第27話 DBの逃げ出したかったもの②
生まれてからしばらく、自分には父親というものが無かった。
何年も、何年も、家という小さな空間には、自分と母親、そして母親の母親。その三人しか居なかった。
だけどいつの間にか、そのうち二人が消えてしまった。
まだ小さかった彼には、その理由は判らなかった。ただある朝気付いたら、誰もその部屋にはいなかったのだ。
記憶をたどれば、その部屋が、二間に台所しかない小さなアパートであることは判る。母親とその母親は、二人して働きながら自分を育ててくれたのだろう。
だがその二人がいきなり居なくなった。
本当に、いきなりだったのだ。
五月の、良い天気の朝だった。扉が開いていた。風が吹き込んだので、目を覚ました。
置き手紙も無い。小さな白い座卓の上は空っぽだった。横にポットがあった。流しに、洗ったばかりのコップがあった。
彼は冷蔵庫を開けて、牛乳のパックを自分で開けた。勢いが良すぎて、座卓の上にこぼれてしまった。どうしたらいいのかすぐには判らなくて、彼は泣いた。誰もそこにはいないことを思い出して、泣いた。
泣いていたら、隣のおばさんがやってきて、どうしたのと声を掛けた。
わからないと言ったら、困った顔をして、とにかく座卓を拭いてくれた。彼女にもどうすることもできなかったらしい。警察に連絡しておく、と言っただけで、彼女はその後まるで顔を見せなかった。
そして三日ほど、彼はその部屋の中でただ待っていた。外に出てるうちに二人が戻ってきたらどうしよう、と思ったので出られなかった。
誰も食事を出してくれる訳じゃない。冷蔵庫の中にあったものに手当たり次第に食いついた。冷凍してあったパンばしゃりしゃりとしてあまり美味しくなかった。
TVをつけると、大人達が訳の分からない言葉を延々ぶつけあっていた。聞いているうちに眠くなったので、眠った。
扉を開けたまま、広げたままの布団に潜り込んで、寝た。
そんな日々が三日ばかり続いた。冷蔵庫の中身は、どうしても青臭くて食べられないきゅうりや、そのまま食べるのは無理な漬け物や、母親が時々呑んでいたビールと言ったものしか無くなった。
だからと言ってどうすることもできない。ぼんやりと、困ったなあ、と思い出した頃だった。
不思議と、母親やその母親を思って悲しくなることはなくなった。彼女達は居なくなったのだ、ということは、彼の中でひどく当然のことのように思われたのだ。
そんな時に、一人の男がやってきた。
男、というよりは、まだ学生だったかもしれない。
何やらメモを持って、扉を開けた男は、「ふうん」と彼を見て声を立てた。
そして彼に言った。
来いよ。お前は捨てられたんだ。
彼はうなづいた。捨てられた、という言葉の意味は上手く理解できなかったけど、相手が来い、というから手を出した。
連れて行かれたのは、それまで住んでいた部屋の何十倍の広さもある家だった。ここには沢山の人が住んでいるのだろう、と彼は思った。
だがそうではなかった。
そこに住んでいたのは、彼の「父親」だった。そしてその「父親」の家族だった。
彼を連れてきたのは、どうやら「兄」らしかった。
連れに来た時、自分で車を運転していたから既に大学生だったのだろう。背が高く、神経質そうな目は、いつもやや細められていた。
彼はそこで、暮らすことになった。
「父親」と名乗る人は、どちらかというと、母親よりは母親の母親に近い歳に見えた。実際そうだったのだろう。
「父親」の家族はそう多くはなかった。
妻は既に亡くなったのか別れたのか、そこには居なかった。代わりに家を仕切っていたのは、「父親」の姉だというひとだった。既にずいぶんな年齢だった「父親」よりさらに年上のそのひとは、最初に自分の前に座った彼を見た時、ああそう、とひとこと、軽く言っただけだった。
彼には、その家の敷地内の、小さな離れが与えられ、そこで全ての生活を送った。
小さいとは言っても、小振りな一戸建てくらいはある。無論風呂や台所といった設備も整っていた。子供が一人で住むには広すぎる程だった。
食事や身の回りの世話をする通いの女性が一応つけられたが、小学校を卒業するあたりから来なくなった。もう大きいのだから必要ないだろう、というのが「兄」の言葉だった。「父親の姉」は何も言わなかった。
既にその頃には自分で何でもする習慣がついていたので困らなくはなっていた。目覚ましで一人で起き、身支度を整え、食事も、気が付いたら、自分で何かと作るようになっていた。
一度、中学のクラスメートに、買い物をして帰る所を見つかったことがある。彼女は言った。お金持ちのくせに、変なの。
悪気は無かったのだろう。確かに客観的に見れば、彼の家は「お金持ち」だった。
その家の持つ敷地面積も、何台も待機している車も、何か行事があると集められる人の数も、それは「お金持ち」のものだった。
ただ彼にはその意識はなかった。彼はあくまで、もらった生活費で自分を生かすことだけを考えていただけなのだ。
くれるというものならもろおう、と思った。それ以外にどうやって生きていけばいいのか、中学時代の彼には想像がつかなかった。一応向こうが「父親」と言い、「兄」を名乗るなら。
ただ「父親」はその離れに時々来た。それが二週間に一回、程度のことであっても、「時々」だった。
大柄のそのひとが、「父親」と言われても、ぴんと来なかった。「兄」とも似ていない、と思った。
そのひとは、来ると必ずこの二つのことは言った。勉強はしているか。生活費は足りてるか。
大丈夫、とどちらにともつかない答えを返すと、そうか、と短く答えてそのひとは笑った。
勉強はしておいた方がいい、というのがそのひとの口癖だった。
だけどしすぎても仕方がない、というのもそうだった。
何故そう言うのか判らなかった。いずれにせよ、強烈に勉強が好きという訳でもなかった彼は、上の学校に進学できる程度にふわふわと勉強はこなしていた。
世話してくれるひとが必要ではないか、と聞かれた時には少し困った。外してしまったのはこのひとではないか、と思っていたからだった。
だがそうではないらしい。その時彼はぴんと来た。だがそれをそのまま「父親」に言うのはためらわれた。代わりにお茶を入れて出した。すると「父親」は言った。お前はあれと一緒でそういうことは上手だな。
そしてくしゃ、と髪に指を差し入れてかき回した。
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