第625話 不浄

「さてこのお肉を焼いた熱がどこから出てきたのか、でしたっけ?」


エィレが直接そう口にしたわけではなかったけれど、聞きたかった事自体はまさにそれだったのでこくこくこくと幾度も頷く。


「ええっとですね、フライパンを熱したのがこの熱コンロですね。でこっちの箱が冷蔵庫です」

「ネツコンロ…レイゾウコ……??」


言われただけでは何が何だかさっぱりわからない。

エィレはミエが話した言葉をただ鸚鵡返しに繰り返した。


「冷蔵庫は熱の移動を行う魔具ですね。中に入れたものの熱を外のこの蓄熱池エガナレシルに移し替えます」

「熱を…移動……」


んん~~~~?

脳内でその箱の中をイメージしつつ考える。


「あの黒いやつに熱が移動するんだから…中のものが冷える? それでジュースやケーキが冷たかった?」

「はい! 大変よくできました!」


手を合わせぱあああああと顔を輝かせたミエが、そのまま身を乗り出してエィレの頭を撫でる。


「えらいえらい。よしよしよし」


ぼんっと顔を赤熱させ固まるエィレ。

ハッと気づいて手を引っ込めるミエ。


「ごめんなさい! ついいつものクセで! 以後気を付けますね!」

「あ、いえ! 別にイヤではなくって、その…」


『もっと…』と言いかけたその語尾はみるみる小さくなってミエには届かなかった。

だがいつもの癖という事は彼女は普段からこんなことをしているのだろうか。

エィレはこの街に昔から住んでいない己を少し恨めしく思った。


「ともかく大正解です! すぐにたどり着ける人はなかなかいないんですよねー。エィレちゃんは頭の回転が速いですね」

「そ、そうなんですか?」


フライパンが火によって熱せられると熱くなり、火を消して放置しておくと冷める。

こうした事には大概の人はすぐに気づく。


だが実際には個体・液体・気体とさまざまなもの同士で熱のやり取りが行われ、熱を伝えあっている。

これが熱伝導である。


同じ物質内でなく他のものとの関係性で熱伝導…いわゆる熱のが行われているとイメージするのはこの世界、この時代ではなかなかに難しい。

少しのヒントでそれが納得できたエィレは相当に賢いようだ。

ミエは目の前の少女に瞠目した。


(さっすが王家の娘さん……すごいですねー…あとかわいい!)


少々雑念があるようだが、ミエは目の前の少女の才を冷静に分析する。

まあ実際の熱伝導は熱の高い方から低い方へと移るのが基本であって、この冷蔵庫のように常温のものから熱を奪って冷やし、奪った熱を貯めておくことなどそうそうできる事ではないのだけれど、そこは魔術の為せる業である。


「さてエィレちゃんの言う通り冷蔵庫の中のものは熱を奪われて冷やされます。奪った熱はこの蓄熱池エガナレシルに蓄積されます。なら貯まったその熱を使って……」


ミエは立ち上がると背後の竈の上に置かれた熱コンロをひょいと持ち上げテーブルの上に置く。

そしてコンロの脇にあるレバーを倒した。

さきほどはミエの背に隠れてよく見えなかったけれど、どうやらそのレバーを倒すと中央にはめ込まれた蓄熱池エガナレシルを強く締め付けるようだ。


そしてその上に置かれたフライパンからもうもうと白い煙が噴き出てくる。


「こうしてフライパンや鍋なんかを熱することができるのでお料理なんかの役に立つわけですねー…ってあらあら、フライパンが焦げちゃいますね」


レバーを戻し、濡れた台拭きでフライパンの柄を掴み厨房の奥へと持ってゆく。


「他に何か聞きたいことはありますかー?」

「あの、えっと…」


聞きたいことがありすぎて逆に言葉に詰まる。

少々どころではないカルチャーショックを受けたのだ。


だがを食事をしたことで今度はまた別の事が気になってきた。

入るものがあれば出るものがある。

当然の帰結である。



ただ……憧れている相手にはとても聞きづらい質問でもある。



「あの、その、えっと…」

「はい?」

「ええっと…だから…」

「はい」


こういうしどろもどろな反応をしたらどんくさい娘を想われてしまうんじゃないかしら。

エィレはそれが恥ずかしくって情けなくってたまらなかったけれど、それでもどうしても口には出しにくい。


「ですから…そのー…」

「お手洗いですか?」

「~~~~~~~~~~~~~っ!!」


真っ赤になってびくりと身を竦める。

自分から言い出せなかった上にものの見事に当てられてしまった。

なんともみっともないことこの上ない。

エィレはしゅんと縮こまってしまう。


「年頃ですから気にするのはわかりますけど生理現象なんですから恥ずかしがらなくてもいいんですよー」


(優しい…)


