第626話 病原菌

「水洗……水洗?」


混乱しながら目をぐるぐる回すエィレ。

だって言われた通り紐を引っ張ったら突然トイレの内側に水が流れ出て全部奇麗に洗い流してしまったのだ。

それはまあ初めて見たら驚き慌てるというものだろう。


「とりあえずおトイレに行ったら手を洗いましょう」

「は、はい」


言われるがままにキッチンに案内される。

先ほどミエが野菜を刻んでいたところだ。

その横に石片が整然と組まれた方形に凹んだ部分があり、下に小さな穴が空いている。

いわゆる流し台である。


それはまあいい。

大規模なお城や教会ならあってもおかしくはない。

ただだとするなら水桶やたらいはどこにあるのだろう。


「ここをこうしてですねー…」

「!?」


流し台の上部…奥の壁の方から突き出た奇妙な管があった。

金属製で手前の方に伸びてきているが途中で下に曲がっている。

その奇妙な管の上の方に付いている小さな輪っか…ハンドルをミエが回すと…


その管から水が流れて落ちた。


「水!?」


ぎょっとして思わず上を仰ぎ見る。

台所の上に水桶があってそこから水を流しているのかと思ったからだ。

だがそんなものはどこにもなく、そして水はとめどなく流れ続けている。


「え? え?」

「とりあえず手を洗っちゃいましょう。はい石鹸はこちら」

「あ、ありがとうございますっ」


言われるがままに手を洗う。

その後ミエがそのハンドルをキュッと締めると水の流れはぴたりと止まった。


「今のは…ええっと…?」

「はい。こちらが。さっきお手洗いで使われてたのがですね」

「スイドウ…?」


わけのわからぬまま鸚鵡返しに聞き返す。

この街には驚異が山のようにあって、それを次から次へと目の当たりにしてエィレは息をつく暇もなかった。


「はいー。簡単に言うと水が通る管ですね。鉄パイプを地下に敷設して造ります」

「水を? 管で?」

「はい! ドワーフの職人さんたちが鉄の筒を大量生産してですねー、ノームの錬金術師さん達がそれにメッキを施しまして、それに天翼族ユームズの聖職者さん達が〈保存ミューセプロトルヴ〉の魔術を付与してくれます。これで最低五十年は腐食のふの字もない鉄パイプの完成です! これを地下に通してその中に水を流せばこうしてここまで水が運べるでしょう?」


ちなみに鉄パイプの地下への敷設作業は本来結構な難事なのだけれど、ことこの街に於いては話が別である。

市が誇る宮廷魔導師が呪文一つ唱えれば地面は簡単に泥と化し、そこに新たな鉄パイプを沈めて元々埋めてあったパイプにはめ込むだけで済む。

あとは完成後に泥を再び土に戻して埋め直し、パイプの中の泥を全て水で洗い流してしまえばよい。


もっとも面倒な土木工事の部分こそ、この街の宮廷魔導師長の最も得意とする分野なのだ。


「すごい…!」


確かにすごい。

すごいけどエィレは随分と手間のかかることをするものだ、とも思った。

だって水なんて川で汲んでくればいいではないか。


彼女の発想はこの時代の者としては間違っていないし、王家の娘としては実に正しい。

水をなみなみと湛えた桶はだいぶんに重いし、冬場などは相当に冷えるだろうけれど、エィレからすれば本人が運ぶわけではないから実感が湧かぬのだ。


「なんでそんな手間をかけてまで水を引こうとするのか疑問ですか? 女中の仕事が減るだけだって?」

「あいえ、そういうわけでは…!」


エィレはこの城に案内されてからずっと不思議に感じていたことがあった。

兵士はたくさんいる。

仕事をしている者も多くいる。


だが下働きというか…メイドやそれに類する者をこの城では全然見かけない。

規模が小さくて必要ないのかもしれないけれど、それならば水は全部自分達で運ばねばならぬ。

それなら確かにこうした手間をかけて水を運んで来る価値はあるのかもしれない。

どういう技術でそれを実現させているのかエィレにはさっぱりわからなかったけれど。


「ん-っとですね、水道の必要性の話をするためにはまず衛生の話をしなければなりません」

「衛生?」

「はい。これはこの街の考え方なので信じるかどうかはエィレちゃん次第なんですが…」


などと前置きしながらミエが話し始める。


「私たちにはまず具合が悪くなったり病気になったりする原因はである、という考えが基本にあります」

「病原…菌?」

「はい。目に見えないほど小さくて、体の中に入るとどんどん増えて身体を攻撃する…まあ単純化するなら『悪い子』ですね。この悪い子に体の中で暴れられると身体は調子が悪くなります。これが病気、という考え方ですね」

