第675話 切り札と使い道
この世界では未だに殆どの場所で『物資』を『金銭』もしくは別の『物資』に換えている。
農民であれば麦を売って金に換えるし、別の作物と交換したりする。
木こりであれば当然伐採した樹木を売って収入にする。
途中の労働ももちろん重要ではあるがそれ自体は商品の売買が行われていない以上金にはならぬ。
物が売れて初めて収入が発生し、収入があるから給金を支払えるのだ。
経済観念が発達している商人どもは例外として、報酬とはすなわち利益の分配に他ならないのである。
だがミエはそれは違うと言い切った。
いずれ利益になるとわかっているのであれば、その利益をえるための作業にも当然価値がある。
価値があるのだからそこには対価があるべきだ。
労働した作業内容や作業時間に応じてしっかり金銭を支払うべきだというのが彼女の持論である。
これがクラスク市の農作業従事者などにも導入されている、いわゆる賃金労働制である。
「私たちはエルフの皆さんが木材を育ててくれることへの対価として賃金を支払う用意があります。ですが皆さんには街の住人として支払うべき処々の税金があります。なので支払う賃金から税金をあらかじめ差し引いて、残った分だけをお支払いしようと思うんです。その分手取りが減ってしまいますけど…これなら意図的に『支払う』ということを意識せずに済むと思います。それでは駄目ですかね?」
ヴシクゼヨールと、彼と共に陳述にやって来たエルフ達…オムロー、リーマ、ハイムルの四人はその話を聞いて困惑した。
どうにも話がうますぎるからだ。
ミエの世界では賃金労働制が一般的である。
日給だったり月給だったりすることはあるが、労働に対する対価、という意味に於いてそれは変わらない。
そしてその給金からあらかじめ保険料や住民税などの国民として、あるいは県民・市民・区民などとしての必要な金銭が差し引かれてゆくいる事も珍しくない。
いわゆる『天引き』というやつである。
給料を受け取ってそこから保険料を支払う。
あらかじめ保険料を差し引かれた給料を受け取る。
このとき、最終的に手元に残る金額は全く変わらないにも関わらず、受け取り手の不満が圧倒的に高いのは前者である。
たとえいずれ納付すると理解していても、一度自分が取得してから支払った方が『得たものを失う』感覚が強くなり、『損する』と感じてしまうためだ。
ミエはそうした心理を活用し、賃金労働の報酬に税金をあらかじめ包括しておくことでエルフ達が心理的に抵抗を覚えにくくしようとしたわけだ。
だがエルフ達が驚いたのは実はその点ではない。
もっと単純で、そして根本的な部分である。
エルフは文明圏に生活する種族であり、当然金銭の価値も知っている。
だが彼らの生活に金銭が必要かというと、実はあまり必要としていない。
衣食住は全て森で賄えるし、寿命が長く生を急がぬ彼らは余分は欲望や願望をあまり抱かない。
繁殖力も低く人口爆発もないため棲息圏が無秩序に拡大もしない。
いわば『足る事を知る』生活を営んでいる言える。
そんな彼らは他種族との交易に金を使うことはあっても日常生活に於いて金銭を殆ど必要としないのだ。
ただ臨時に出費する際には手元に金銭があった方が有難い。
となると彼らの心理的に「余分な出費はしたくない」「金銭は必須ではないがあるに越したことはない」『待つ時間は幾らでもあるので額は些少でもいい』ということになる。
ミエの提案はその全てを満たしているのだ。
税金は賃金から天引きされるため余分な出費はない。
日々森を育てるついでに傍らにある
額は些少だが定期収入である。
それはエルフ族にとってとても都合がいい話だったのだ。
悪くない。
悪くない条件である。
オーク族に頭を下げねばならぬという事に我慢さえすればすべて丸く収まる話だ。
