第592話 逃れ得ぬつり橋

第四王女エィレッドロ……エィレは、自室で独り悶々としていた。

その理由は当然というかクラスクである。


会ったその日に命を救われ、同じ馬に乗せられ、そしてその鮮やかすぎる剣技を目の当たりにした。

それも国王を護る翡翠騎士団の第一第二騎士、その隊長副隊長四人相手にである。


それは十三歳の少女にはちょっと刺激が強すぎて、思い出すだけで心臓が早鐘のように鳴り響く。


「でも、でもぉー…」


だが少女は未だ躊躇っている。

己の想いに素直になれずにいる。


状況だけ見れば運命の出会いとすら呼べる邂逅であり、恋に恋する年頃である彼女が懸想するに至ってもなんらおかしくないのだけれど、それでも彼女にはそれを躊躇するだけの理由があった。


「なんでオークなのよー!!」


放り投げたぬいぐるみを掴み、びったんびったんとをベッドに叩きつけ、叫ぶ。

そして落ち着いた後再びうさぎのぬいぐるみを抱き上げて、気を落ち着けるように優しくなでつけた。


そうなのだ。

そうなのである。

彼女が運命の出会いと感じた相手は、よりにもよってオークだったのだ。

彼女が大嫌いだったはずのオークの雄だったのである。


「オークなんて大っ嫌い! 大っ嫌い! 大っ嫌い……の、はず、なのに…」


ぼふん、とぬいぐるみを抱いたままベッドに身を投げ出して、今日の出来事を思い返す。

クラスクの事も、他のオーク達の事も。


「なんで……? あんまり、イヤじゃ、ない…」


とくん、とくんと心臓が鳴る。

己の頬に赤みが差してゆくのを感じる。


なぜ会ったばかりの相手がこれほど焦がれるのだろう。

なぜ彼の姿を思い浮かべるだけでこんなにも心臓が早鐘を打つのだろう。


わからない。

わからない。


「ク、クラスク、さま……」


小声で呟いて、すぐに「きゃー!」と黄色い声を上げぬいぐるみの顔をうずめてベッドの上で悶え転がる。

本人は認めたがらぬが、それはどこからどう見ても恋する少女のそれだった。


だが…クラスクが魅力的なのは確かだとしても、確かに会ったばかりにしてはその情動が少々激しすぎる。

彼女はそれほどに惚れっぽい娘なのだろうか。



……アルザス=エィレッドロ第四王女。

国王の子、男三人女四人の中の末っ子で、当然ながら王位継承権はとても低い。

よほどのことがなければ彼女が王位に就くことなどあり得ないだろう。


そんな王族の子の最も有効な使は他国との縁戚関係を築く『外交道具』である。

ゆえに彼女もよく馬車に揺られて隣国へと旅をした。


どこかの国のどこぞの貴族や王族と結ばれて、両国の絆となる。

自分はだと、彼女も理解していた。


別に嫌でも辛くもない。

けれど嬉しくも誇らしくもない。

ただ自分はそういう存在なのだと、当時の少女は己に言い聞かせていたのだ。


その日、彼女はバクラダの有力貴族と歓談した。

外交使節と銘打ってはいたけれど、実質は縁談であった。

秘書官トゥーヴの肝いりでバクラダとの縁戚関係を強化しようと勧められたものだ。


エィレは三十近くも年の離れたその男を自慢話ばかりして中身のない薄っぺらな男だと感じたけれど、それでも王家の娘としての態度を崩したりはしなかった。

ちょくちょく城を抜け出す程度にお転婆ではあったけれど、それでも彼女は己が王族の娘だとしっかり自覚していたからだ。


談笑しながら茶を飲んで。

パーティーで一緒に踊って。

適当に相槌を打って。

それですべて丸く収まるならそれでいいではないか。



そんな一種の諦観で縁談を乗り切った彼女は……

その帰路、森の中で、不意の襲撃を受けた。



オーク族である。

その森に住み着いていたオークどもに襲われたのだ。


