第645話 街中探訪
「今お仕事ですか?! ごめんなさいお邪魔しちゃって!」
「お仕事ちゅう…」
そう言いながらもヴィラウアはやや残念そうな表情を浮かべた。
彼女の方ももっとエィレと話がしたいようだ。
「決まり、まもる、だいじ」
「…そうですね!」
そう返事をしながらエィレは驚いていた。
『決まりを守る』なんてことを巨人族が言い出すだなんて、しかもその重要性を認識してるだなんて、とてもとても意外だったのである。
だがそれではっきりと確信できた。
規律を守る意識がある。
それはつまりヴィラウアがここで働いているこの街の住人であるということに他ならぬ。
この街に来てから様々な種族を見てきた。
人間族の街では滅多に見かけぬ種族もいた。
だがそれでも流石に巨人族まで受け入れているだなんて想像もしていなかったのである。
「あの…えと、えっと…」
どうしよう。
どうしよう。
エィレは何を言えばいいのかわからず言葉に詰まる。
話がしたい。
話が聞きたい。
このチャンスを逃したら次にいつ会えるかもわからない。
引き止めたい。
でもお仕事中だ。
ここで長話をしたら相手にも彼女の雇い主にも迷惑だろう。
「ええっと…今度お暇な日はありますか?」
だから、つい、そう言った。
「! ええと…こんど、だから…次! あ、あした! お休み! だいじょうぶ!」
「明日!」
「あした!」
二人の声が重なる。
「じゃあ、あしたのあさじゅうじ! 北門の前で待ち合わせ! ええと…エィレ…ド?」
「エィレでいいわ! そのかわり私も貴女のことヴィラって呼んでもいい?」
「!! びら…ヴィラ! わかった! よろしく、えぃれ!」
二人はそうして挨拶を交わし、ヴィラウアは一緒に荷物を運んでいた人間やオーク達にぺこぺこと頭を下げて道草を謝った。
これまた巨人族のイメージからはだいぶ遠い行動である。
ヴィラウアに謝罪された現場監督らしき男は手をひらひらさせて気にしていない旨の態度を取る。
ただ浮かれているヴィラウアもエィレも気づかなかったっけれど、彼の視線は密かに城壁の上のエィレに注がれていた。
だからもしかして彼はエィレの正体を知っていて、彼女の望みを密かに叶えてあげたのかもしれない。
「巨人…巨人族!」
ヴィラウアと別れた後、自分が成し遂げたことに高揚してつい歩幅を大きくしてしまうエィレ。
だが致し方なかろう。
絵本と知識と噂でしか知らぬ存在を初めて目にすることができて、そのうえ交渉まで(それも友好的に!)こなすことができたのだ。
彼女の心持ちとしてはまるで竜を退治した勇者の気分さながらである。
まああくまで彼女の心持ちの問題で、実際にはまだ何も成し遂げられていないのだけれど。
エィレは興奮のあまり今日の目的である彫刻家イズカルクの工房探索のことをすっかり忘れ果てており、その想いは完全に明日の約束の時刻へと向けられていた。
だが…そこでハタと彼女の足が止まる。
「…じゅうじ?」
『じゅうじ』とは、そもそもいったい何を意味しているのだろうか。
「十時? ああ時刻のことですね。ほら街のあちこちに時計があるでしょう? 柱時計。あれの短い針が十を指しているのが十時。長い針が十を指しているのが十分。長い針は一時間で一周しますからつまり一時間は六十分。短い針の方は深夜に十二を指して一日に二回りしますから、つまり朝の十時と夜の十時がありますね」
「へー! へー!」
歩廊の上の衛兵に尋ねたところ、実にわかりやすく教えてもらった
どうやらこの街では時間を『○○時』と表現するのが普通なようだ。
エィレの知る時刻と言えば教会が定期的にならず鐘の音だったのだけれど、どうやらこの街に関してはその常識を改める必要があるようである。
「ええっと…短針が12まであって一日きっかり二回り。ってことはだいたい一鐘楼で短針がみっつ進むってことかな?」
などと彼女は考える。
ただその考えは概ね合っているが、厳密には少し違う。
教会の鐘の音は日の出から日の入りに分けて鳴らすため季節によってやや鐘楼の間に差があるのだ。
そうした誤差を含めれば彼女の計算でおおむね合っている。
随分不正確に感じるかもしれないがそれは現代的感覚である。
農耕などを主体とする中世、或いはそれ以前の生活を営む場合、一日の日の出や日の入り、さらには四季による変化などが重要であって、時間を客観的かつ正確に刻む必要性はあまりないのだ。
ともあれ時間のことはわかった。
流石に人との待ち合わせに夜の十時はないだろうから明日の朝十時に北外大門前で待って入ればいいのだろう。
「ありがとうございました!」
衛兵にお礼を言ってぴょこなんと頭を下げたエィレの耳に…
なにかが、聞こえた。
「…………?!」
ばっと顔を上げる。
城壁の上から街並みを見下ろす。
比較的低階層な鍛冶屋街。
蒸気を噴き出す大きな煙突を備えた工場群。
行き交う買い物客。
飛び交う郵便配達員。
そんな雑踏の中…確かに、聞こえた。
歌だ。
歌声だ。
誰かの歌声が街の中から響いている。
声色からして女性のようである。
遠くだからよくわからぬがかなり透き通った奇麗な声だ。
かなり小さな、遠くからの歌声だけれど雑踏の中にもそれに気づいている者がいるようだ。
幾人かが足を止め、耳を傾け聞き惚れている。
きっとこれが、噂に聞く謎の歌姫……!
