳥留氏の言う通り、もう少し自分の可能性と向き合ってみよう、と思っていたのかもしれない。


 しかし。


 「兄」の態度は、彼がそれまで漠然と考えていた不安に形を与えてしまったのだ。


 ここに居ると、窒息する。


 今だったら、まだ、学校帰りは自由時間だ。何とか離れの家でも、鳥留氏と会える程度の自由はあった。

 だがそれは自由ではなかったのだ、と彼は気付かされてしまった。それは「兄」の不注意だったと言えよう。「兄」が思う程、彼は利口ではなかったかもしれないが、馬鹿ではないのだ。


 そして彼は行動を起こした。今しかない、と思ったのだ。


 本宅に移ってしまえば、一日中「兄」の監視の元に置かれるだろう。それが「兄」本人でなくとも。無論今だって、監視はされていた。それでも「離れ」自体が彼の良く知っている場所だったのだ。死角はそれなりにあった。

 この時間は死角だった。

 少なくとも、その日のうちに彼がそんな唐突な行動を起こすとは、さすがに「兄」は思わなかったのだろう。彼が荷物をまとめている姿は、「兄」に報告されていたかもしれない。

 しかしそのまとめた荷物を全て捨てて彼が飛び出すとは、誰が予測しただろうか?

 彼は一応、置き手紙をした。ありがちな文句だ。いつも使うボールペンで、ノートを開いて一言、「探さないで下さい」。

 短い言葉だったが、それは本心だった。



 彼はまずその足で、市中の繁華街へ行き、その片隅で朝を待った。下手に繁華街で、誰かと顔を合わせたり、ネギしょったカモにされるのは避けたかった。何軒かあるオールナイトのコンピニを眠気と戦いながら梯子し、始発を待った。

 朝まだ暗い時刻、駅の自動切符販売機が点灯した時、彼は切符を買った。行き先は、東だった。

 とりあえずは何処まででもいい。とにかく東。紛れることができる、大きな都市を、彼は目指そうと思っていた。できるだけ、遠くへ、遠くへ。

 新幹線の出る駅まで行くと、始発に乗った。

 時間が経てば、捜索願が出る可能性が高くなる。貫徹の眠気はまだ出て来なかった。頭も身体も緊張の連続で、それどころではない。

 通勤時刻あたりになったら、新幹線から降りた。既に始発から二時間は経っていた。在来線のラッシュに紛れてしまえ、と彼は思った。

 そして後は、在来線を延々乗り継いで、大阪まで出た。既に夕方近かった。

 そこからは私鉄を乗り継いだ。適当だった。緊張した頭は、それまでにない程にめまぐるしく回転していた。


 ここは何処だ。じゃあ東に行くにはどう行けばいい? 改札は? 切符売り場は?


 人々のけたたましい声。違うイントネーション。足も速い。ぼやぼやしていると、突き飛ばされてしまう勢い。このくらいの人々の中だったら紛れられるだろうか。彼は思う。

 だが駄目だ、と顔を上げる。

 もっと、出身が判らないくらいの方がいい。彼は更に東に向かうことにした。私鉄は近鉄で、奈良を通り三重を通り、名古屋に着く頃にはとっぷりと夜も更けていた。

 さすがにその頃には彼も疲労と眠気に襲われていた。


 だがどこで夜を明かそう? 


 想像がつかなかった。如何にも疲れた若い少年が、一人でビジネスホテルに飛び込むのは、何となく気が引けた。ただでさえ「家出」なのだ。金ももったいないし、不審がられる可能性もある。

 どうしようか、とふらふらと駅前の地下を歩いて、とりあえず長居できそうなコーヒーショップに飛び込んだ。足が重かった。眠くて仕方がなかった。

 ただ、何とかここまで来た、という気持ちはあった。 

 一番大きなサイズのカップでコーヒーを頼む。疲れすぎで食欲は少なかったが、それでも何か腹に入れておきたかった。大きなソーセージを挟み込んだサンドと、かぶりつける三角のスコーンを彼は選んだ。

 そして実際口にしてみると、実はひどく腹が減っていたことに彼は気付いた。がつがつと、彼は口にしたサンドを、ソーセージを、レタスを、かみ砕いていた。

 ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーで流し込む。すぐに足りなくなって、スコーンを口にする時には、紅茶を追加した。

 食べ終わると、急に眠気が復活してきた。どうしよう、と彼は改めて思った。何処で眠ろう。

 ふう、と辺りを見渡す。できれば移動は人に紛れられる昼間にしたい。夜行列車で捕まったら、それまでだ。彼は別段旅行の経験は多くはない。特に、こんな鈍行列車や私鉄を乗り継ぐような移動は初めてだった。

 非常事態でなかったら、こんなことまずしないだろう。「兄」が彼を新幹線に乗せた時には、まず一番速いものを使った。場所的にそれが止まらない所へ行く時でも、必ずグリーン車に乗せた。


 本当に、どうしよう。


 駆け出してしまったものは、止まらない。そして後悔はしない。問題は、今夜の宿だけなのだ。

 やがてそのコーヒーショップも閉店時間が来た。彼は仕方なく立ち上がった。

 駅前の地下街は既に閉店しつつあった。彼は地上に出た。まだ地上の店は、開いている所も多そうだった。

 結局、彼がその日の宿として選んだのは、オールナイトのカラオケ屋だった。

 通りかかった高校生の集団が、酔っていたのか、歩いていた彼をいきなり仲間に引き込んでしまった。勢いだ、と彼はそのまま彼らについて行き、そのまま朝までつきあった。

 大声で歌う者、こっそりと持ち込んだ缶ものを次々と開ける者、大騒ぎの中で熟睡する者。なるほどこれもありか、と彼は初めて思った。

 その日一緒に居た高校生達は、彼に幾つかの情報を置いていった。この街では、何処が夜遅くまで開いているか。どんな場所に彼らくらいの連中が集まるか。

 そしてどういう連中だと、何処の誰とも判らなくともだらだらと紛れ込んでしまえるか。


「いろんなとこがあるけどさあ」


 短く刈った髪を金赤に染めた高校生は言った。


「結構さあ、うちの学校の女達、今池いまいけとか大須おおすとか伏見ふしみとかのライヴハウスの、小さい方? あそこに長居してると、バンドの連中の打ち上げにつきあえるとか何とか言ってたぜ?」

「バンド?」


 あまり縁の無い世界だった。「兄」は彼が好きな音楽もやはり目を細めたものだ。それは少なくとも、激しいものではなかった。

 けど、紛れこめるなら、と彼はその高校生にうなづいた。


「でもさあお前、結構小柄で可愛いしー、気ぃつけろよ?」


 高校生は笑いながらそう言った。どういうことだろう、と彼は思ったが、まあいい、とすぐにその疑問をうち消した。

 もし「何か」あったにせよ、極端な話、死ななければいいのだ。

 とても極端な話だが。 


 そして彼はしばらく名古屋に留まった。

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