第680話 標高

「天険山脈……知ってます!」


そう叫んだエィレの声は少し震えていた。


自分達が住み暮らすこの『北の大陸ミルスフギムサモンズ』、その中央よりやや西より、大陸の中央部と西部とを分断する大山脈の名だ。

その山脈のせいで大陸西部との交易は滞り、向こうの品は高値で取引されるのだとかなんとか。

そしてそこに住んでいるというのが…


「主に西方人ヨーツォルムが暮らしているところだって聞きました」


西方人ヨーツォルムは金色の髪と青い目をした人種であり、北方人ミルスフォルムとは近縁だ。

北方人ミルスフォルムの金髪が銀髪や白髪混じりなのに対し西方人ヨーツォルムのそれは亜麻色や茶髪が多かったり、肌の色も北方人の方がより白かったりと言った細かな違いはあるが、南方人ティアスフォルムなどに比べれば両者の特徴はかなり近い。


だが近いながらもはっきりとした差ができる程度に両者を隔てている要因……それがその『断絶の山嶺』天嶮山脈だと聞いている。

つまり人種の差を生むほどに大きな隔たりを生んでいる地形、ということだ。


「ほほう、この辺りに住んでいてあの山嶺を知っておるとはお主なかなか博識だな」

「うむ。その年で見事なものだ」

「あ……」


ハッと気づいた時にはもう遅かった。

シャルとヴィラが瞳を輝かせてエィレの方を見つめていたのだ。


「へー、物知りなのね!」

「エィレ、すっごい!」

「あー、ええっと…」


学があるという事は教育を受けているという事。

この街には義務教育機関があるけれど、そうでなければ教育というのは家庭教師などを雇ってわざわざ学ばせるものだ。

学校が存在する国や地域もあるけれど、それもやはり貴族や裕福な者が通う場所であり、その恩恵を得られるのは一部の者に限られる。


知的である、学がある、ということはそれだけ高貴や裕福を示す証左になる。

太守夫人の故国とはそのあたりが決定的に違うのだ。


エィレはまだ己の身分をシャルやヴィラに明かしていない。

別に秘密にするつもりはなかったのだが、なんとなく打ち明けるタイミングを逃してしまっていたのだ。

それをこのタイミングで明かすのは何か気まずい。


さてどうしようかと気を揉んでいると…


「そんな山を越えたことがあるのか、お主らは」


ユーアレニルがさりげなく話題を逸らし、エィレに軽くウィンクした。

事情を知っている彼が助け舟を出してくれたのだ。


思わず心の内で神様にでも祈りを捧げるように両手を合わせるエィレ。


「そうさな。わしは向こうの出身だからな」

「そうなんですか!?」


そしてダッコウズのとんでもない発言に驚愕するエィレ。

天嶮山脈の向こうの出身などそれを自慢にする行商がいるくらい珍しい。


「ええ…? 超えるのがすっごく大変な山って聞きましたけど」

「ふーん。って言っても山ってことは上は空いてるんでしょ? あの羽の生えた連中…なんだっけ。天翼族ユームズだっけ? はどうなの。あいつらなら越えられないの?」


エィレの驚きがよく理解できないシャルが気軽にそんなことを言い放つ。

まあ人魚族であれば地上の事物について詳しくなくとも仕方ないだろうが。


「えーっとね、山って高くなるほどどんどん寒くなるの」

「寒いの?」

「わたしちょっとわかる!」

「そう。山が高くなるほどにずっと寒くなるの。ほら見て」


エィレはそう言いながら自分達が方角を指さす。

『狩り庭』…いやもう北森ミルスフ・ヒロツと呼んだ方がいいだろうか…のあたりはこのなだらかで広大なアルザス盆地の中でも比較的起伏が激しく、彼女たちがいるあたりは少し小高く盛り上がっている。