彼女の理想像…というより、彼女の理想像の原型となった女性そのもの…な相手からの気遣う言葉が傷心の彼女の身に染みる。

まああばたもえくぼ、というわけでもないのだろうが、今のエィレにとってミエの言葉はそれが喩えどんなものであっても全て素晴らしい発言に聞こえてしまうのだろうけれど。


「お手洗いならこっちです。はい」

「あ、ありがとうございます!」

「用が済んだらそれでキレイにしてください。あと最後にはこの紐を引っ張って」

「? ……はい」


言われるがままに頷いて扉を閉める。

白くて清潔そうなトイレだ。

座ってみると思った以上に座り心地がよい。

どうも陶器でできているようだがこれでいったいどうやってのだろうか。


この世界、この時代のトイレは基本運搬式であって、を捨てて再び元の場所に戻すのが普通である。

ただし衛生観念が発達していないため、捨てる場所はよくて川、酷い場合だと家の前の庭園などにそのまま廃棄されるし、場合によっては汚れたトイレごと放り捨てられることすらある。

高級トイレなどであれば排泄物だけを捨てられるよう、トイレの下部に引き出しのようなものが付いていることもあるのだが、どうやらそうでもなさそうだ。


エィレはそんなことを考えながら用を足して……


どんどんどん!

どんどんどん!


「あら、なんでしょうか」


そして、トイレの中から盛大なノックの音がした。


「もしもし? 何かうちのトイレに問題が?」

「拭くものが! 吹くものがなくって!」

「? さっきそれで拭いてくださいって言ったじゃないですか」

「まちがってます! まちがってます! だってこれ紙……!」

「はい。

「ッ!?」


扉越しのミエの言葉にショックのあまり凡そ王族にあるまじき表情を浮かべてしまうエィレ。


まあそれはそうだろう。

通常トイレで用を足した場合長い布などで拭くのがこの世界の常識である。

王侯貴族の場合は絹などの高級な素材を用い、庶民の場合はより質の悪いぼろきれなどを使う、

貧しい者の場合最悪場合素手で拭く場合すらあるのだ。


ともあれそういう文化のところに突然紙ときた。

紙とは当時非常に高価なもので、特にそのトイレの脇に置かれた箱の中にあるような獣皮紙でないタイプの紙は非常に希少であった。

エィレがそれをと認識できなかったのも当然と言えよう。


「大丈夫ですよ。そこまで高いものじゃないですし」

「紙なのに!?」

「はい。なので気にしないで使っちゃってください」


ミエの声が扉の前から去り、エィレは再びそのトイレの中で硬直した。


紙……紙である。


確かに布は幾度も使うと汚れてしまう。

だから紙で拭いてそのまま捨ててしまうのはとても便利なように思える。


だが紙。

紙である。


(あ、意外と柔らかい…?)


箱の中の紙は方形で、だいたい人の顔程度の大きさがあった。

多少ゴワゴワしているが十分使に耐えそうな出来である。

ふわっふわな柔らかさのロール式のトイレットペーパーまでは流石のミエもまだ用意できなかったようだが、それでもこの世界の住人にとっては十二分な驚きなのだ。


エィレは覚悟を決めてその箱に手を伸ばし、何か書物を冒涜しているような気分になりながらその身を奇麗にして…


そして、ミエに言われた通りに紐を引いた。



数瞬の後、ばたん、と扉が勢いよく開いて、エィレがトイレから飛び出してくる。



「ミ、ミミミミエさん! ミエさんっ!」

「はい、なんでしょう」


あわあわと動転した様子で彼女はトイレの方に向け震える指を差した。


「み、みずっ! 紐をひっぱったら水が! 水がじゃーって!」


ミエはきょとんとした表情でその報告を聞いて、不思議そうに首を傾げる。






「はい。それはもう。ですから」





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