そのオークとて奥でこちらに耳を傾けているこの街の太守は一切無礼な口も態度も示していない。
あくまで紳士的に交渉を進めようとしている。
他のオークと同じ扱いをするのは失礼というものだろう。
そこまで考えて、ヴシクゼヨールが口を開きかけたその時…
「お待たせしたでふ!!!」
ばたん、と扉が勢いよく開き、ドワーフ族の娘が部屋に飛び込んできた。
「あらー、ネッカさん、もしかして見つかりました?」
「待っテタ」
「はいでふクラ様! ミエ様! こちらでふ!」
ネッカは胸元に抱えていた銀色の彫刻を机の上に置いた。
それを見たエルフ達はまず硬直し、次に目を幾度もしばたたかせ、何度も目をこすると…
最後に、ぎょっとなって目を真ん丸に見開いた。
「ミ、
彼らはそれを知っている。
いや知らぬはずがない。
彼らが取り戻したがっている、切望してるその故郷。
そこにかつて祀られていた、エルフの
それは世界樹を模したデザインの
戦闘的な効果は殆どないもののそうした効果を使い減りせず、永続的に使用し続ける事の出来る非常に便利かつ希少な魔具だ。
かつての彼らの集落の宝……いわゆる国宝に匹敵する魔具なのである。
ただそれは千年近く前に赤竜に襲撃され、森を焼かれた際に失われてしまった。
占術で調べても所在地がわからず、炎に焼かれ融解してしまったか、或いは赤竜が奪いその巣に貯めこんでいるのではと予測はできても誰一人確かめる事は出来なかった。
何せ彼らはこれまで幾度も赤竜討伐に挑みつつも、ただの一度もその巣穴に辿り着くことができなかったのだから。
それが、目の前に置かれている。
目の前の机に鎮座しているのである。
「竜の巣穴にあったものでふ。魔術で調べたところ少し溶けたり折れたりしていた個所を誰かが魔術的な補修をした跡があったでふ。おそらく赤竜イクスク・ヴェクヲクス自身が直したものと推測されまふ」
「まあ、あのドラゴンさんが?」
「その程度の損傷では魔具の使用に影響はないと考えられまふから、単純に審美的な理由と思われまふ」
「へー……。へー……」
「ミエ様、赤竜はあくまで呪文で直したのであって別にあの大きな体を縮こまらせてちょこちょここ修復したわけではないでふよ」
「人の心覗かないでもらえます!?」
ミエはあの巨大な赤竜がその大きな手でこの小さな魔具を頑張って修復する図を思い浮かべて案外かわいい! などと思ったけれど即座にネッカに否定された。
まあネッカの台詞は心を読んだというよりミエの表情から読み取ったものだろうが。
エルフ達はごくりと唾を飲んで目の前のものを凝視した。
なんと恐ろしい交渉相手なのだろう。
彼らはきっと竜の巣穴にあったこの魔具を自分達の秘宝だと看破したうえでこの交渉に臨んでいたのだ。
この国宝を返却して欲しくば全ての要求を飲み莫大な金を支払えと。
この秘宝を人質、もとい物質にするつもりだったのだ。
彼らが拒否できるはずもないことを理解した上で。
先ほどの
現金収入が少なければ金が溜まるのは遅くなる。
そうすればいつまで経ってもこの魔具を買い戻す算段はつかない。
その間この宝を盾に要求されたことはなんでも従わなければならぬのだ。
そんな切り札を、このタイミングで持ってくるとはなんと狡猾な……
「それお前らの物ダナ」
「…ああ」
ミエ達の後ろ、壁際にいたクラスクがソファから立ち上がり、一歩前に出て口を開いた。
ヴシクゼヨールが、敗北を覚悟して肯首する。
だがここで否定することだけはできぬ。
エルフ族の、そして
「そうカ」
クラスクは予測通りだったことに満足げに頷くと、その卓上に置かれた銀色の彫刻を指さし、こう告げた。
「返ス。持っテ帰れ」
エルフ達は……今度こそ彼が何を言っているのか理解できなかった。
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