第729話 性病と教会

性病…性交渉を行う事によって罹患する病気の総称である。


ただミエの世界でも長い歴史の中で性病が細かく分類されるようになったのはだいぶ後年になってからだ。

それまでは梅毒とそれ以外…せいぜい分けても特徴的な二つ三つと言った分け方がほとんどで、だいたいまとめて『性病』とひとくくりにされることが多かったのである。


梅毒だけが別枠扱いなのはその症状が特徴的かつ劇的で、そして致命的だからだ。

体中にできる赤い斑点、発熱、喉の痛み、全身の不快感・倦怠感を経てやがて顔面を含む体中に腫瘍を発生させ容貌は見られたものではなくなり、関節炎や手足の感覚喪失、体中の痛みや機能不全、全身麻痺、精神落乱などを引き起こし、最終的には臓器或いは脊髄、もしくは脳が侵されて死亡する。

それはまあ、これだけ色々揃っていれば別格扱いとなるのも納得の難病である。


こうした性病に関して、ミエの世界では実に長い間、それこそ近代になるまで苦しめられてきた。

そして…それはこの世界でも同様だったのだ。


ミエの世界では抗生物質の発見と浸透がこれら性病……特に梅毒に関しては劇的に効果を発揮してきたけれど、そこに至るまではできる事と言えば対症療法のみで、つまるところ病気の根治に対してはほぼ無力であった。

だがこの世界には教会があり……いや教会自体はミエの世界にもあるのだけれど……、そこに神を認識できる者がおり、そしてその中には奇跡の御業を振る事ができる者達がいる。

この世界の聖職者というのはそういう存在だ。


性病も病気なのだから当然聖職者の唱える〈病除染オテュトゥー・オピノル〉によって除去することができる。

たとえ梅毒であろうと消し去ることができるのだ。

それも、ずっと古い時代から。


この点に関してはミエの世界よりもはるかに恵まれていたと言えるだろう。

だが……そんな世界で、なぜ性病は猛威を振るっているのだろう。



答えは簡単である。

感染が防げないからだ。



例えば梅毒以外の多くの性病は陰部の痒みを伴ったり小さなできものができたり尿がクリーム状に頻尿になったりと言った症状が出る事はあるが、それが即命にかかわることはない。

女性であれ不妊はかなりのダメージではあるけれど、性交渉すれば確実に受胎するわけでなし、己が性病に侵され不妊症となったのだ自覚するためには少なくとも数年が必要となる。


そして奇跡の力を使えば病気は除去できるというけれど、その寄付金は決して安くはない。

金貨が数百枚必要な事もザラである。


これに関して教会が暴利だと簡単に断じる事はできぬ。

彼らは己の魔力を消耗して治療に当たっており、魔力の急激な損耗は激しい疲労や倦怠感を伴うことがある。

そして魔力を扱う者にとって過労は寿命を縮めかねないのだ。


もし無料で治療してくれるなんてことになれば連日治療しきれないほどの患者が教会に群れ集まって彼ら聖職者を損耗させ、神に仕える本来の仕事すらままならなくなってしまうだろう。

さらには軽度な治療を延々と施すうちに魔力が枯渇し、本当に治療を必要としている者に手が行き届かなくなってしまう恐れすらある。


そうした意味でもある程度の『線引き』は必要なのだと、この世界の教会は過去の悲劇から学び、決断し、それが今も続いているわけだ。

高い寄付金を払ってもらえば、その金で救貧院などを設立し、貧しいものに施しを与え栄養をつけさせることで病気そのものに多少なりともかかりにくくなってもらうことができる。


集めた寄付金の使い道も含めて、今ではそれが必要な措置なのだと多くの者が認めているこの世界のシステムなのだ。


もちろん緊急事態であれば教会も人道のためと寄付を募るのを待ってくれるけれど、それはいずれ返さなければならぬ借金を背負うのと変わらない。

命にかかわるのでもない軽度な症状ではいちいち教会に治療に行くような者もおらず、その結果性病は簡単に蔓延してしまうのである。


梅毒の方はもう少し厄介である。

上に記したような症状も恐ろしいが、この病気の初期症状は頭痛・難聴・腹痛・胃潰瘍・肝炎その他といった、他の多くの病気の諸症状と酷似しており、梅毒に罹患した事のない患者(ほとんどの者がそうだ)は大概別の病気と誤認してそのまま放置してしまう事が多いのだ。


