第627話 感染リスク
「はい。そうして下痢をした人でもお手洗いにはいきますよね?」
「人でも…というか、下痢をしたかからトイレに籠るというか…」
「…ですね!」
エィレに言われてミエも改めてそう思った。
説明しやすい病気の一つとして単に下痢を選んだのだが、下痢なのだからトイレに頻繁に入るのはむしろ当たり前の話である。
「はい。では下痢をしたらトイレに行きます。排泄物には病原菌がいっぱいです。ではこの排泄物はどうなりますか?」
「ええっと…」
王宮にあるトイレも基本は設置型のものだ。
エィレは毎日それの中身がなくなっていることを経験で知っている。
ならそれを誰が処理しているのか?
見たことはないがおそらく女中…メイド達だろうか。
つまり毎回中身を捨てて、洗って元の場所に戻している事になる。
「捨てる…?」
「そうですね。どこに捨てますか?」
「どこに…どこに…」
そこらに放り捨てたなら悪臭がするはずだけれど、王宮にはそうした悪臭はあまり感じない。
ミエの知る中世時代の欧州であればそれこそ庭や道端に打ち捨てる事すら珍しくなかったそうでだいぶ悪臭がひどかったというし、その結果として香水などが発達したというけれど、少なくともこの世界ではそうでなないようだ。
これは決して衛生観念が発達しているから、という理由でない。
ひとつにはこの世界では神の声を聞くことができるため、糞尿を近場に放り捨てるのはよくないことだと啓示により知っているからだ。
ただしそれを聞いた聖職者たちはそれがよくないことだとは知ってはいても何故よくないのかまではわからない。
神が啓示にいちいち追加で質問をするような不敬を彼らは犯さないからだ。
そして…この世界に於いてはもう一つ忘れてはならぬ重要な要素がある。
『瘴気』である。
悪臭は人を嫌な気持ちにさせる。
そして人の悪しき感情を魔族が好み、それらが瘴気の温床となることをこの世界の住人は知っている。
結果として瘴気を避けるために人々は近場に排泄物や吐瀉物などを放置する事を避けたわけだ。
そういう意味に於いて、この世界はミエの知っている中世時代よりは衛生観念が多少マシになっていると言えるだろう。
ただ…だからといって彼らにはいわゆる感染症に関する正しい知識があるわけではない。
ゆえにその対処法も場当たり的なものにならざるを得ないのだ。
「えーっと、見たことはないですけど、たぶん川に……」
そう。
庭に捨てられない。
道にも捨てられない。
冷涼な地域では糞尿の発酵も進まず、堆肥として用いるという発想も生まれない。
穴を掘って埋めるにしても限度がある。
となれば目の前から捨て去る一番の方法は…流水に廃棄する事だ。
これは中世世界に於いても多用されていた廃棄方法である。
食べものを料理した際の生ごみや食べかすなども平気で捨てていたし、そもそもトイレを川沿いに設置してそこで直接用を足すことも珍しくなかった。
水利のいい国や地域であれば個々人の家庭の脇に川の支流を通し、そこに張り出すようにトイレを設置することすらあったという。
「そうですね。埋めるにも限界がありますしだいたいは川に流すみたいですね」
ミエはエィレの答えに大きく頷き、けれど人差し指を立てて左右に振った。
「ですが川に捨てたくらいでは病原菌はいなくなりません。川の中をずっと漂ってるわけですね。まあもちろん川には浄化作用がありますから時間をかければある程度奇麗にはなりますが…」
「川の、中を……」
「はい! じゃあその下流で洗濯物をしていたり、手を洗っていたり、食べものを洗っていたりしたらどうなるでしょうか?」
「あ………!」
「さらに家で使うための水をそこで汲んでいたらどうなります?」
「あ、ああ………っ!」
エィレは愕然とした。
そんなことになれば当然汲んだ水に病原菌が入る。
病原菌がわらわらといる水で手を洗えば手に病原菌がつく。
