第732話 発売日
「お、なんだなんだ?」
その日、ギレッドは街角で人だかりを目にして足を止めた。
彼はこの街で金物屋をしている。
このクラスク市がかつてクラスク村と呼ばれていた時期から店を開いている古株の職人であり、現在は区画整理によって街の北部の大鍛冶街へとその店を移していた。
クラスク村の時代から店舗を営んでいる者の中には、村の拡大と発展につれ客足を増やし店を拡大させ、今ではすっかり大店の店主となり忙しく店の切り盛りしたリ、中には街中に支店を出すほどに成功した者までいる。
それに比べれば彼の店はなんともささやかだ。
たいして大きくもなっていなければ店構えも変わっていない。
支店など夢のまた夢である。
だが別段彼の腕が悪いと言うわけではない。
むしろ彼自身の腕は確かだし人当たりも悪くない。
クラスク村だった頃から変わらず近所の者達は彼の店に仕事を頼みに来るし、立ち話に興じながら持ち込んだ鍋などが修繕されるのを待っている。
現在では金物屋というと金属製の道具などを販売する店の印象が強い。
つまり金物屋とはいわゆる『商店』であり、となれば当然経営しているのは商人ということになる。
だがこの時代に於ける金物屋はカテゴリとしては職人の一種だ。
無論そうした金属製品を売っている店もある(彼の店もそうだ)が、どちらかというとそれらの金物を打ち叩き形を整え直したり、曲がった取っ手などを修繕するのが主な仕事である。
この世界の、それも人間族の金属加工技術では硬くて丈夫で錆びない鍋などなかなか作ることができぬ。
結果毎日使っているうちに金属製品は簡単に折れたり曲がったりと変形してしまうのだ。
鍋や
そこでそうした金物を販売している店がその修繕を手掛ける。
ゆえに彼のような職人が必要とされていたわけだ。
金属加工業の一種だが鍛冶屋のように火を使わないし、小鍛冶のように武器を鍛えたりもしない。
徹底した庶民が使う日用品のための職人であると言えるだろう。
…もっとも最近この街にはドワーフが多く住み着き始めた。
優れた金属加工技術を持つ彼らが作り上げた鍋や釜などは簡単に折れたり曲がったりしない。
そういう意味では現在この街は彼の職業的には逆風が吹いているとも言える。
だがギレッドはあまり気にしていなかった。
彼の客たちは今も変わらず彼のところに通ってくるからだ。
それはギレッドが会話が巧みで聞き上手だからだろう。
ドワーフは確かに腕はいいが仲のいい相手以外への愛想はとても悪い。
そして彼らの作る品々は高品質な分だいぶ割高だ。
それなら今あるぼろ鍋をギレッドの処でうち直してもらって些少の修理代を支払う方がまだマシと考える者が少なくないのである。
商売にはそうした如才のなさや愛想のよさが大切だと彼は知っており、だから今の状況もあまり気にしていないわけだ。
ともあれ…そんな金物屋のギレッドが街の北部を歩いていると、先刻述べたような人だかりを見つけた。
それは街の門の一角で、ちょうど軒売りがいそうな場所である。
とするとその人だかりは何かを買い求めているのだろうか。
「うん……?」
ギレッドはそこから立ち去った者達が奇妙な行動をとっているのを目撃した。
なにやら皆折り畳まれた包みのようなものを手にしてその場を去ってゆくのだ。
パっと見たところ肉でも包んだ包み紙のようにも見える…が、中には何も入っていない。
それはすぐにわかった。
なぜなら彼らは皆一様にその包みを己の前方に広げ、ベンチや噴水脇などあちこちに座り込みながら読み始めたからである。
妙に彼らの様子が気になったギレッドは、さりげなく彼らの背後に回り込み、その様子を窺った。
そして……初めて彼らが見ていたものが新聞だと言う事に気づいたのだ、
いや厳密には彼は新聞を知らぬ。
けれどそれが大きな紙にびっしりと文字が記された情報媒体であると言う事はすぐに理解した。
その情報はどうやら幾つかのブロックに分割され、それぞれが別の知識について記されているようだ。
