第635話 アルザス王国大使館
「こちらの箱の中に
「あ、はい」
「一応貴重なものなのでこの大使館街から持ち出せないようにセキュリティを敷いています。うっかり携帯したまま外に出ないようお気を付けくださいね」
「わかりました」
「備品帳にはその他足りなくなったものがあったらつどつど記帳してください。可能な限りご要望にはお応えします。それが外交上必要なものであれば費用はこちらで負担致しますので」
「そんな…そこまでしていただかなくても…」
外交官には国から外交費が支給される。
わざわざそんなことをしてもらわなくとも必要なものは買い揃えられるはずだ。
「まあまあ。うちにも交際費がありますから…」
そう言いながら
「こちらが外交官の生活スペースになります。本当なら住む場所は別にした方がいいんでしょうけど…うちの街はほらあまりスペースがなくって」
「気になさらないでください。私は大丈夫ですから」
「それは助かります! ささ、皆さんもどうぞどうぞ」
ミエに手招きされて一同がその後に続く。
「こちらお姫様のご寝所。私室ですね。流石に王宮に比べると狭いかもですが…」
「大丈夫です。問題ありません」
確かに彼女の王宮での私室に比べたらだいぶ手狭ではあるけれど、流石にそこまで文句を言ってはいられない。
「こちらがお客様用の寝室。王国から客人がやって来たときや他の国の大使をお泊めしたりする時にお使いください。お付きの方がこちらの邸宅に一緒に住まわれるとするなら普段はここで寝泊まりすることになると思います」
「承知いたしました。ご配慮痛み入ります」
エィレのお付きであるエズソムエムズが深々と頭を下げた。
「でこちらが台所ですね。熱コンロも備え付けてありますから
熱コンロに
「…できますので、コスパを考えるなら自炊なさるのもいいかもですね」
「まあ、こちらにもコンロがあるのですね、助かります」
わあ、と手を合わせて喜ぶエィレ。
「…あら? どうしました皆さん?」
「あー…それたぶんさっきの私の反応と同じやつです」
「あー」
エィレにとっては居館にてミエから教わった既知の事ではあるけれど、騎士達やじいやにとっては
彼らからすればなぜ竈もない暖炉もないどころか炎のひとつも出てないところで水が沸騰するのかもわからなければ上部が棚になっていて水を貯めこむ場所などどこにもないのに水がドバドバ出るのかもまったく理解できないのだ。
「…ミエさんミエさん、これマンションに置いてきた騎士の方々も同じことやってるんでしょうか」
「あー,管理人さんから部屋の使い方教わったらこんな顔してるかもですねえ。まあ管理人さんの方は慣れてるでしょうけど」
ふむふむ、と顔を見合わせたミエとエィレは互いに勢いよく頷くと(素早くコンロの火を消して)廊下に飛び出した。
「ミエさん! あれ! あれはどこに!」
「廊下の奥! 奥です!」
そして廊下の奥の扉を開けた二人の前には…
「というわけでお付きの爺やさん、騎士の皆さん、こちらが水洗トイレになりますー!」
「用を足した後はこちらの紙で拭いて、こちらの紐を引いて水を流してくださいね!」
トイレがあって、騎士達をさらに驚かせたのだった。
「…というかミエさん、皆さん私たちが降りてくるまであのお城のおトイレ使わなかったんでしょうか」
「各階に備え付けられてるはずなんですけどねえ」
使用法を知らぬまま水洗トイレを使った場合の過ちについてエィレは一瞬嫌な予感がしたけれど、あえて触れないことにした。
どう転んでも下品な話にしかならなそうだったからである。
「ええと基本的なこのお屋敷の使い方は応接間の書棚にマニュアルがあるので読んでいただくとして…あとはお風呂くらいですかねえ」
「「「おふろ?」」」
「はい。内風呂です」
ミエが明けた扉はトイレの隣。
そこは密閉された部屋だった。
全体的に石製で、床はややざらついている。
そお床の一部が細長く凹んでいて、人間一人が足を伸ばして座り込み肩が出る程度の深さとなっていた。
その凹みの内側は石が奇麗に磨かれており、かなりつやつやのすべすべだ。
そしてその凹みの下には小さな穴が空いており、床の上にはその穴をふさぐ蓋らしきものが置かれている。
そしてその凹みに水を灌ぐ蛇口のようなものがその横に付いていた。
壁も一面石製で、奥の方に小さな窓があるけれど、ただ壁の一部分に奇妙なものがあった。
それは壁から突き出た逆円錐形で、人間の手のひらほどの大きさのをしており、小さな穴が無数に空いている。
そしてさらにその横には蛇口がついていた。
いったいこの部屋は何なのだろうか。
「ええっとですね、ここにさっきの
ミエがすすす、と横に大きく身を避けさながら壁際の蛇口をひねる。
すると先ほどの小さな穴が空いた突起物からぷしゃあ…と大量の水が線条となって放出された。
「これは…!」
「身体を洗うためのものですね。ここのつまみで温度を調整できます。ほら!」
床に飛び散る水滴から湯気が溢れ立ち上ってゆく。
部屋から少し距離を開けたエィレ達にもその熱気が伝わってきた。
これはつまり身体を洗うための洗浄器具だ。
エィレはミエから昼に聞いた言葉を思い出していた。
身体の抵抗力を上げる『栄養』、そして『清潔』と『衛生』が病気から身を護る大切な手段なのだと。
そしてこの街はその手段をそれぞれの家に個別に設置する事で実現しようとしているのだ。
「これはなんというものですか?」
「シャワーですね」
「シャワー!」
エィレは驚いているけれど、実はこの世界にも似たようなものはある。
大都市であれば固定の、田舎であれば移動式の公衆浴場があり、そこには一本足のテーブルを縦に伸ばしたような柱が備え付けられている。
これを『
湯口の下には木桶が置かれ、人々はそこに入ってお湯を浴び、体を洗う。
ただし下水技術が発達していないため、排水は直接桶から行われる。
そのため設置場所が川辺に限られるのが難点だ。
王侯貴族の場合などでも基本は同じである。
お湯をかける専用の部屋、或いは小屋を設けている事もあるが、そうでなくば城の外でお湯を浴び、体を洗ってゆ桶の水はそのまま近くの川に捨てる。
ミエの感覚からするとだいぶ不便に感じるが、現地の者にとってはさほどでもない。
それはそもそも『風呂』という概念に関してミエと彼らの感覚が根本的に異なっていからだ。
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