第26話 DBの逃げ出したかったもの①

「おはよーございますー」

「おはよ、彦野ひこのちゃん。何か今日は遅かったね」


 夢路ママはほんの少しの嫌み混じりで言う。無論悪意は無い。


「うーん、ママ、何か妙な人が、最近うろうろしてるって言うんだものお。何か怖くて、あたしあちこち見回しながら来ちゃった」

「変な人?」


 ママはグラスを磨く手を止め、眉を寄せた。DBもまた、床にかけていたモップを止める。


「彦野さん見たの? その変な人って」

「うーん…… あれを言うのかなあ?」


 ちょん、と彦野さんは人差し指を頬に当て、首を傾げる。非常に可愛らしいポーズではある。


「別に何処がどうって言う訳じゃあないんだけど、あるじゃない、こいつは何かただものじゃない、っての」

「ああそういうのは、感じるものだねえ」


 テーブルをがたがたと動かしていたおようさんもうなづく。


「格好は普通でも、何か態度に出るじゃないか。そういう感じだろ? 彦野ちゃん」

「そうそうそんな感じ」

「変な人」

「何、DBちゃん、心当たりあるの?」

「う、ううん、僕にある訳ないでしょ。ねえママ」

「ねえって言われてもねえ」


 夢路ママは広い肩をほんの少しだけすくめた。


「ああ、でもねえ、最近何か、あのひと来ないじゃない? 埴科はにしなさん」

「ああ…… ごめんなさい」


 お葉さんと彦野さんは顔を見合わせた。


「お客を減らしてしまうつもりは無かったんだけど」


 だけど、嫌だった。どうしても。DBはその言葉をかみ殺す。


「まあ仕方がないさね。どーしても嫌なタイプってのは誰にだってあるものさあ。だけどDBちゃん、あのひとそんなに嫌なタイプだったの?」

「おーや、たまきさんはタイプでした?」

「うるさいわねっ! だってねえ。結構金離れも良かったし、だいたいあれは絶対エリートサラリーマンの部類よ! そうそうきっと、そんな普段の生活の憂さを晴らしに来てるのよ、きっと家には上司の勧めで結婚した五つ六つ年下の奥さんと、可愛い盛りの子供が居てさあ」

「やだあたまきさん、それって出来過ぎい」


 あはははは、と彦野さんは笑った。つられてDBも笑う。確かに客としては上等の部類だ。ただそれは、「それ以上」を彼に望まなければ、だが。


「ま、仕方ないね。でもまあ今度は掴んだお客を離さなければいいさ」

「って言うより、DBちゃんは基本的に向いてないと思うけどな、あたしは」


 お葉さんはぴし、っと言う。


「向いてないかなあ?」


 DBはモップにもたれながら、やや苦笑混じりにお葉さんを見返す。


「向いてないね」

「あんたもまた、きっぱりと言うわねえ」


 呆れたようにたまきさんは腰に手をやる。


「まあ確かにあたしから見てもそうは思うけどさ。確かにあんたは可愛いし、あんたを好きになる客もあるだろうけどさ。でもあんた自身が、客を好きになれないんじゃあね」

「いいじゃないの、ビジネスビジネス」


 彦野さんは両手を広げる。


「でも彦野ちゃんあんたは基本的に男好きでしょ」

「まあね」

「この子は基本的にはそういうのが好きじゃないもの」


 どき、と心臓が跳ねる。


「ふうん、あんた等にもそう見えてたかね」


 夢路ママは目を大きく広げた。


「やーだー、ママ、あたし達をそう見くびってはいけないわあ」

「そうそう。あたし達だって伊達に何年も客商売してるんじゃないよ」


 それはそうだ、と言われている本人も思う。確かに自分はそういう部分は好きではないのだ。

 だから自分が女装することに関しては抵抗が無いが、客の男が無理矢理その「男」的な部分を押しつけてくることには、どうにも嫌気が差すのだ。


「だからねえ、あんたはこういうとこに長居しない方がいいわよ」

「でもねえ、たまきちゃん、あたしももう何度も言ってるんだよ。だけど今は駄目、って言うばかりだからねえ」

「今は、か」


 ふうん、と三人は納得したようにうなづいた。


「まあ人には人の事情ってものがあるからねえ」


 たまきさんは軽く目を伏せ、ため息をついた。


「ごめんなさい」

「謝るようなことじゃないんだよ、DB。ただあんたが逃げてここに居るんだったら、逃げ続けるのか、そうはしないのか、いつかは決めなくちゃいけないってことだよ」

「逃げ続けて……」


 逃げ続けて、逃げ続けることができるなら、それはそれで構わないとは思うが。


「ママは、ここでも必ず袋小路に入ると思う?」

「それはあんたが何から逃げているか、によるけどね。借金取りから、とかだったら、まあある程度は逃げおおせるかもね。まさかあんたみたいに普通の男の子が、いきなりこういう所に逃げ込むとは思わないだろうし」

「そうだね、それにあんた確か、出身は九州じゃないか?」


 え、とDBはお葉さんの方を見る。


「これでもねえ、あたしは昔は各地から学生が集まるような大学で学んだんだよ。あんたの言葉の端々に、そっちの人間のアクセントが聞こえる」


 ぱっ、と彼は口を押さえる。くくく、とそれを見てお葉さんは笑った。ママもくす、と笑う。


「まあさすがに、九州からわざわざ借金取りは来ないだろうが…… 家族とか、そういうものから逃げた場合は、そうもいかないかもね。あれ程しつこいものは無いとあたしも思うよ」

「ああそう言えばママ、最近トキちゃんどうしたの?」


 思い出したように彦野さんは言う。


「ああそう言えば最近静かだと思ったら。まああいつもいい加減受験生なんだから、勉強しろって言うんだよ」

「ママ口調!」


 思わず低い声になってしまったママにたまきさんが突っ込む。おっと、と今度はママが口を押さえた。

 あははは、とたまきさんは笑った。つられてDBも笑う。だが内心はそう平静ではなかった。


 家族ほど、しつこいものはない。   


 その言葉が彼の中には重く響いた。


 いい加減、追わないでくれ。


 彼は内心つぶやく。


 僕は何も要らないと言ったじゃないか。どうしてそれだけじゃいけないんだ。

 全部あんた等にやる、と。何も要らない、と。

 なのに。



「DBちゃん、そう言えば、今日の服可愛いじゃない」


 はっ、と彼は顔を上げる。彦野さんがまじまじ、とこの間P子さんから買ってもらった服を見つめている。


「あ、似合う?」

「似合う似合う」


 ぱちぱち、と彦野さんは大きな手を可愛らしく叩いた。


「うん、確かにあんたはシンプルな方が似合うね」


 お葉さんは煙草に火をつけながら言う。DBはそれに対しては黙って笑っただけだった。

 時間が来て、店が開く。できるだけにこやかな笑みをたたえながら、その反面、彼の中では、幾つもの考えが渦巻いていた。


 まさかね。


 彦野さんが言った「妙な人」が、自分に関係あるとは限らないのに。

 それでいて、その可能性も否定できないのだ。

 あのひとなら、そのくらいやってもおかしくはない。

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