さらにこの病気は第一期から第四期まで、およそ十年以上にも渡って進行し、かつその間に数度の潜伏期があって、潜伏期の間は症状が劇的に改善するためすっかり完治してしまったと勘違いして日常生活を送り、娼婦であればその間に『仕事』をして感染をいたずらに広げてしまう恐れがあるのである。


確かに聖職者は神の力が振るえるし、高位の者であれば重篤な症状に陥った者の治療をすることもできる(まあ厳密には〈病除染オテュトゥー・オピノル〉の呪文は中位階呪文だが)けれど、それは症状が重くなった伝染病の患者一人の治療ができるだけだ。

その患者がそれまでに広めた数十人、数百人…或いはそれ以上の感染者を止める事はできないのである。


……クラスク市が私営の娼館を取り潰したのは、そうした対策がまともに取られておらず、娼婦たちに感染をいたずらにひろげていたからだ、。


「いやまあ、前んとこは酷かったよホント。女を食い物にするだけしてろくにケアもしてなかったし、客も取らせるだけ取らせて、儲けはほとんど店長がふんだくっててね。そんで性病にかかっても重い症状でなけりゃ客を平気で取らせ続けて、そんでどうしようもなくなった女はポイさ」

「ひどい!」

「なにそいつムカつくわね。そんな店潰しちゃえばいいのよ」

「だから街の潰されたのさ。オーク達が徒党を組んでやってきて物理的に店をぶっ壊しちまったよ。いやあ見てて惚れ惚れする程の壊しっぷりだったねえ。ハハハハハ!」


当時実際に目撃していたらしきクエットナモが豪快に笑う。


「おおー、ぺしゃんこ!」

「やるじゃんクラスク!」

「よんでくれたらわたしがやったのに…」

「アンタの場合まず現場に行くだけで大騒ぎでしょうが」

「そうだった」

「あん?」


ヴィラとシャルの会話にクエットナモが不思議そうに首をひねる。

まあヴィラが言っているのは巨人族としての己なら簡単に店を壊せるのに、といった類の話だけれど、街中に取材に来ている今の彼女は魔術によって見た目上は人間族となっているのだ。

クエットナモがけげんそうな顔となるのも当然だろう。


「…すいません。さっきは質問の仕方が悪かったみたいです。その後クラスク市がこの公営の娼館を建てますよね。そのってなんでしたか?」

「コンセプト……?」


気を取り直して再度質問したエィレの質問にふむん、と考え込むクエットナモ。


「そうさねえ。徹底した娼婦の勤務改善かねえ」

「勤務改善…」

「そうそう。店に入る前に一部屋空き部屋があってね、店の女が仕事に入る時も客が店に入る時も必ず一度ここを通るのさ。でもし病気持ちだったらここで即追い返されるって寸法だよ」

「そんなことできるんですか!?」

「できるみたいだね。どんな仕組みかまではしらないけどさ」


ミエはそもそもが性を売り物にすること自体を快く思っていない。

文明社会から来た女性なのだから当然と言えば当然の話だ。

女性の身体を男性の性のはけ口にされて快く思うはずがないのだ。


ないのだが…彼女の立場としては娼館の価値を認めざるを得なかったのもまた事実である。


まずこの世界の女性の就職口として優れていること。

次にオーク達の配偶者探しの場所として優れていること。

なにより需要と要望が非常に高いことである。


クラスク市派オーク達の配偶者問題を解決するために造られた街であり、命や自由意思を除く他のあらゆることよりもそれが優先される。

ゆえに需要が高くまた配偶者探しの場所として効果も高い娼館をミエは否定しきることができなかったのだ。


ただし以前述べた通りそこには最低限必要な、女性として譲れない一線がある。


それは女性の自由意思を損なわぬこと。

他に選択肢がないからではなく、選択肢の一つとして娼婦を選べるようにすること。

そして働き手の健康を守ることである。


……それらのことを守らせるためには、私営の娼館ではどうしても駄目だった。

商人が娼館を経営するのはそれがとても儲かるためであって、利得のために働く女性達の権利は軽視され蔑ろにされがちである。


ゆえにクラスク市で娼館を運営してゆくためには、どうしてもそう舵を切らざるを得なかったのだ。




そう、それがクラスク市自身で店の経営をしっかり監視できる店……

すなわち、公営娼館というわけである。









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