ゆえにエィレの指さす先には遥かに広がるチェック柄の畑と点在する幾つかの村、その先に小さくクラスク市が見えた。


だがエィレが最示しているのはさらにその先だ。

その指をまっすぐと伸ばした先にあるのは視界の正面から西の方へと延びる山の嶺…アルザス王国とバクラダ王国を隔てる白銀山嶺ターポル・ヴォエクトである。


「山ね」

「やま!」

「うん。でその山の上の方ずっと真っ白だよね」

「そうね。なんかずっと白いわね」

「ゆき!」

「雪? ああこの前すっごく寒い日に降ってたやつ…?」


思い出して身震いをするシャル。

このあたりは夏場より冬場の方が雨が多く、気温によっては雪も降る。

ただし雪害と呼べるほど積もったりはしない。

雪が降れば子供たちが大はしゃぎして外で遊ぶ程度の、やや珍しい冬の風物詩のようなものだ。


ただおそらくシャルにとっては初めて味わう陸の本格的な寒さだったのだろう。

前準備も事前情報もなく突然雪が降る寒さに遭遇すればそれはよろしくない印象を受けてしまうというものだ。

きっと防寒着を着て景色を楽しむ余裕もなかったに違いない。


「雪って寒くなると降るでしょ? でも暖かくなると溶けて水になって流れていっちゃうの」

「あー…そういや家の中にずっと引きこもってたらいつの間にか消えてたわね」

「ゆきすっごくつめたい!」


シャルに説明するために言葉を交わすその後ろから、ヴィラがいちいち反応して己の感想を述べる。

彼女は巨人族なので顔も大きければ口も大きく、結果としてだいぶんに声も大きくて、近くで聞いているだけで風圧を感じるほどなのだけれど、あえて注意する程のものでもないからとエィレはそのまま我慢することにした。


「そう。暖かくなると溶けちゃうの。でも逆に言うとわけ。見て、今はもうすっかり春だけど、あの山の上の方はずっと白いままでしょ?」

「そういえばそうね…なんで?」

「なんで?」


シャルとヴィラが同時にエィレの方に顔を向ける。


の。今日はだいぶ暖かいけど、でもこの真上、空の方に行くとずっと寒くなる」

「お日様に近くなるのに!?」

「ほんとだ! なんかへん!」

「それは…ええっと……」


二人からの実に素朴な疑問にはてどう答えたらものかとエィレは困惑した。

彼女には高いところに登れば寒くなるという知識自体はあったけれど、その物理的な理由までは知らなかったからだ。


太陽の女神エミュアはそんなに近くにはいないのさ。だからちょこっと近づいたって程度じゃわけじゃない」


エィレが答えに窮していたところに助け舟を出してくれたのは先刻からずっと手にした宝石の原石を眺めていたアウリネルだった。

いや彼女は今でもずっとその原石をいじくっている。

よほど興味深いのだろうか。

それとも単に宝石が好きなのだろうか。


「じゃあそんな遠いならなんで私たちはこんなに暖かいの?」

「そうだそうだ! あたたかい!」


シャルが少し疑わし気に眉をひそめ、その背後から巨大な右腕が突き上げられた。


「この暖かさは太陽の熱の暖かさじゃないのさ。空気とか地面とか、周りが暖められて結果的にわたしらを暖めてる感じ?」

「ふうん……?」


理解できたかどうかはともかく、ともあれシャルはなんとなくかと納得したようだ。

ただその背後にいたヴィラの方がその大きな腕を組んで唸り声を上げながら首を大きくひねっていたが。


「えーっと、このあたりには地面みたいに『暖かくなるもの』がいっぱいあって私たちを暖めてくれる。でも高いとこ行くと暖まるものが周りに少ないからその分寒いってこと?」

「言い得て妙さねー。でだいたい合ってるよー」


正確には互いの認識には若干の相違がある。

シャルの言っているのは高いところに行くほど土が少なくなって、そこから立ち上る暖気が減るといった感覚だが、アウリネルの言っているのはの問題だ。

気圧が減れば気温は下がる。

ゆえに鉱山などでは気温が低い。


だが気圧の低さをと解釈するなら、空気というが少ないというシャルの言い分は正しい。

シャルの認識よりもその表現を以てアウリネルは正解としたわけだ。


「ええっと、とにかくそんな理由で山って登るほどにどんどん寒くなっていって、ある程度以上高くなると降った雪が溶けなくなっちゃうくらい寒くなっちゃうの」

「え、あれって全然溶けないの?! ホントに!?」


シャルの驚き顔を前にエィレはこくりと頷いた。






「そう。溶けないの。でダッコウズさん達が言ってる天嶮山脈って言うのはあの白銀山嶺ターポル・ヴォエクトよりもずうっと高いの。だから天翼族ユームズの人たちも寒すぎてその上を越えられないってわけ」






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