考えるより早くエィレは駆けだしていた。
歩廊の上から地上へと続く最短の階段まで。
そして階段をダッシュで下り切ったまたま交代の時間で衛兵が開きかけた扉から飛び出して門番を驚かせつつ街中へと走り去った。
歌のした方角。
声の遠さ。
そこから推察できる距離。
そこまで遠くないはずだ。
おそらく下街、それも北部から北西部のどこか。
ちょうど今日エィレ自身が歩廊の上で眺めていた街並みのどこかのはずだ。
場所的に繁華街ではない。
観光客などがあまり訪れない、居住区のあたり。
人通りの少ない裏道の……
走る。
走る。
驚くほどしなやかな手足。
ほとばしる汗。
彼女が店の前を駆け抜けるのを目にした店主はその躍動感にさぞ驚いたことだろう。
人混みの間をすり抜けるような危ないことはしない。
大きく避けて最短距離。
過度に差し掛かった瞬間地面を強く蹴ってほぼ直角に曲がり、主街道から外れ繁華街を背にさらに速度を上げた。
「ここーっ!」
ざざざざ、と半ば滑るようにして通りの一角に飛び込んだ。
このあたりはエィレが見てきた木造家屋はなく、石造りのアパートが立ち並んでいる。
街の北部中央を突き抜ける主街道からやや離れているものの、そこからの石の街並みがまだ続いているあたりだ。
「あっれー…?」
きょろきょろと見回すが誰もいない。
そして彼女の視界の左側には高い高い壁がそびえている。
城壁だ。
北中大門から東に続く壁、つまり中街と下街を隔てている城壁である。
かつてアルザス王国の宮廷魔導師ネザグエン…現在はこの街の魔導学院の副学院長だが…が初めてこの街を訪れた時にはここがこの街の外周だった。
当時は盛った土の周りに石材を積んだだけの、いわば土塁に毛の生えたような代物だったけれど。今ではすっかり堅牢な城壁に変貌している。
城壁の外周には当然ながら堀があり、わずかなせせらぎがその水に流れがあることを示している。
そして城壁に直接渡れぬようやや離れた場所に石造りのアパート…高層のものと低階層のものがあって、それが横の並んでいた。
言ってみればエィレは、街を護る堅牢な城壁と、防衛のためそこからやや距離を空けた群れ為すアパート群との間の、小さな広場にいるわけだ。
エィレが歩廊の上から見てきた木造建築の群れはこのもう少し先から顔を出すはずだ。
だからこのあたりは鍛冶屋街を誘致したりした関係で街の重点開発地区になっているのかもしれない。
ただ、誰もいない。
アパートには当然人は住んでいるはずなのだが、今は外に誰もいない。
珍しく、なのかそれともたまたまなのかわからぬが、ともあれその裏通りには人っ子一人いなかった。
「おっかしいなあ。慌てて逃げ出すとかじゃなければ背中くらい見えそうなものなんだけど」
つい先細歌声が途切れた。
だがタイミング的にそう遠くには行けないはずだ。
近くには誰もいない。
他に目につくのは広場の中央部、堀から導水している水路と小さな噴水、それにその周囲のベンチくらい。
見回りの最中なのだろうか、城壁の上に衛兵の姿さえ見えぬ。
いったいどこに行ったのだろう。
いったいどこに消えたのだろう。
その謎の歌い手は、一体何者なのだろうか。
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