第696話 瘴気溜まり
石造りの家屋に囲まれた狭い広場。
その家は何者かが建ててクラスク市への移住希望者へと安く売り払われた。
彼らはさぞ喜び勇んでそこに移り住んだことだろう。
親切な商売人もいたものだ、と。
親切などとんでもない。
その何者かは明らかになんらかの目的の為にそれらの建物を建て、彼らを利用したのである。
そしてそれがろくでもない計画であることはその広場に来てティルゥにもよくわかった。
そこから感じる妙な気配は、たとえ目に見えずとも彼女の直感に強烈に訴えかけてきていたのだ。
それはとてもよろしくないものだ、と。
その広場を囲んでいる家々に住んでいる者達は、いわば意識しないまま邪悪な計画の片棒を担がされていたようなものである。
「しかしこのあたりとて頻度が少ないだけで衛兵たちの巡回のルートには入っているはずだ。私もこのあたりを…」
とそこまで言いかけてティルゥは自ら答えに辿り着く。
「そうか、先ほどの結界か。あれで見落とされていたのだ」
「はい、おそらくは」
誰かがうっかりこの広場に辿りつかぬよう。
そして街に住み着いたばかりの木造家屋の中に、物珍しい石造りの家屋があったとて怪しまれぬよう、あの結界が張られていたのだとするならば。
衛兵たちはそもそもこの近くに近づこうとも思わぬし、近づいたとて怪しもうとも思わず目の前の通路などまるでないように道を曲がり巡回を続けたことだろう。
イエタがいなかったらティルゥですらそうしかけてしまったほどだ。
見回りの衛兵程度では誰一人気づけまい。
「それで…これはなんなのだ。なにかこう良くない感じを受けるのだが」
「おそらくは瘴気溜まり、でしょうか。私も見るのは初めてですが」
「なに……!?」
『瘴気溜まり』とは瘴気の淀みが
そうした瘴気溜まりから発せられた瘴気が周囲の植物を歪め、近くを通る獣…神の加護を喪った獣などに取り憑き、魔物へと変えてしまうとされている。
「まさか瘴気溜まりとはな…いや待て、ここは街中だぞ!?」
ティルゥの驚きはもっともだった。
ゆえにこそ魔族どもが巣食っていた瘴気地を開墾することで通常の大地へと戻す事ができるのだ。
街にはそんな
普通に考えれ瘴気とはもっとも相性の悪い場所のはずではないか。
「魔族たちは人の負の感情を喰らいます。ゆえに瘴気地にて人を飼うこともあるとか。ではそうして飼われている
「む……」
「されません。瘴気を晴らすのはただ
「それはつまり…このあたりもそうなっている、と?」
「おそらくは」
ティルゥの問いに答えながらイエタは広場の中心、その目に見えない『何か』の周囲に聖水を振りまいてゆく。
ちょうど円を描くように。
「これはただの瘴気溜まりではありません。おそらくは何者かが魔術によって生み出したその…なんでしょう。人工的? 人為的、でしょうか? なものなのでしょう。ゆえに
説明がややたどたどしいのはネッカと異なりイエタは魔術の専門家ではないからだ。
己が使える奇跡については熟知していても、広範な魔術知識を備えているわけではないのである。
「しばらく…ということはしばらくしたら消えるのか」
ティルの素朴な疑問を、だがイエタはかぶりを振って否定した。
「いえ。これはこの場に残り続けることで放たれる瘴気によって近くにいる
「なるほど…?」
「やがてこの周囲に住む者達はやる気や意欲などが奪われ削がれ無気力になってゆき、彼らの負の感情を喰らってこの瘴気溜まりは大きくなってゆくのでしょう」
「む、それはいかんな…」
石造りの建物で結界を維持し、その結界によってこの付近の住人以外の者を追い払う。
そしてこの付近に住んでいる者達はやがて瘴気に心を侵され負の感情を族服されて、この瘴気溜まりのエサにされてしまうわけだ。
