第930話 新たな住宅事情

この世界の初代のエルフ達を生み出したとされる、エルフ達の聖地・世界樹ンクグシレム

それは長きにわたり高位のエルフ達の手によって秘匿されてきた。


それを公にしたクラスク市に興味が集まるのは当然だけれど、当のエルフ達にとってもそれは驚きと好奇であった。


もちろん自分達の聖地が他種族の目にさらされる事への忌避感もあるにはあったけれど、それよりなによりクラスク市のそれには他の世界樹ンクグシレムとは決定的に異なる点があったからだ。


文明との融合である。


他の世界樹ンクグシレムは、その多くがこの世界の原初、まだ人類の文明が発展していない時代にこの地に芽吹き生え育ったものだ。

ゆえに世界樹ンクグシレムの周囲にはひたすらに森しかなく、エルフ達もそれが当然だと思い込んでいた。


だがこの街ではだいぶ様相が違う。

クラスク市は元々この地方でも珍しい程に技術文明が発達していた街だった。

それが世界樹に飲み込まれ、けれど自然を拒絶する事も技術や文化を失うこともなく、街の上に世界樹が君臨したまま互いに共存している。

こんな状態エルフ達ですら見たことも聞いたこともなかったのだ。


進んだ科学文明と大自然とが相容れることはないと、エルフ達は森の中で半ば非文明の生活を送って来た。

それは彼らが決して粗野で野蛮で原始的ということではなく、大自然の営みと共存する範囲での洗練された文化を築いてはいたけれど、森を切り焼いて燃料とするような科学技術や文明の利器とは距離を置いてきた。


自分達の聖地である世界樹ンクグシレムがそういう存在なのだから、自分達もそうであるべきだ、と、世界樹ンクグシレムのありようを言い訳にしてきたのだ。


だがその理屈はもはや通用しない。

世界樹ンクグシレムと共に在っても文明も文化も崩壊しないし、世界樹ンクグシレムがそれを拒絶する事もない。

それをそのオークの街が示している。


後の時代、エルフ達は森から徐々に里に下り、やがて人間族ファネムの街などにも住み着くようになる。

森が少ない自然が少ないと不平をこぼしながら、けれどドワーフ族やノーム族とともに街での生活に適応するようになってゆく。


この地方の史書にはその大きな転換点、その端緒がこのクラスク市であると記されている。


さて世界樹ンクグシレムの繁茂は他にも幾つも大きな変化をもららしたけれど、そのうちのひとつが『キュセア・プヲラ』だ。

これは住居の一種であり、エルフ語で『樹上家』という意味だ。


森の中のエルフの集落では、地表ではなく木々の上に家を造ることが珍しくない。

木材で樹上に家屋を建築するのではなく、精霊魔術によって樹木や葉を変形させ、家のような形状に変えてそこに住み着くのだ。


その状態でも樹木は死んでおらず、しっかりと生きている。

樹の成長と共に家もゆっくり成長してゆき、やがて部屋が広がり部屋が増え立派な家屋になってゆくのだ。


己の家を構成している樹木を長い長い年月をかけ手塩にかけて育て上げ家と共に成長させてゆく。

長命なエルフ族ならではの愉しみ方である。


クラスク市では…それが世界樹ンクグシレムで実現可能だ。

とはいっても通常の精霊魔術はそのままでは世界樹ンクグシレムに効果を表さぬ。


先述の通りサフィナやミエ達が術を許容するか、或いは彼女たち自身が命令することで世界樹ンクグシレムを変形させ、家を造る事ができる。

とはいえクラスク市の地表部分はほぼ石の建造物と街道で占められており、新たに家を造る余裕などありはしない。


かといって世界樹の枝の上に個人の住宅を造るわけにもゆかぬ。

なにせ形状はこんなでも一応この街のなのだから。


ゆえにその住居は建物の上に建てられた。

すなわちアパートやマンションの屋上である。


その樹上家キュセア・プヲラの居住性の高さは折り紙付きで、冬暖かく夏風通しがよくさらにはアパートの屋上という立地のため見晴らしもいい。

通常の樹木に比べ耐燃性が高く内部で火を使ってもそうそう燃えることはないけれど、そもそもクラスク市では蓄熱池エガナレシルのお陰で火を使わずに加熱調理が可能である。


またシャミルが発明した冷蔵庫はそもそも電源を必要としていないため、通常のアパートとほぼ同じ、自然を好む者達からすればそれ以上の住居となり得るのだ。


唯一の難点は水の確保である。

アパートの住人はすべて屋内で蛇口をひねるだけで水を得る事ができる…これ自体他の街からすれば垂涎もののインフラなのだけれど…が、この樹上家キュセア・プヲラではそうはゆかぬ。

