第694話 下クラスク東、路地裏

さて少しだけ時間は遡る。


街の各所に建っている柱時計の短針と長針が、ぐるぐるぐるぐると逆方向へ。

長針がちょうど三回転ほど逆に回った頃、つまり昼を少し過ぎたあたり、イエタはクラスク市の東にいた。


「おお、聖女様だ…」

「聖女様!」

「聖女イエタ様!」


道行く人がイエタを指さし、或いは手を合わせ祈りを捧げ、また地べたに膝をつき投地した。


一見なんとも大袈裟な有様だが、それも致し方ない。

なにせ彼女は司教であり、かつこの街の最高位の聖職者で、その奇跡の力は死すら克服すると言われているのだ。


またイエタ自身の人柄の影響も大きい。

老若男女差別せず貧富の区別なく種族の差すら分け隔てなく慈愛と癒しの手を差し伸べてくれるのだ。

その上かつてこの街を危地に陥れた伝説の赤竜を討ちとったパーティーの一員とくれば、それは聖女と崇めたくなるのも致し方なかろう。


当人は自分がそこまで大した人物ではないと思っているあたり少しミエと似ているが、彼女と異なりイエタは己がそういう扱いをされること自体には慣れている。

聖職者として己が特別な存在であると扱われがちなこと、そしてそれを鼻にかけ特権意識などを持たぬよう心掛けることを、天翼族ユームズの教会ではみっちり習い覚えるからだ。


