第691話 朝の準備にて

「じいや。女性相手ならケーキの用意をしておいた方がいいわ。私はガーバントたちとグラトリアの外交官をもてなします。じいやはお茶を出したら上街にケーキを買いに行ってちょうだい」

「は、かしこまりましたケーキ屋さんヴェサットラオトニアでよろしいでしょうか」

「ええ。あそこなら間違いないでしょう。確実に並ぶことになるでしょうけど、頼める?」

「お任せくださいませ」


今やすっかり店前の長蛇の列にも慣れたじいやである。


「ケーキは…そうね、木々の若芽をイメージした緑のクリームを用いたシュークリームギアデアツォ・イグローエンが期間限定で作られていたはず。あとは火輪草フーロ・フリョルをモチーフにしたゼリーオポールがあったわね。木の実という事で秋に取れたリンゴを使ったアップルパイエヴロヴオ…いえ同じリンゴならこれはミエちゃんのタルトタルト・ミエィーにしましょう。それと常設で葉っぱの形のクッキーギィクォがありますから、それも」

「はっ!」


単に甘いもの、といっても適当に買い求めるのではだめだ。

外交官である以上相手の国や種族についてもしっかり配慮しなければならぬ。

エィレの指示した名前から店に並んでいたそれらの商品をさっと思い浮かべ、エルフ相手に出す菓子として最善であると判断したじいやはうやうやしく頭を下げた。


当日に準備をするのは少々性急すぎるかもしれない。

事前に買っておいて保存の魔術をかけておいても良いはずだ。

ただ王宮でもない出先の外交官として、エィレはそうした無駄な出費はなるべく避けておきたかった。

数時間から半日程度なら今や冷蔵庫で十分保温も保存もできるからだ。


「グラトリアの会談の最初に顔を出していても列が長くなる前に並べるでしょうから十分にあがなえるでしょうけれど、もし午後の会談までに間に合わないと思ったら次善の店で構いません。候補は三つありましたよね。判断は任せます」

