第624話 クラスク市宮廷台所事情
ミエに案内されるまま部屋を出て、そのまま厨房へと案内されるエィレ。
厨房の中にはテーブルがあって、エィレは促されるまま置かれた椅子に座った。
「ごめんなさいねー、もっと上等な机と椅子を用意するべきなんでしょうけどちょっと急造なやつで」
「いえいえそんな! おかまいなく」
謝るミエに慌ててフォローを入れる得エィレ。
わからない。
よくわからないけれど目の前の女性の背中を見ているだけで胸がドキドキする。
エィレは己の胸を抑えながら目の前のエプロンを着ける女性の姿をぼうっと眺めていた。
「ってミエ様が作られるんですか!?」
「様とかつけなくてもいいですよー。はい。うちのお城におつきの料理人はいませんから。だいたい出前でなんとかなりますし、あとはまあ会議の時に手すきの人が作っちゃいますねえ」
ほへー、と感心したような面持ちでミエを見つめるエィレ。
城では料理人が出す食事をいただくのが当たり前となっていて、そのことにあまり疑問を抱いたことはなかった。
王族としては料理は料理人に任せ、料理人に仕事を与える事が仕事なのであって、そういう意味ではエィレの感覚も間違ってはいない。
ただエィレにはミエの言葉はとても新鮮で、学ぶべきものだと感じた。
「エィレちゃん…あらエィレさんの方がいいのかしら。っていうかそもそもエィレって愛称ですよね。ちゃんとお名前で呼んだほうがいい? 外交官なんですし」
「いっ、いえいえ! エィレで結構です! …じゃなくて問題ありません!!」
妙に上がってしまい妙な言い回しをして赤面してしまう。
いったい自分はどうしてしまったのだろう。
「なら遠慮なくエィレちゃんで! えーっと法律とかがあるでもないですしその年からお酒も飲めるんでしょうけど、まあ一応ジュースにしときましょうか」
石造りの箱を開けて何やら物色していた太守夫人は、その箱の中から紫色の液体の入った瓶を取り出しガラスの杯に注いだ。
「はい、どうぞ」
「あ、御丁寧にありがとうございますっ」
どぎまぎしながら返事をして、テーブルに置かれたグラスを手に取って驚いた。
「すごい奇麗…冷たっ!?」
王国でも滅多にお目にかかれない美しいガラスの杯。
そこに注がれた紫の液体は葡萄のジュースで…そしてとても冷えていた。
「まだ春先ですけど今日は風も穏やかで日差しも強かったですからこの街に来るまでにちょっと汗掻いたんじゃないですか? それならお冷たい飲み物がいいかなって」
「そ、それは御丁寧にどうもっ!」
お礼を言いつつ己の手の内にある杯をまじまじと見つめる。
透明なガラスの杯になみなみとジュースが注がれていた。
素晴らしい透明度。
美しい造形。
アルザス王国の王宮に納入されているような見事な出来栄えだ。
そして飲み物。
葡萄のジュースだと言っていた。
フレッシュで酸味もあってとても美味しい…のも驚きだが、それより驚嘆したのはその冷たさだ。
箱の中から出しただけにしか見えないのにこの冷えようはなんだろうか。
「………………?」
首を捻っている視界の端でミエが妙な事をはじめて、エィレは思わずそれを目で追ってしまう。
彼女は先ほどの箱の横にはめ込まれていた手のひらサイズの六角形の突起物を引き抜くと、同様の形状の別のものに付け替えた。
そして取り外したそれを厨房の奥の竈の上に置かれた何かの台…幅は上腕ほど、高さは拳ほどの横広の台座のようなもの…にはめ込んだ。
彼女はその上にフライパンを乗せ先ほどの台の横にあるレバーを傾けたあと、しばらく様子を見守って牛脂を乗せる。
するとジュワっと音がしてパチパチと油がはぜる音がした。
エィレはぎょっとした。
フライパンは竈の上の台に置かれている。
置き場所としては正しい。
だが下の竈には火が炊かれていないどころか薪すら入っていない。
ならあのフライパンの熱はいったいどこから出ているのだろうか。
「? どうしました?」
