第797話 伝令兵キフォクヴォー・コイル
アルザス王国王都ギャラグフとの通信を無事終えて、倉庫で探した大量の袋……『
「ええっと旦那様はたぶん大丈夫。あ、お疲れ様ですー、お仕事頑張ってくださいねー」
街中を歩きながら片手を上げて商店街の面々に挨拶してゆく。
店の者もわかっている風でにこやかに挨拶を返した。
「誰だいあのほがらかで品のいい御婦人は」
ミエが通り過ぎた後、観光客らしき男が店の者に尋ねた。
雑貨店の店主は愛想よい笑顔を浮かべながらやや自慢げに語る。
「あれがこの街の太守夫人、ミエ様さ!」
「!! へえ、あの方が……!」
アルザス王国方面では軍事大国バクラダ派の情報統制のせいで新聞発刊まではあまり伝わっていなかったクラスク市の情報だが、それ以外の国…特にクラスク市西部の
そもそもクラスク市が国交を結んでいる国家のほとんどが
オークの興した街というけれど、その内実はとても平和的で、文化芸術共に優れたものを輩出しているのだと知られているのだ。
また魔印の交換により国交を樹立したそれらの国々はクラスク市との貿易が自由になって、結果クラスク市産の様々な品々が輸入され、その品質の高さと質と比較しての価格の安さが驚嘆を以って受け入れられることとなった。
危険でなく、そして魅力的だと言うのなら、次は見に行きたいと思うのは自然の成り行きだろう。
クラスク市に訪れる観光客は、こうした層が多いのだ。
彼らはクラスク市へやってくる前に通り一遍の事は知っている。
吟遊詩人などの語りもそうだし、それ以上にこの街について詳しく記した情報媒体が彼らの手元にあるからだ。
パンフレットである。
国交を結んだ各国にはクラスク市の印刷所で刷られた(この当時では)高品質なカラーのパンフレットが送られて、現地でクラスク市の商品を売っているアーリンツ商会の店先などで無料で配布されている。
紙自体が高価な世界、それもカラーの印刷物などという希少なものをお一人様一部限定とはいえタダで入手できるのだから、それらのパンフレットは当然置いた傍から飛ぶように消えていった。
そしてパンフレットの謳い文句に釣られ怖いもの見たさにクラスク市に物見遊山に出かけた者が興奮状態で己が見聞きしたことをあれこれと語り、その伝聞がさらなる観光客を呼び込んだ。
情報媒体を利用した宣伝広告に力を入れる事で街の観光地化に成功したわけだ。
そうした情報発信の中にはクラスク市の歴史なども含まれており、特に二度にわたる地底軍の撃退や赤竜退治は格好の宣伝文句となった。
となればその文脈でクラスクが取り上げられるのは当然であり、そして竜退治の英雄たちが大々的に喧伝されるのもまた当然の成り行きと言えよう。
そんなわけでミエについても色々な媒体で解説されていて、彼のように観光客でありながら名前を聞いただけでピンと来る者もいるわけだ。
まあミエ的には恥ずかしいわほぼ見物応援していただけで全然大したことをしていないわで盛大に固辞していたのだけれど、クラスクが大乗り気でOKを出してしまったため結局そのまま押し通されてしまった……という経緯である。
「ふう…」
ミエは歩きながら左右の商店に挨拶を交わし、時に頭を下げながら通り足早に過ぎてゆく。
そして小走りになりながら後回しにしていた用事を思い出していた。
「さーてもうひと踏ん張り! 私も頑張らなくっちゃ!」
ほんの少しだけ時間ができた。
そうだ、居館の一階で休憩しているあの人に挨拶しに行こう。
防衛都市ドルムから命がけでこの街に危機を伝えてくれた人。
ドルムの伝令兵。
名前は確か……キフォクヴォー・コイルと言っただろうか。
× × ×
居館の一角には客間がある。
来賓の客を留め置く部屋だ。
そこでその伝令兵はソファに深く腰掛けゆっくりと疲れを癒していた。
随分とのんびりとした、気の抜けた所作である。
誰一人知る者のなかったドルムの危機。
城を脱出し外に伝えるともなれば人類存亡に関わるとも言ってよい重大任務である。
クラスク市の反応如何によってはいても立ってもいられぬだろうに、随分と余裕のある佇まいだ。
「コイル殿。キフォクヴォー・コイル殿」
「は。何用でしょうか」