「!!」


そんなものが本当にいるとしたらなんとも恐ろしい話である。

エィレは想像力逞しく恐ろしい病魔のイメージを脳内に投影し背筋を凍らせた。


「その病原菌っていうのはどこにいるんですか?」

「いい質問ですねー。病原菌はいたるところにいます。病気の人の体内にはもちろんですが地面にいたりドアノブについてたり雑巾に付着してたり空気中を漂ったりします…ああ口は塞がなくて大丈夫ですよ。普通口を開けたくらいで空気感染なんかしませんから」


ミエの台詞を真に受けて慌てて口を閉じ両手で覆ごうとしたエィレにミエがくすくすと笑って安心させる。


「しないんですか?!」

「するかもしれませんがひどいことにはあんまりなりません。数が少ないですからね。人間…というか生き物の身体にはそういった自分達に悪いことをしようとする相手から身を守るためのがあって、数が少なければ相手が入り込まないように事前に防いだり、あるいは入って来てもやっつけたり追い出したりできるんです。この『準備するちから』…抵抗力って言うんですけど…は年齢とか栄養状態によっても変わってきますけどね」

「じゃあ数が多いと危ない…」

「ですねー。それだけ身体の中に入りやすくなるわけですし体内で繁殖もしやすくなるってことですから」


ミエの説明は初めて聞く内容ばかりだったけれどずいぶんと具体的で、耳を傾けていたエィレにも納得できるものだった。

なんというか落ち着いて考えれば至極もっともな、ただのでっち上げではない何かを感じるのだ。


「感染の種類も色々あります。病原菌を体内に持ってる虫や獣に噛まれたりだとか

、さっき言ってたみたいに空気中をただよっているものが口に入ったりだとか、腐った食べ物を食べたりだとか…ただ感染する要因は幾つもありますが感染のは限られています。基本的には『傷口から感染する』か、『口から感染する』ですね。人の身体が外部に向かって開いている場所は多くないので」

「ああ……」


言われてみればその通りである。

病気の原因が病原菌という者達で、彼らが体内に入って仲間を増やして悪さをするというのなら体内に入るためのルートがあるはずだ。

そのルートとして傷口や口や鼻の穴は確かに適してるように思える。


「でもこの感染が結構簡単に起きちゃうんですよ」

「え…? でもさっき空気中を漂ってるものから感染する事はあまりないって言いましたよね?」

「はい」

「腐ったものは食べなければいいし、虫とかがいる場所には近寄らないようにして…ええっと病気の人のくしゃみや咳も気を付けた方がいい…?」

「飛沫感染ですね! はいもちろんそれも大事です!」


ミエはエィレの頭の回転の速さに感心する。


「他に…他に気を付けた方がいいことは…」

「そうですねー。食事後すぐのエィレちゃんにこういうこと言うのはちょっと失礼なのかもしれませんが、例えばおなかの調子を崩して下痢になった人の排泄物には下痢の原因になった病原菌がうようよいます。これはわかりますよね?」


ミエの説明を聞いてエィレは腕を組んで首を傾けた。


病原菌が身体の中に入っていっぱい増えて悪さをする。

その結果下痢になる。

お腹が痛いなら増えているのはお腹なのだろう。

そういう人が排泄をしたら確かにそこには病原菌がうようよいそうだ。

エィレは思索の末に納得して頷いた。




ただ…彼女の想像力では増えてもせいぜい数十匹とか数百匹とか、そんなものである。

まさかに半日で数千万匹に増殖するなどとは考えも及ばない。





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