第636話 (第十二章最終話)まどろみの中で

ミエにとって風呂とは浸かるものであり、湯船に入って疲れを取りリラックスするためのものだ。

だがこの世界に…というか少なくともこの地方の者にとって風呂とは汚れを洗い流すためのものであって、疲れを取るためのものではない。


それは両者の生活域の気候の差に起因している。

ミエがかつて住んでいた地域は夏は高温多湿、冬は寒冷乾燥と寒暖の差が激しく、夏は掻いた汗を洗い流す為、冬は暖を取るために風呂を重宝していた。

そのため湯船につかりゆったりとする、という文化が育まれ発展していったのだ。


だがこの地方はそもそもが冷涼で、農作業のように激しく体を動かしでもしない限り滅多に汗もかかぬ。

汗を掻かないから風呂にもあまり入らない。


実際この世界、庶民であれば王都の住人でさえ風呂に入るのは一週間に一度がせいぜいで、田舎村であれば一か月に一度程度しか風呂を使わない事も珍しくない。


これは風呂が基本公衆浴場であり有料であるためそもそも頻繁に利用できないという事と、田舎の場合そもそもが村に風呂設備を積んだ移動式公衆浴場…いわゆる『風呂屋』が頻繁に来てくれないというのもある。


銭湯に行けないなら家で風呂に入ればいいのに…となるが、残念ながらそれは不可能だ。

なぜならこの世界ではそれぞれの家庭内に風呂場…いわゆる『内風呂』が存在しないからである。


そもそも頻繁に入るものではないし(この世界の者にとっては、だが)、風呂場を作るとなると設備に色々と金がかかる。

なにより自宅まで大量の水を運んで暖める作業が面倒だし、使い終わったら使い終わったで下に零れた水を排水する手段がない。

それなら定期的に公衆浴場へ行く方が遥かに楽だし安上がりではないか、ということになる。


王侯貴族であれば浴場を私有していてもおかしくないが、それも川のすぐ近くの離れだったりすることが多い。

城の規模や構造によっては普通に庭で放水樹ツフヨル・スルーと水桶で湯を使うことも珍しくないのだ。


それをこの街はこともなげに屋内に設置している。

それも蛇口をひねるだけでお湯が出てくるという優れものだ。

またそのお湯も放水樹ツフヨル・スルーのような太いお湯の流れがちょとちょとよ数条落ちる、と言った類ものではなく、細いお湯の束が大量に放出され身体を洗うようになっている。

驚異の技術である。


「とするとこの凹みは…水桶の代わりですか?」

「桶? そうですねー。これはこうしてお湯を入れて湯船につかるためのもので…」

「「「……?」」」


ミエが脇にある蛇口をひねりその凹みにお湯を流し入れてゆく。

そう、それはミエにとってはごく当たり前の…だがこの世界の者にとってはそうではない施設。

『浴槽』であった。


「え? なにか変ですかね。湯船につかるってずっと以前から夢だったんですけど…」

「そうなんですか?」


エィレがや怪訝そうな声を上げるがそれも無理はない。

彼らにとって風呂はあくまで『身体を洗うもの』であって湯船につかってリラックスするという目的はほとんどないのである。


「お風呂の説明については以上ですー。次は…ああそうだ冷蔵庫がありましたね…」


自分の渾身のアイデアの反応が微妙な事にやや残念そうにミエが次の話題に移る。

まあミエにとっては内風呂はこちらの世界に来てからずっとの夢で、ただ完成系を知ってはいてもそこに至る技術がまるで足りず、間に合わせとしてサウナを普及させたというこれまでの経緯があるので彼女が興奮するのは仕方ないことなのだろうけれど。


「だいたい以上がこのお屋敷の説明です。わからないことがあれば応接室の棚にマニュアルがあるのでご参考にしてください。お食事は先ほどの帳簿に書いて提出していただければこちらに入用なものを届ける事も出来ますが、市場などで買っていただいても結構です。何かご質問はありますか?」

「質問…」


エィレも騎士達も聞きたいことは幾らでもあった。

なんでこの街はこれほど発展しているのか。

なぜこれほど進んだ文化を手にできたのか。

この街の目的は?

なぜオークが?


だがそれは今すべきではない。

エィレはそう判断した。


エィレは外交官であって、そうした事は今後自分の手で調べ、知ってゆかねばならぬ。

今質問するのはこの大使館に関する事。

そして聞くべきことは一通り聞いたはずだ。


「大丈夫です。問題ありません」

「そうですか。それではだいぶ夜も更けてきましたし、私はそろそろおいとましますね」

「あ、女性の一人歩きは危険です。私たちがお送りしましょう」


騎士の一人、キジノが声をかける。


「ありがとうございます。では街道までご一緒しましょうか」


笑顔でそう呟い我ミエは、そのまま己に声をかけた騎士の前までやってきて右手をそっと前に差し出した。


「ではエスコートをお願いしますね?」

「は、はいっ!」


思わず舞い上がってその手を取る騎士キジノ。

他三人がなんとも羨ましそうな顔でそれを見ている。


計算づくなのかそれども超のつく天然なのか、或いはその両方なのか。

ミエの周りで心なしかはしゃいで見える騎士達を見送りながら、エィレは小さくため息をついた。


「お嬢様、お食事はいかがいたしましょうか」

「今日はもう遅いですから明日にしましょう。大丈夫です、長旅の疲れのせいかあまり空腹を覚えません」

「承知いたしました。ですがくれぐれも無理をなさらぬよう」

「わかっています」


おつきのじいやを下がらせてから、少し己の額を抑える。

じいやを騙したようで気が引けたのだ。


長旅の疲労で腹が減っていないなどと大嘘である。

実際にはミエに遅めの昼餉を出されたせいなのだ。


それどころかミエはあの後も何くれとなく街の名産をエィレに紹介しては味見させ、彼女はすっかり満腹になってしまっていた。

ただそうした間食は王族としてと見做される傾向があり、エィレとしては正直に告白しづらかったのである。


自室…と先ほど案内された部屋に入り、扉を閉める。

王宮にある己の私室に比べると正直だいぶ手狭だけれど、それでも彼女は些か高揚していた。


今日から新しい街での暮らしが始まるのだ。

外交官としての役目を果たさなければならないけれど、それでも新しい環境で新しい生活が始まるのである。

エィレはそれが楽しみでならなかった。


この街はきっと面白い。

そんな確信に近い想いがエィレにはある。


ミエの説明を聞いただけでも面白かったし、見たい場所はいっぱいあるし、なによりクラスクもミエもいる!


「明日…あしたのよてい、は……」


ベッドの上でそう呟きながらまぶたがゆっくりと重くなってゆく。






新たな生活に相応しい新たな門出は…

こうして、疲労の中ベッドの中で終わった。






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