第695話 黒い染み
「ところでこんな場所にどんな用事かな。ここらに教会でも建てる気かい?」
「それもいいですが……もう少し緊急性の高いお話です」
「緊急性……?」
怪訝そうな顔でそう尋ねるティル。
彼女の感覚はかなり研ぎ澄まされており、人間族のそれよりはむしろエルフ族や野生の獣に近い。
そんな直感が彼女にこう告げているのだ。
『この近くには危険なものは何もない』と。
もちろんさびれた裏路地である。先ほどのような荒くれ者のなどはいるのかもしれない。
だがそれは彼女にとって『危険』ではない。
まあ疑う事をろくに知らぬイエタにとっては危険かもしれないが。
「危急の何かがあるようには見えないが」
「そうでしょうね。この距離ではそうだと思います」
「………?」
妙な事を言う。
ティルはそう思った。
距離とは一体どういう意味だろう。
ともあれイエタについて路地裏を進むしかない。
ティルゥは当たり前のように角を右に曲がろうとして…
「おい、どうした」
ティルゥはいつのまにかにイエタが隣にいない事に気づいた。
途中で彼女を追いこしてしまったのだ。
というか、イエタが道の途中で立ち止まっていたためティルゥは彼女を置いてそのまま先に進んでしまっていたのである。
「なぜそんなところで立ち止まる」
「こちらが目的地だからです」
「こちら? ただの通路じゃないか」
そう言いながらティルは己の言葉に違和感を覚えた。
ただの通路?
そうだ、ただの通路だ。
イエタが立ち止まっているその場所、その前方に通路が続いている。
つまり先ほどの道は、前に進む通路と右に折れる通路と、二手に分かれていたことになる。
ならばなぜ…
なぜ己は何の迷いもなく右に曲がった?
まるで前方の通路などなかったかのように、当たり前のように右に曲がったのだ?
「少し下がっていてください」
「…わかった」
よくわからない。
よくわからないが、なにかおかしい。
ティルもようやくイエタの言う危急の具合が呑み込めて、一歩後ろに下がった。
「
神に対する祈りを捧げながら、イエタは己の前方に聖水を振り撒く。
「〈
イエタがその呪文を唱えた時、一瞬彼女の目の前に何か光る壁のようなものが現れたように見えた。
だがその壁には見る間にヒビが入り、砕け散ってゆく。
そして砕けた破片のようなものは、すぐに掻き消え再び不可視となった。
「! これは……」
通路がある。
いや通路は元からあった。視覚的には先刻までとなんら変わらない。
だが違う。
先ほどまでとは感覚が違う。
今はそこに通路があって、先刻は右に曲がらずそのまま直進できたのだと理解できる。
先ほどまそれがではできなかった。
「結界が張られていました。人避けのものですね」
「ほーう、壁で目隠しされていたわけでもないのに確かに進む気がまるで起きなかったな。なるほどなるほど。こういう魔術もあるのか。そして司教殿はそれを解き放てるというわけか。面白いな」
〈
魔導術に於ける〈
既に定着している効果を解除するのが目的であるため〈
だがなぜ〈
〈
実は魔導術や神聖魔術で唱える『呪い』と呼ばれる効果は『呪詛をかける入口として魔術を用いているのみであり、呪いの効果自体は魔術ではない』のである。
魔術ではないため魔術式も持たず、魔術式を壊すことで魔術を消去する〈
ともあれそうした魔導術とは差別化された対魔術用の呪文が聖職者にもあり、イエタはそれを唱えた、というわけだ。
位階としては中程度であり、低位階から使える基本の〈
まあ魔術に於いて位階が高いという事はそれだけ用いるのに高い実力が必要ということで、その分使い手も少なくなってしまうし、位階が低い程必要魔力も少なく気兼ねなく撃ちまくれるというメリットもあるので一概にどちらの方が優れているとは言えないが、ともあれ効果が高いことが有利に働く場面は多い。
今回の場合もイエタの魔術によりその結界は完全に破壊され、その効果を失った。
イエタの実力が足りなければ結界を崩す事はできなかったかもしれない。
「しかし一体誰がこんな場所に目隠しをしようと?」
「それは…進めばわかると思います。貴女なら」