伝令兵キフォクヴォー・コイル……コイルは、廊下に立っている城の兵士から声をかけられた。
「このクラスク市の太守夫人ミエ様がお話をしたいとのことです。構いませんか?」
「太守様の! それはそれは! 怖れ多いことですが喜んで!」
「では少々お待ちください」
しばらくして……廊下の向こうからひょっこりと女性が顔を覗かせた。
いかにも無害そうな、威厳など何も感じられぬ娘だ。
一見するとそこらの町娘にしか見えぬ。
それが……この街の太守夫人、ミエであった。
「もしもし? すいませんお時間を取らせてしまって」
「いえいえ。こちらこそ。これほどの大きな街をこの短期間に造り上げたという太守クラスク様、その影にはいつも貴女が尽力があったと伺っております。お会いできて光栄です」
「まあ……!」
少しはにかみながら、おずおずとミエが部屋に入ってくる。
何も知らず。
無防備に。
「そんな噂流れてるんですか? すごいのは旦那様で私は何もしていないんですが……」
「いえいえご謙遜を。本当に噂はよく耳にしますよ」
「ふえ? ドルムにもそんな噂が……?!」
一歩、また一歩。
ミエは彼に近づいてゆく。
伝令兵コイルは壁際のソファからゆっくりと立ち上がった。
その口元に笑みを浮かべ。
愛想よく。
あと少し。
あと三歩。
今でも十分だが、あと三歩近づいてくれればしくじらない。
それは……幸運だった。
ミエは居館へと向かいながら己自身を鼓舞していた。
自分自身を≪応援≫していたのだ。
だからそれは彼女の運。
≪応援≫によって高められた彼女の幸運が、自らその運命を引き寄せたのである。
「ひえー! 悪ィ悪ィ! 遅れたわー! おーいミエ! こっちにいんだって?」
ひょいっと扉の向こう、ミエの背後から大きな顔が覗き込んできた。
その上体は大きく折り曲げられている。
背が高すぎて直立していると頭が入口より上になってしまうからだ。
ゲルダである。
花のクラスク村にやってきた早馬から事情を聞いて、乳母マルトに己の息子ツィグムとエモニモの子であるドーリックを託し慌ててこちらに急行してきたゲルダであった。
「ああ、いらしてたんですかゲルダさん。今ドルムから来た伝令の方にお話を……」
視線が、合った。
ミエがそう言いかけながら振り向いた、その向こうにいる伝令兵と、扉から顔を覗かせたゲルダの視線が合った。
伝令兵コイルが大きく右足を踏み出し、前に出ようとする。
その踏み込んだ先にあるのはミエの背中。
正確に言えばミエの首筋だ。
本来であれば邪魔できぬ距離。
警戒もしていない、臨戦態勢も取っていないミエには不可避の一撃。
だが己の背丈より低い入口からのっそりと入ってきたゲルダは、その背丈には不似合いな身のこなしで部屋の中に踊り込み、どずんと床を踏み抜かんほどの踏み込みで部屋の中央へ一瞬で辿り着く、
踏み込んだ足の位置はミエの横。
そこに右足以外の己の全身を一気に引き寄せる。
当然と言うか半巨人族のゲルダは横幅も広く、そんな場所に一気に身体を移動させればミエの立ち位置と干渉する。
結果ミエはゲルダの腰……大きな尻周りに吹き飛ばされ、そのまま横にすっ飛んだ。
その一瞬。
つい直前までミエがいたはずの場所に、ミエ以外の何かがある。
ナイフだ。
黒塗りのナイフをその伝令兵がミエのいたはずの場所に突き立てていた。
今そこにはなにもなく、刃はむなしく空を切っただけだけれど。
いや……あった。
そこにもう一つのものがあった。」
拳だ。
大きな大きな
部屋のど真ん中へと一気に飛び込んできたゲルダは、右腕を後ろに置いてきた。
その右腕を引き戻しながら、踏み込んだ勢いそのままに……
ゲルダは、その兵士の顔面を正面から撃ち抜いた。
突進は止まらない。
さらにもう一歩。
ゲルダの拳に顔面を撃ち抜かれ、後方に吹き飛ばされた伝令兵、コイル。
だが彼女の拳は後方へと跳ねた彼の顔面を捉えたままだ。
後方の壁に叩きつけられたその兵士の顔面は……
目の前の拳と背後の壁とに挟まれて、柘榴のようにひしゃげて散った。
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