「は、承知いたしました」


胸に手を当てうやうやしく頭を下げたじいやが、片目を閉じて追加の確認を行う。


「で、姫様。姫様の分のミエちゃんのタルトタルト・ミエィーはいかがいたしましょうか」

「…頼めるかしら、じいや」

「畏まりました」


これまで以上に深々とじいやが頭を下げ、エィレが少し頬を染めた。


ケーキ屋さんヴェサットラオトニアは王都でもその名を聞いたケーキ屋である。

姉たちも好んで食べていたし、貴族の中でもお気に入りにしている者がいるそうな。

そんなケーキ屋がこの街に本店を構えていたのも驚きだが、その大行列にも輪をかけて驚いた。


さらにその店では店主の名前を冠した焼き菓子と、ミエの名を冠したケーキが名物となっていたのだ。

これはミエに憧れるエィレとしては絶対看過できぬあんけんである。


そこでその行列に混じってなんとかその事物部を買い求めてみたところ…これがまたなんとも美味なのだ。


砂糖やバターなどで煮詰めた大振りのりんごを生地の上に敷き詰めて焼き上げるこのケーキは、砂糖がキャラメルのようにリンゴにしみついて何とも言えぬ甘味を醸し出す。

ミエの名を冠していなくとも間違いなく気に入っていたであろうそのケーキに、さらに憧れの人の名まで付けられているのだ。

これで常連にならずにいられようか。というものである。


「おはようございます姫様」

「おはようございます!」

「はい、おはようございます皆さん」


騎士達が次々に玄関から入って来る。

この建物がエィレの住居から大使館へとその役割を変える瞬間だ。


彼らが周囲の見回りや侵入者の確認などをしている間、エィレは王都への手紙をしたためつつ書類を手早くまとめてゆく。

あと1時間もすれば最初の会合相手がやって来るだろう。

それまでに溜まっている書類を少しでも片付けておかなければ。


「ガーバント」

「はい、なんでしょうか姫様」


エィレは手を止めることなく騎士の一人、ガーバントに話しかける。


「そういえば貴方達、私の心配はしないのですね」

「心配…ですか?」

「ええ。だって王国の第三王女がこのような見ず知らずの慣れぬ土地に住み暮らし、メイドもなしに生活しているのです。少しは心配になったりするのではないでしょうか」

「いえ。まったくしておりません」

「まったくですか」


エィレはつい真顔でツッコミを入れてしまった。


「失礼ながら姫様の姉君たちであれば、こうした地に赴任する際もっと大掛かりに人を連れてくるはずです。メイドなりコックなり、必要な人材を、それなりに」

「それは…まあ、そうでしょうね」

「ですが姫様は必要最低限の人員しかお連れになりませんでした。それは姫様がこうした役職の段取りに不慣れだったことと、もう一つ」

「もうひとつ?」

「はい。姫様が御自分で何とかされる御気性の持ち主だからです。新しい食べ物に食指を伸ばすのも、手ずからの料理に挑むのも、王都にいた頃の姫様のご様子から十分想像がつきましたので」

「言いましたね」

「申し訳ありません。差し出がましい口をききました」

「構いません。正直者に免じて許します」


そう言いながらもエィレは別に悪い気はしていない。

実際彼の言っている事は実に的を得ていたからだ。


料理も掃除も洗濯も、新しいことに挑戦するのはとても楽しい。

それが上手くできるようになればさらに楽しい。


そもそも市井にお忍びで出かけ庶民の生活をつぶさに見分しその仕事を一緒に手伝ってきた彼女にとって、そうした日々の営みが下々の者の雑務であって、王族貴族が為すような行為ではない、などといった認識が薄いのだ。


これが王宮だと、彼女のそうした好奇心とやる気は大抵蓋をされてしまう。

そのような仕事はメイドなどに任せておけあばよいと。

そんなことにかまけている暇があるなら王族の務めをしっかり果たすべきだと。


それはそれできっと正しいのだろう。

王族に生まれ落ちることができる者はとても少ない。

そうした立場にある者は、王族としての正しい責務を学び、務め、そして果たさなければならぬ。


それは政治であり、国の統治であり、脅威からの防衛であり、そして縁戚を含めた外交である。


もちろんエィレもそれらのことは重要だと理解はしている。

だがそれでも彼女は内から湧き出す好奇心を抑える事ができぬ。


王都ではその溢れだす思いがお忍びという形で表に噴出していた。

閉塞していた王宮に閉じこもることを彼女は良しとしなかったのだ。


だが今は違う。

外交官としてクラスク市に赴任してきた彼女は、もはや籠の鳥ではない。

この街で彼女は自由に羽ばたけるのだ。


そして翡翠騎士団によく顔を出していた彼女は、その奔放とした気質を彼らによく知られていた。

ゆえにガーバンはまるで心配していなかったわけだ。


自分でなんとかするしかない、などという状況は、この王女にとってなんの足かせにもならぬ、と。


「王女として少々耳の痛い言葉ですね」

「いえ。我らとしてはむしろ姫様のような方こそ好もしいと感じておりますが」

「それは誉め言葉?」

「勿論ですとも」


そんな小気味よい会話を楽しみつつ、エィレは少し違和感を覚えた。

彼は、この騎士は、もう少しお堅い人物ではなかっただろうか。


「ガーバント、貴方どこか変わりましたか?」

「は……」


少し驚いたというか、虚を突かれたような顔になったガーバントは、己の胸に手を当てて暫し目を閉じる。


「…そうですね。姫様に御指摘されて初めて気がつきました。確かに私はこの街に来て少々変わったようです」

「へえ…」


それは興味深い。

諸外国の外交官と会談し様々な知識と情報を得るのも大事だが、この街に住み着いた自分の部下にどのような変化があったのか知るのもまた立派な知見である。





「よかったら…私に教えてくれるかしら。貴方が変わった理由」






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