「ふむ。わざわざ名指しされた以上付き合うのが筋というものだな。うん、楽しみだ」
「助かります」
通路を奥に進むイエタのあとについてゆくように、ティルゥもまた歩を進めた。
「うん…? よく見ると石造りの家か。珍しいな」
彼女たちが進む先は石造りの家が多い一角だった。
とはいってもアパートのような集団住宅ではない。
個人宅である。
これは彼女の言う通り少々珍しい。」
なにせこの辺りに岩場が少なく石材づくりはほぼ公的支援(という名の魔導術行使)の下でのみ為されるはずである。
近場に森はあるので木材の入手は容易だが、そちらも街が管理しているためおいそれと伐採することはできぬ。
こっそり森に入り木材を切り出したりなどすればたちまち見つかって厳し罰を受けるだろう。
なにせオーク族は闇の中でも昼間のように目が見えるからだ。
いずれにしても建築材を自己で賄うことは難しく、大概の場合金で買うしかない。
当然木材より石材の方がだいぶ値が張ることになる。
さらに言えば街が外に広がる際に内側の街は再開発が行われるはずで、そうなればこの辺りは取り壊され巨大なアパートが立ち並ぶことになるだろう。
木造建築はそうした際にも更地にしやすく有利だし、わざわざ高い金を支払って個人で石造りの建物を建てる意味はあまりないはずだ。
どうしても木造が嫌だというならまだ街が公営のアパートを建てた時の入居希望に駄目元で応募した方が遥かにマシに思える。
「住んでる奴らに何かの裏があるということか?」
「いえ。住んでいる方々にはただこの街に定住したいという善良な方たちでした。サフィナさんにも確認済みです」
「ならなおのこと…いや、そうか、家を売った連中がいるのか」
ティルゥの言葉にイエタは静かに頷く。
「はい。調べていただいた話によると親切な商人からお安く譲り受けたとのこと」
「親切な商人ね」
それはまあ余裕があるなら木造建築よりは石造りの家の方がいいに決まって入る。
セキュリティ面で格段に優れているからだ。
木造の場合簡単に打ち壊せてしまうため、身の安全という意味に於いては確かに石造りの建物の方に軍配が上がるだろうから。
中街より内側ならまだ巡回の衛兵やオーク兵も多く大きな問題はそうそう起こるまいが、この規模の街のそれも外周部となると、なかなかに衛兵たちの目も行き届かなくなってきているのだ。
「だがなぜわざわざ石造りの建物を建てそれを見ず知らずの者に安価で売りつける。篤志家か何かか」
「いえ…おそらくは先ほどの結界のためかと」
「結界…? ああさっき一瞬見えた光る壁のことか」
「はい」
イエタは小さく肯く。
「結界とは『場所』にかけるものなのです。例えば木造の家を結界のええと…なんでしょう、材料? と見立てて目の前の通路などないように思い込ませることは可能です。ですがその場合その家が壊れてしまうと結界もまた効果を発揮できなくなってしまうのです」
「なるほど。それで石の家か」
「はい」
石造りの家ならばそうそう物理的に破壊はできぬだろう。
結界とやらの維持を目的とするなら周りの環境は頑丈な方がいいわけだ。
「うん……?」
さてそんなことを考えつつイエタについて歩いていたティルは突然目を細め、その後僅かに腰を沈めた。
明らかに何かを警戒している様子である。
「なんだこれは」
「やはりお気づきになりますよね」
「うむ。というか…『これ』が司教殿のお目当てか?」
「はい」
イエタが再び歩き出す。
ティルゥもそれに続いたが、もはやイエタの後をついて行っている体ではない。
明らかに進むべき方向を自身で理解している足取りである。
「…ここか」
二人がたどり着いたのは小さな空間だった。
周りを石造りの家屋に囲まれた小さな広場のような場所である。
その中央に…なにかがあった。
目には見えぬ。
視覚ではただの地面にしか見えぬ。
だが…勘の鋭いティルゥにはそこに何かがあるのが感じられた。
それは…染み。
なにかとてもよろしくない、黒い黒い染みが、そこからにじみ出ているように感じられたのだ。
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