第618話 少女の述懐

「はぁ…」


広い広い自室。

庶民の家一軒分より広そうな私室、そのベッドの上で、アルザス王国第四王女エィレッドロは深い深いため息をついていた。


「ふぅ……」


幾ら溜息をついても気分は晴れない。

空一面曇天のような鬱々とした気分が霧散してくれない。

まあ今は夜なので空の色など見えはしないのだけれど。


ただ夜だというのに少女の部屋は割と明るい。

煌々とした燭台によって照らされているからだ。


燭台の火は油で灯る。

油は庶民にとっては高価であり、それゆえ彼らは夜になれば早々に就寝してしまう。

ミエの故郷のように電気が発達している世界でもなければ人間族は基本太陽の動きに合わせて生活するものだ。


そういう意味で少女が仕事もないのにこんな時間まで起きている事自体、彼女が裕福な家の娘であることの証明であろう。

まあ王家の娘なので当然ではあるのだが。


けれどその灯火もまた少女の心を晴らすには至らない。

ベッドの上に寝転がり、溜息一つついてはころんと転がってそのまま寝そべって、さらにもう一つため息をついてはころんと転がる。


ころん。

ころろん。

ころころ、ころん。


さっきからずっとその繰り返しである。


だがこの十数歳の幼い少女の心をこれほど曇らせている難問とは一体何なのだろうか。

普段の彼女であればこういう状態にはほとんどならぬのだが。


なにせ考えるより動くが先。

まず手を動かし足を動かしそこからものを考えるというタイプの行動派である。

王都にやってくるであろうオーク族を自ら出向いて単身見張ってその正体を暴いてやろうだなどとするあたりがまさにそれだ。


ただ彼女の場合いざ動き出した後に考える策や思考自体は割としっかりしているあたりが厄介というか、流石に王家の娘と言えるかもしれない。

なにせ考えなしに行動するだけの娘なら束縛や監視の多い王族の娘が見事王城を抜け出し馬を調達して単独城外に出奔できるはずないのだから。

このあたりのだいぶ国王も頭を悩ませているようで、彼女はよく叱責を受けているようだ。


(そう…今日もいっぱい怒られると思ってた…)


勝手に無許可で城を抜け出して、危険なオークの見張りを独断で行った。

普通に考えれば厳しく叱責されるはずの行状である。

だのに彼女は父王に二、三注意を受けただけですぐに解放された。


事情がいまいち理解できぬ少女は廊下にてよく知る人物に話を聞く。

父王直属の翡翠騎士団団長ヴェヨール・ズリューである。


「それはおそらくあのオークのお陰でしょうね」

「クラスクさまの?」

「…はい」


少女がオーク族を毛嫌いしている事は翡翠騎士団の団員なら誰でも知っている。

彼女は騎士団の訓練場などにちょくちょく顔を出しては練習試合などを熱心に観戦しており、その際彼女の好みや人となりをよく聞き知っているからだ。


ゆえにこそ、その少女が会って二鐘楼(約6時間)も経っていないあのオークに敬称を付けて呼ぶことについてヴェヨールは違和感を覚えた。

一応事情聴取をした限りでは樹上から落ちた彼女をクラスクが助け、そのまま馬に乗せて城に案内しただけのはずなのだが。

いったい二人の間に何があったのだろうか。


まあいかに彼が聡くともあのクラスクがかつて少女を襲った襲撃犯の一人で、その時の潜在的恐怖から来る動悸を彼女が己の恋心と勘違いしている事までは見抜けないだろうが。


それに彼女の想いは今や半分勘違いではなくなりつつあった。

実際現在のクラスクは種族を別にさえすればかなり出来た男なのだから仕方ない。

それが命の恩人でそれも運命の出会いとくれば層倍だろう。


ともあれヴェヨールはエィレに説明する。

クラスクがエィレを褒めた。

お転婆王女のポカではなく、危険かもしれぬオーク族についての監視に単身で赴いた勇気ある娘と評価した。


となると翡翠騎士団側としても国王としても迂闊に彼女を責める事ができぬ。

いや実際には勝手に城を抜け出したお転婆王女の独断による軽挙だったのだ、と客人に対し告げる事ができなくなってしまう。


なにせもしエィレを強く叱責すれば、そしてそれがクラスクの耳に入れば、功績を上げた娘に対しなんという失礼な行為を…国王は人を見る目がないのではないか、などと捉えられかもしれず、交渉の際足元を見られかねないからだ。