背後から流し見してみると、どうもそうした情報ブロックのことを『記事』と呼ぶらしい。
つまりこれは大量の記事で埋め尽くされた情報媒体、ということになる。
記事には様々なものがあり、ページをめくるたびに色々な情報がまるで氾濫するように押し寄せてくる。
つい昨日起きた最新のニュースからこの街の名所案内、今一押しのレストラン…等々、目移りしそうなほどだ。
「なあ、そいつはなんなんだ?」
どうしても気になって、つい声をかけてしまう。
「ああ、こりゃあ
「新しい…?」
言っている意味がよく分からずに、ギレッドはつい鸚鵡返しに聞き返してしまう。
「ほれ見てみろ、ここだよここ」
新聞とやらを読んでいた中年男が新聞の上部を指さす。
そこには……『クラスク新聞 第一号』と記されていた。
「一、号……?」
「そうそう。なんでも三日に一回新しいのを出すんだと。とんでもねえよなあ」
「なんだって……?」
ギレッドはそれを聞いて愕然とした。
そんな間隔でこんな大量の情報を庶民に発信し続けるなんて、これまで誰も考えたことすらなかった。
発想すらなかったのである。
だって下手に庶民に知識を与えると言うのは危険な事なのだ。
知識を得ると言う事はその知識と己を引き比べる事ができるようになるということである。
これまで当たり前だと思っていた自分の労働環境が実は劣悪だったと気づきかねない。
上に立つ者としては是非とも下の連中には阿呆のままでいて欲しいのである。
それをこの街は覆そうと言うのだ。
それはすなわち下からの不平不満や突き上げに負けぬよう、店であれば店長が、街であれば太守が自らを律してよりよい環境を、そしてよりよい施策を推し進めてゆくと宣言しているに等しいのである。
狐につままれたような顔つきで街のあちこちを見て回るギレッド。
先程の街角だけでなく、街のあちこちで例の新聞は販売され、飛ぶように売れていた。
そして皆当たり前のように新聞を読みふけっている。
これはこれで他の街ではなかなかお目にかかれない光景だ。
ギレッドはクラスク市の識字率の高さに改めて驚いた。
「うん……?」
と、そこまで考えたあたりで、ギレッドはとある店の様子がおかしなことに気が付いた。
元々品揃えのいい店ではあるのだがさほど客が列を成すような店ではない。
だというのに今日に限ってとんでもなく大繁盛しているのだ。
そして……客の手にはなぜか皆一様に先ほどの新聞…その畳まれたものが握られていたのだ。
「ねえ新聞で今日は果物が安いって聞いたのだけれど」
「こっちの目玉商品ってのはどこにあるんだ!」
「くれ! これ六個くれ!」
わらわらと集まった客たちは口々にそんなことを喚きながら店内をあさり、次々と店の品を買い漁ってゆく。
ここにきてギレッドはようやく彼らが新聞に掲載されたこの店の宣伝…新聞広告を頼りにこの店にやってきたのだと察した。
「こりゃあヤバイ。こりゃあヤバイぞ。すぐに報告しなくては…」
ギレッドは速足で己の店に戻りつつそんなことを呟いていた。
彼の任務はこの街の監視。
そして報告。
彼はクラスク市がまだクラスク村だった頃、職人を求めているという噂を聞き付け金物屋職人に扮しこの街に潜り込んだスパイなのだ。
店が繁盛しなくとも気にしないのは当然である。
密偵として彼はむしろ目立たぬよう気を配ってすらいるのだから。
ただ…ミエ達はそのことを知っている。
移住希望の面接のときにサフィナが全て看破していたからだ。
自分達の情報を相手側に流す為、密偵だと理解した上で村に招き入れ放置していたのである。
急ぎアルザス王国の高官へ己が得た知識を伝えんとするギレッド。
ただ…さしもの彼も気づいていない。
その日、同日、すでにアルザス王国王都では、ほぼ同じ内容の新聞が販売されていたことに。
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