このあたり天翼教会リィウー・グファルグフであろうと複音教会ダーク・グファルグフであろうと彼らの教会の在り方はさほど変わらない。

こうした清廉さと公平さがあるがゆえに彼女ら天翼族ユームズの教会は他種族にも受け入れられやすいのである。


イエタは己を拝む街の者達に手を振り応え、歓声を背にそのまま裏路地の方へと入ってゆく。

巡礼のように彼女の後についてゆこうとした者達は、だが角を曲がった途端その姿を見失ってしまった。


「あ、あそこだ!」


一人が指さした先は空だった。

イエタは羽を広げ、目的地まで空の旅人となったのだ。


「ええと…確かこの辺りのはずなんですが」


イエタは空の上から下街の雑然とした様子を観察する。

この街の最大規模の教会はクラスク市上街西部にあり、イエタはそこの司教である。

このあたりにも教会は点在しており、イエタほどではないが皆奇跡の力を備えた者ばかりだ。


要はわざわざイエタがこちらまで出向かなくとも、大概の用事はこのあたりの教会で間に合うはずなのである。


だが今日の彼女の用件はそうしたものではなかった。

幾度か首を捻った彼女は、だがようやく目星をつけたのか、急ごしらえの木造家屋が立ち並ぶ下街の一角へと降りた立った。


そのあたりは薄暗く、空気が少し淀んでいた。

住人達も他の区画に比べるとやや生気に欠け、どこか死人しびとのような目つきで壁際などに座り込み落ちくぼんだ瞳を向けている。

どこもかしこも活気と喧騒に満ちているこのクラスク市としては、かなり珍しい光景と言える。


金がないなら街の外に働きに行けばいい。

広大な農地は常に人手を必要としており、健康でありさえすれば仕事に困ることはまずない。

この街は賃金労働制なので一日外で農作業すればその日に給金がもらえ、そうすればとりあえず餓えずには済む。


健康を害していて働けないのなら教会にいけばいい。

怪我や病気を癒す奇跡の力の恩恵に預かるには教会への布施が必要だけれど、事情があれば先に治療を受け後で布施をしにきても構わない。


ただ…もし金がないわけでもなく健康を害しているわけでもいないとするなら、この場に留まり無為に過ごしている者達はただひたすらに気力がないから、ということになる。

だがそんな無気力な者が一体なぜ人生を賭けてオークの街まで不法移住しに来たのだろうか。


イエタはそんな彼らの家の間を縫うようにして奥へと進む。


そんな彼女の前に…

ぬっ、と巨漢の男が現れた。

髪はぼさぼさで、顎髭を生やし、いかにもごろつきといった風体だ。


ぺこり、と軽く会釈をするイエタ。

そんな彼女を無言のまま見下ろして、値踏みをするような眼で上から下まで吟味する巨漢の男。

その視線は美しい容姿で一度止まり、次に豊かな胸のあたりで止まり、最後に整った腰つきと修道服に隠れている太股あたりで止まった。


彼は無言のまま身を乗り出すと、イエタの腕を取らんと手を伸ばし…


「おおっと、やめておいた方が無難だな。私が助太刀するまでもなくひどい目に遭うことになるぞ」


イエタの背後から現れた謎の女性が、彼女の肩を掴んで後ろに引き下がらせ、右足を踏み込んで一歩前に出た。


「…………………」


ぎろり、とその後から現れた女性を睨みつける男。

だがその女性はまったく臆した様子もなく、普段と変わらぬどこか好奇心旺盛なその瞳で男を見上げていた。


男はそのまま一歩引き、背を見せ歩み去る。

最後まで一切声を出すことはなかった。


「大事なかったかな。まああんたなら一人で何とでもできたのかもしれないが、一応万が一を考えて口を挟ませてもらった」

「まあ、こんにちは。このようなところで遭うとは奇遇ですね、ティルゥ様」

「ティルでいいとも」


イエタが頭を下げた相手……イエタのピンチを救ってくれた女性は、この街の衛兵隊副隊長たるウレィム・ティルゥであった。


ティルは軽装で、鎧の一つも着ていない。

ただ腰に剣を差しただけの軽装も軽装、それも女性である。

だがそんな彼女を見て先ほどの男は無言で退散した。

だからもしかしたら先程の男は、彼女の役職を知っていたか、或いはああ見えて人を見る目があったのかもしれない。


「ところで助太刀、というのは…?」

「おおっと、まさか今のを危機とも思っていなかったのか。これはしたり」


果たしてイエタはあの程度の相手雑兵とすら思っていなかったのか、それとも単に今にもをされんとしていたこと自体に無自覚だったのか文脈からはわからぬが…まあほぼ間違いなく後者であろう、とティルゥは断じた。


そしてその見立は正しい。


「それでティルゥ様は今日はどのような用件でこちらに…?」

「いやただの散歩さ」

「ということは本日の教練はお休みなのですか……?」

「いや、あるだろうな…あるんじゃないか?」

「まあ」


衛兵隊の副隊長にあるまじき発言を口走るティルゥ。


実際彼女は教練などをよくサボる。

とはいえなにもかも適当というわけではなく、例えばエモニモが妊娠やお産で不在の時で、かつキャスが様子を見に来ていないときなどはしっかり隊長代理を務めあげた。

だが二人のどちらかが衛兵隊に顔を出すと途端に出席率が悪くなる。


なぜそんな彼女が未だに副隊長の座に就いていられるのかと言えばとにもかくにも強いからだ。

純粋な剣術の腕だけなら隊長であるエモニモより上かもしれぬ。


さらに言えば教練をサボるからと言って彼女は衛兵の仕事自体を放棄しているわけではない。

実際彼女が教練をサボって街に繰り出している時は、困った人に手を差し伸べたり街に巣食わんとしたごろつきどもを一掃したり逃げ出す物盗りを捕らえたりととにかく活躍が多い、


この街の衛兵隊の信頼と人気が高いのはエモニモの実直な人柄と高い指導力あってこそだが、それに加えて彼女の個人的活躍と人気によるところが大きいのである。


さらに言えば彼女は勘働きに優れており、揉め事や厄介ごとのあるところによく出くわしやすい。

言うなれば衛兵が必要とされる事態になる前にその芽を摘み取っているとも言える。


祭りの際にやってきたただの無銭飲食だった彼女は、今やすっかりこの街になくてはならぬ人材となっていたのである。


「なあに今は隊長殿がお戻りになられているから問題ないともさ。まったく我が子を乳母に預けてすぐに職場復帰とは、隊長隊長の鑑だね」


エモニモ隊長も教練をサボっている彼女の口からそんな言葉は聞きたくなかろう。


「それは大変ですね…子供はいつも素晴らしいものですが」

「そうだな。新しい命はいつだってよいものだ」

「はい!」


嬉し気に頷くイエタだが、この街で生まれ落ちる赤子の大半はオークの男児である。

強く危険なオーク達が今このときこの街で大量に発生しつつある…この街に理解のない者が聞けば戦略的脅威とも取られかねない状況なのだ。


「それで今日はなぜこちらの方に散歩に?」

「それはこちらの台詞だイエタ司教、こんな掘っ立て小屋だらけの裏路地を君のような美女が歩くだなどそれこそかどわかしてくれと言っているようなものだ。あまり感心はしないな」

「まあ、わざわざの御助言感謝いたしますわ」

「本当にわかっているのかね」


にこやかに礼を言いながらその足でさらに裏路地の奥へと向かおうとするイエタに思わずティルゥがツッコミを入れる。

相手のやりたいことも己のやりたいことも無下に否定しない彼女としてはやや珍しい発言だ。


「ですが…こちらに用がありますので」

「なるほど。では仕方ないな」


そう呟いたティルは、そのままイエタの隣で歩き出す。


「ティル様?」

「様付けもいらないつもりで言ったのだがね……まあいいさ。こんな路地裏を美女一人に歩かせるわけにもゆくまい」

「まあ……ありがとうございます!」


手を合わせぱああと顔を輝かせるイエタからは素直に感謝の念がにじみ出ている。

二人はそのまま薄暗い路地の奥へと歩を進めた。





だが……ティルゥの弁ではないが、一体イエタはこんなえた路地裏にどんな用事があるのだろうか。





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