言うなればクラスクは先の騎士団とのりとりによってエィレが叱られないよう護っていたのである。


「それって…わかってて…?」

「おそらくは。オーク族と言いますが彼は相当に知恵も気も廻るようです。エィレッドロ様の御身を案じ手を打っていたとて不思議ではありません」


そんなやり取りを、エィレは昼に交わしていた。


「クラスクさま…」


ころんところがりうつ伏せになり、目の前にある枕をぎゅっと抱きしめる。

当初は失われた記憶から来るトラウマによる心臓の動悸だったはずなのに、今の彼女の胸を鳴らしているのは明らかに別のときめきだった。


強くて、優しくて、誠実なひと。


「オークだけど…オークなのに…」


枕を抱く腕の力が強くなり、やがてゆっくりと弱まった。


溜息が深く洩れて枕を湿らせる。

少女はそんな枕を放り出し、ベッドの上で仰向けになった。


彼女をこれほどアンニュイにさせている原因は二つある。

一つは城に入って以降一度も彼に会えていないこと。

そしてもう一つが彼がもう己の街に帰ってしまうことだ。


どうやら彼女の父との面談は首尾よく行ったらしく、この国はアルザス王国と事を構えることなく平和裏に交渉する、という方向性に決まったらしい。

それ自体は喜ばしいことだが…先日までの彼女なら枕を壁に叩きつけて怒りを剥き出しにしていたのだろうけれど…ここから先の交渉は時間がかかるからとクラスクはいったん街に戻ることになったらしい。

なにせ彼は向こうの街の太守である。

こちらに出向いている間に政務も溜まっていることだろう。


ただ…彼がこの城を経つ、ということは彼女にとって今後彼と会う機会が失われてしまう、ということに等しい。


エィレは確かに活動的で行動派だけれど、それでも王族の娘である。

婚姻の相手は政略目的が前提であり、好きな相手と結ばれる事なんてない。

遠からず彼女の嫁ぎ先が政治的に決められて、その後はそちらの城で生涯過ごすことになるだろう。


そうなればもう彼に会う機会はない。

もしやしたらこの城を出立するその時が彼との永遠の別れになるかもしれないのだ。


「好きな、相手……」


小さな声で呟いて、みるみるとその頬を朱に染めてゆく。

そしてころんとベッドの上で転がって、うつ伏せになってシーツにその顔をうずめたままその脚をばたつかせた。


口に出すことでますます強く自覚する。

自分は懸想をしているのだと。

恋をしているのだと。


でもどうしようもない。

なにもできない。


この世界の王侯貴族に恋愛結婚などという概念はない。

いや厳密にはそうした道を選んだ貴族もいるにはいたけれど、それは貴族という立場にある者としての義務違反であり、その後は厳しい処分が待っている。

具体的には王族・貴族としての資格を失ってしまうのだ。

そして同時にそれは一族の恥ともなってしまう。


アルザス王国の成立過程ゆえに発生した王宮内の派閥闘争…各国の代表がひしめきそれぞれの事情で国政に関与せんとする複雑な政治情勢。

いかに国王と言えど配下全ての重臣たちを相手取って己の意見を押し通すことはできぬ。

そんな状況でもし王の娘がそんな恥知らずな行いをすれば、父たる王の施政に悪影響が出てしまう。


子供ながらにそうした政治的な力関係を理解しているエィレは、それゆえにそうした行為に走ることはできぬ。

悪戯やお転婆に枚挙のいとまなく、城から抜け出す常習犯でもある彼女は、けれどそうした理解があるがゆえに一線を越えた暴走は滅多にしない。


確かに王宮の暮らしが退屈で、ちょくちょく城を抜け出してはよく叱られる。

父王都の喧嘩だってしょっちゅうだ。

今朝もしたばかりである。


でもそれはエィレが父の事を嫌っているという事を意味しない。

むしろ大好きだからこそ反発しているのである。


もう少し自分の事を見てほしい。

もう少し構ってほしい。

もう少し自由にさせてほしい。

城のことも、城のそとのこともいっぱい見せてほしい。


だって。

だって。


もう少ししたらきっと自分はどこぞの貴族と婚約し、そのお城で暮らすことになるのだ。

もう好きに父に会うこともできないのだ。

自由なんてないお城の中で一生を過ごすことになるのだ。


だって自分は王族だから。

王の娘だから。


その運命を受け入れます。

その未来には従います。



だから。

だから。



そうなってしまう前に、せめて。

せめて、もう少しだけ…






わがままを。いわせて。






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