なぜなら樹上家キュセア・プヲラは生きており、時と共に成長するため、仮にパイプを繋いでも幾度も繋ぎ直さなければならず非常に手間なのだ。


一応クラスク市には水の精霊の援けを借りたアパート上層階に水を届けるシステムが完備されており、地底を流れるパイプから直接各家庭へと水が届けられていた。

だが樹上家キュセア・プヲラの普及により彼ら用の水源が必要となって、結果屋上に大きな貯水槽が設置されることとなった。


アパートの住民たちはこの貯水槽から家庭の水道水を得て、屋上にある樹上家キュセア・プヲラの住人達は家からこの貯水槽に出向き蛇口をひねって直接水を確保する、というわけである。


元々ミエの世界のアパートやマンションでは屋上に貯水タンクを設置していったん水をそこに溜め、水を『上から下に送る』ことで各家庭へ水を届ける高置水槽方式が主流だった。

だが見栄えなどの問題でそれが地下に敷設され受水槽式給水方式に取って代わり、近年では技術の進歩などでタンクを用いず上水道管から直接各家庭へと水を送る直結給水方式が普及するようになった。


だがこの世界では当初直結給水方式だったものが必要に応じて高置水槽方式に逆行したわけだ。

一見すると時代の逆行にも見えるが、それは技術的な見地だけで魔術的な見地が抜けている。


高置水槽方式の課題はタンクに長いこと水をためておく過程で水質が悪くなったり定期的に掃除が必要だったことだ。

直結給水方式であればその問題は発生しない。


けれど例えば大地震やその他の災害で水道管が破裂し給水が滞った場合、中途にタンクを挟まぬ直結給水方式ではその時点で水が完全に止まってしまう。

初期の高置水槽方式であればタンクに溜まっている分の水は水道管が破損しても問題なく使用可能だし、上から下に水を流すだけなので装置の故障などの問題もない(’まあそもそも水の精霊に頼めばある程度融通が利くのだが)。


クラスク市は短い間に多くの襲撃などが起きたため、皆非常時のインフラに敏感なのだ。


そしてもう一つ、ミエの世界と大きく違うところは、その貯水槽のである。

なにせ各アパートの屋上に設置された貯水槽はなのだ。


高槽式の給水方式について心当たりのあったミエが物は試しと世界樹ンクグシレムにちょっとお願いしてみたところ快く(?)引き受けてくれて、見事な木製のタンクになってくれたのである。


ただそれは……ミエが当初考えていたものとは大きく異なるものとなってしまった。


通常の貯水槽の場合、異物や昆虫、錆などの混入、藻や雑菌の繁殖といった様々な問題が発生し得る。

無論理想的な状態であればそれらのものが発生し得ないよう設計されているはずなのだが、貯水槽の蓋がずれたり上水道のマンホールの蓋が開いていたり老朽化によって各所が腐食したりと言った理由でそうした事態が起こり得てしまうわけだ。


経年劣化を修繕しようにも高度経済成長期に大量にいた入居者は年月の経過とともに減少。

結果維持費や管理費が集まらずそうしたメンテナンスもできず…といった当初予測していなかった最悪の事態になることも珍しくない。


だがクラスク市の貯水槽はそうはならぬ。


なにせ世界樹ンクグシレムだ。

世界樹ンクグシレム製の貯水槽である。


貯められた水は常時〈保存ミューセプロトルヴ〉と〈浄水ルーズィ・ファレイ〉が付与されたような状態で、腐ることもなければ味が悪くなることもない。

しかも世界樹ンクグシレムの幹にひたされたその水は心地よい冷たさと旨さを常時保っており、あまりの旨さに飲めばエルフよろしく寿命が延びる、エルフの長寿の秘密はこの水なのと根拠のない噂が飛び交うほどだ。


真面目な話この水を甕に入れて他の街に運んだらそのまま商売になるレベルなのである。

いや実際クラスク市の屋台でこの水道水が高値で売られて問題になったこともあったほどだ。


まあそうした不届き者は情報が入り次第屈強なオーク兵が速やかに排除するのだけども。


ともあれそんな状態で樹上家キュセア・プヲラの入居募集がされたのだが……






これが来るわ来るわ。

街の内外から入居希望が殺到したのである。






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