なかなかに狡猾な、そして邪悪な計画である。
「ふむ、そうか。それで少し得心がいったぞ。先刻司教殿を襲わんとしていた悪漢がいたろう」
「襲う? 襲われていたのですか、わたくし」
「…襲われていたのだ」
先ほどイエタが悪漢に
ティルゥは想像を上回る彼女の天然ぶりに少し呆れた。
「ああした連中はこの街では珍しい。なかなか見ないものだ。だがもし彼らがこの瘴気溜まりの影響を受け負の感情を増幅されていたとしたら…」
「そうですね。悪しき心に飲み込まれ悪事へと走った可能性もあります」
「ふむん」
ティルは腕を組んで考え込んだ。
どうやら思った以上に大事態のような気がする。
この街の犯罪者はこれまでサフィナがいち早く察知してオーク兵どもによって撲滅されてきた、
街が大きくなりすぎて流石に手が回り切らなくなってきたけれど、それでもこの規模の街としては犯罪は格段に少ない。
だがこれは違う。
街の外から悪が流入してくるのではない。
街の内側から人々の心を蝕み悪に染めてゆこうとしているのだ。
「しかしこれが人工的な瘴気だというのなら、聖職者たちの毎朝の祈りで見つけられぬものなのか?」
魔術についてあまり詳しくないティルゥではあるが、この世界の常識程度なら流石に知っている。
聖職者たちが毎朝神に捧げる祈り…その文言の中に瘴気を探知する呪文がそのまま含まれているのだと。
ゆえに魔族などが人界に侵入してきた時はすぐにその位置がバレてしまうのだと、かつて傭兵時代に従軍僧侶に聞いたことがあったのだ。
「魔族のような強大な瘴気を放つ者は遠方でもすぐに気づけますが、こうした瘴気溜まりのような微弱な瘴気はなかなか気づきにくいのです。ただそれでもこれだけ近くにあるのですから、仰る通り毎朝の祈りで気づけると思います。剥き出しの瘴気であれば」
「!! そうか…結界まで張って人避けを敷いているような連中のすることだ。当然聖職者の魔術対策も施しているか」
「おそらくは。なんらかの対占術防御が施されていると考えるべきでしょうね」
「まったく、随分と用意周到な事だ」
敵のやり口に少し感心したティルは、そこでふと疑問を覚えた。
「司教殿。そこまでして隠蔽されていたもの、ならば貴女はどうやってお知りになられた」
「妙に嫌な予感が致しましたので、女神さまに直接お伺いしました」
「おお……」
しれっととんでもないことを言い放つ。
「本来であれば神性をこうした些事に煩わせるべきではないのですが、今回は危急と判断しました。もっとも女神さまが授けて下さったのは気づきのみで、確証を得るに至ったのはティルゥ様のような方のお陰ですが」
「私が?」
予想していなかったことを告げられティルが困惑する。
実際彼女はここの結界に引っかかって見事に回れ右するところだったのだ。
一体己の何が役に立ったというのだろうか。
「この結界は広すぎるのです。瘴気溜まりを隠すだけならもっと狭くてもいいはず。ですが広めに張られていたお陰で場所が逆算できました。まあその計算なすったのはシャミル様ですが」
「なるほどな。衛兵の見回りなり近所の住人の移動経路なりを洗い出し皆が寄り付かない場所を逆にあぶり出せたわけか」
言われてみればイエタが結界を壊した後、二人で会話しながら少し歩いていた。
広場だけを隠すならもっと狭い場所を囲うだけで済んだはずだ。
「はい。そしてその結界を広めに張っていた理由は、おそらくティル様やサフィナさんのような『勘が鋭い』方対策なのでしょう。結界で狭い範囲しか覆わなかった場合、瘴気溜まりの近くまで来たティル様は、きっと先ほどのようにここの違和感を感じってしまうでしょうから」
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