そんな手で料理をすれば食べ物に病原菌がつく。
そしてそんな食べ物を食べれば……体内に病原菌が入る。
恐ろしい程に明確に想像できた
ただ…それについて彼女はひとつの疑問を抱く。
「あ、あのっ!」
「はい、なんでしょう」
「その……私、よくお城を抜け出して街に出るんです。それでお父様にも怒られて…」
「まあお転婆ですね! いいんじゃないですか? 私は好きですよ。少しでも広い世間を知った方が視界も発想も広がりますし」
いけないことだと思っていたのに意外なくらいミエに褒められて思わず赤面するエィレ。
だが聞きたいのはその先の話だ。
「街の人たちがよく病気になったりお腹をこわしたりする理由はわかりました。そういう原因だって言われてみるとすごく合ってる気がします」
小さく息を吸って、まっすぐにミエを見て。
「えも…王家の私たちにはそういう風に日常的に体調を崩したり病で倒れたりすることはほとんどありません。それは何故なんですか?」
その質問にミエは目を瞠った。
彼女の思考の正常さに対してである。
エィレの思考は正しい。
その疑問を持つこと自体がまず素晴らしい。
ただ王侯貴族であれば、その疑問に行きついたところで次に出す結論は大概こうなるはずだ。
『自分達が高貴で至高な存在だから病が寄ってこないのだ』
と。
そうした発想や思考が彼らを増長させてゆく。
そして歪んだ差別意識や差別思想を正当化させ、やがて誤った理論化をしてしまう。
『特権意識』の形成である。
だがエィレはそう考えなかった。
王家の自分と庶民の彼らと、何かの差があって病気にかかりにくいのだと推察した。
それは彼女自身の優れた資質であると同時に、きっとアルザス王家の教育がいいのだろう。
ミエは素直に感心し、そしてこの国の王への評価を上げた。
「そうですねー。原因はいくつか考えられますが、第一に王家の皆さんは井戸を使ってませんか? 井戸水であれば川の水より感染の危険はずっと低いはずです」
「あ、はい! 庭に井戸があります!」
無論街中にも井戸があるが、個人で所有しているのは裕福な家だけだし、街の外縁部…貧しい層の者達の地域には井戸が掘られていないことも多い。
井戸一つ作るにも金と手間がかかるからだ。
それに外縁部は城の周りを流れている川を気軽に利用できる。
そのためますます井戸の需要は下がり、設置数は少なくなる。
エィレはそうした地域ほど病気…疫病などが発生し、また蔓延しやすいことをその若さで既に知っていた。
経験していたからだ。
「さらにこの世k…お城には中にお祈りを捧げる教会があるはずですよね? なら聖職者が〈
「あう……」
「で最後には抵抗力ですかねえ。栄養のあるものをいっぱい食べれば身体は健康になります…まあ食べ過ぎは食べ過ぎであまりよくないですけど…逆に食べるものが少なければ栄養が足りない状態…栄養失調ですね…になっちゃいます。こうした状態ですと身体が本来持っている病原菌に対する抵抗力も弱っちゃいます。そうしたところの差も大きんじゃないですかね」
「~~~~~~~!!」
ミエに言われてエィレは思わず身を固くした。
考えてみればもっともではないか。
自分達は恵まれている。
美味しいものを、栄養あるものを食べ、食事には神の奇跡によって清浄が約束されていた。
けれどそれは経済的に、或いは権力的に恵まれているから得られているものであって、言ってしまえば生まれが良かった、運がよかっただけなのだ。
でもそれなら対策すればいい。
井戸を掘って、川の水をなるべく使わせないようにして、なるべく感染のリスクを減らせばいい。
ならなぜそうしないのだろう。
…そこまで考えて、エィレはハッとした。
するはずがない、と。
彼女にはなぜかそう強く確信できたのだ。
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