「あ、あの、その…えっ?」
「あー…もしかして珍しいですか? これ」
ぶんぶんぶん、と首を幾度も縦に振るエィレ。
「ちょっと待っててくださいね。お肉が焦げちゃいますから」
「あ、は、はい! お邪魔してすいません!」
何度目かの謝罪の言葉を放ち赤面するエィレ。
その間にミエは手早く野菜を刻みながら焼き音を立てる肉の横でスープを暖め始めた。
そして肉を手早く皿の上に乗せると、残った肉汁をベースにさっとソースを作り、肉の上にかけた。
「はいどうぞ。あり合わせで大したものではありませんけど…」
ミエが用意したのは肉料理。
いわゆる牛ステーキである。
「長旅で疲れたでしょう。ささ。冷めないうちにどうぞー」
「で、ではいただきます…」
実は時間的には街の手前で昼餉にするタイミングだったのだけれど、もう少し急げば街に着くと聞いて食事を摂らずにクラスク市へと直行してきたためエィレはだいぶお腹がすいていた。
お昼からステーキはずいぶんなボリュームだけれど、エィレは若いので大して気にもせずフォークとナイフで優雅に肉を切り分け口に運んだ。
「~~~~~~おいしい!」
「あら、お口に合ったのならよかったです!」
眼の色を変えてエィレが快哉を叫び、ミエが嬉しそうに手を合わせた。
美味しい。
掛け値なしに美味しい。
柔らかく簡単に噛み切れる厚手の肉。
噛みしめるごとに溢れる肉汁。
味の染みたソース。
そしてなんとも刺激的な味わい。
「これは…香辛料?」
「はい。コショウですね。ソースには唐辛子も少々」
「そんな高価なものを…!」
香辛料は肉の味を引き締めるため重宝されるがとにかく高い。
別に香辛料=高価、というわけではないのだけれど、アルザス王国は内陸の大盆地帯であり、気候は乾燥気味でかつ冷涼である。
熱帯で育つコショウなどが育成できる環境ではないのである。
育成できぬとなれば輸入するしかないのだけれど、ここは内陸の奥地で海から遠く、どうしても輸送費が余分にかかってしまう。
隊商どもが大儲けを画策しなくとも、単純に輸送費の上乗せ分で値段が吊り上がってしまうのだ。
「いえいえそんな。高価ってほどでも。この街産ですし」
「はい!?」
エィレは己の耳がおかしくなったのかと思わず聞き直してしまった。
この地方で香辛料が育つなど王家専属の家庭教師からも聞いたことがない。
「あー、えっと、この街の西側に試験農場がありまして、現在そこが温帯から熱帯の気候に調整されてるんですね。でこの地方でどれだけものが育つか調査中で…ここに置かれてる香辛料はその実験結果の一つといいますか」
「? ??」
熱帯に? 調整?
なにかよくわからぬ単語が聞こえた気がした。
ともあれ肉もソースも付け合わせの野菜も絶品で、エィレは瞬く間に皿の上のものを全て平らげてしまう。
「あらあら健啖家ですねえ」
「うう、すいませんがっつくような真似をしてしまって…」
どうしてこの女性の前だとこれほど失態を重ねてしまうのだろうか。
エィレは穴があったら入りたい風情で肩をすぼめ縮こまる。
「そんなに落ち込まないでください。あ、そうだ。それだけ食欲あるならデザートも入りますよね?」
「デザート?」
「はい! ちょっと待っててくださいねー」
ミエは再び先ほどの箱の前にゆき、中から何かを取り出してテーブルに並べた。
「わあ……!」
「
「えーっと、えっと、じゃあ…」
正直どちらも甲乙つけがたく、散々迷った末にレアチーズケーキの方を選ぶエィレ。
見た目、香り、色。
そのケーキのあらゆる要素が少女の食欲を刺激し、心の底から湧き上がる気持ちを抑えきれずフォークでその先端を欠いて口に運んだ。
ひんやりとした触感。
滑らかなくちどけ。
そして舌の上に広がる甘味と酸味。
それは…少女がかつて味わったことのない、まさに至福の味だったのだ。
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