護衛の兵士たちがオーク達の襲撃を防いでいる間に馬車を飛ばし、だが別の場所でまたオーク達が襲ってきて、その都度それを受け持つ兵士達が馬車から離れてゆく。

次々と襲い来るオークども相手に兵士はだんだんと目減りしていって、遂に彼女を護る兵士は四人まで減ったところで……遂に本命からの襲撃を受けた。


そのオークどもはたちまち兵士たちを蹴散らして、走る馬の首を斬り落とす。

残った馬はバランスを崩し転倒し、その勢いで馬車が横転。

おつきのじいやが咄嗟に抱きかかえてくれたお陰で大怪我こそしなかったものの、馬車から投げ出され地面に転がり落ちてしまう。



そこで…見た。

仁王立ちになるオークを。


そして聞いたのだ。

その言葉を。


他がオーク語でさっぱり意味がわからなかったけれど、そこだけはなぜか共通語ギンニムで。

だからエィレの耳にもはっきりと聞こえたのだ。


絵本にあったわるいオークの決め台詞。

娘を寝かしつけるための人間族の母親の脅し文句。



『オークの花嫁』



必死に太陽の女神に祈り捧げていた少女はその言葉を聞き、悲鳴を上げてじいやにしがみついて……

そのまま、意識を失った。



その後彼女は高熱にうなされ数日意識不明となって。

次に商業都市ツォモーペで目覚めた時、彼女はその旅の記憶の一切を失っていた。


激しい恐怖が心を壊してしまいかねないという自己防衛本能だろうか。

魔導術や奇跡の御業であればその記憶を取り戻す手助けになったかもしれないが、わざわざ思い出させるのも酷だろうという事であえて治療は行われなかった。


当然ながらバクラダへ行った記憶自体も欠落しており、彼女の記憶が戻らぬようにとその縁談は当人が無自覚のまま破談となって秘書官トゥーヴを無念がらせたものである。



そうして彼女は…オークが嫌いになった。



それまでは単なる『絵物語の悪いやつ』だったのが、明確に嫌悪するようになっていたのである。

記憶は失っていても、なんらかの影響は残っていたのだ。


その時彼女を襲ったオーク……それがクラスクだった。

そう、あの日、あの時彼が襲撃した馬車は王室の馬車で。

そして襲われていたのは彼女、エィレッドロだったのである。



……とまあ、それだけなら大した問題にはならなかった。



そのままであれば、そのエピソードは単なる彼女がオーク嫌いになった理由、というだけで片付けられたはずである。


だが、出会ってしまった。

彼女は己を襲ったその危険極まりない野蛮なオークと再会してしまった。


エィレ自身は忘れていても、その心の奥底ではしっかりと覚えている。


それは危険なオークだ。

兵士たちを殺し、馬の首を跳ね飛ばし、馬車を横倒しにして、エィレを攫ってオークノ子を孕ませようとした悪い悪いオーク、にっくきオークだ。

忘れようはずがない。


だから彼女の心は全力で警鐘を鳴らした。

彼女の不安と恐怖を呼び起こし、心臓を打ち鳴らして危険を知らせた。



……が、



かつて彼女を襲ったオーク……その当のクラスクの様相があまりにも変わり過ぎていたからだ。

オークとは思えぬほどの巨躯となり、腕回りも足回りも当時とは雲泥の差だ。


さらにミエの≪応援≫がなくとも他種族に通用する≪カリスマ≫を備え、そのルックスはオークでありながら人間の娘に熱い吐息を吐かせるほど。


強く引き結ばれた口元。

聞く者の緊張感を解く巧みな話術。

そして強い意思を湛えた静謐な瞳。


そこにいるのはオークでありながらなんとも魅力的な『人物』だったのだ。


その心臓の高鳴りを、失われた記憶が必死に馴らす警鐘を、胸のときめきと勘違いしてしまう。


だが己の命の恩人で、面白い話を身振り手振り交じえながら巧みに語り、威厳がありながら時にコミカルに反応する見ていて飽きない好人物で、彼女が圧倒的と思っていた翡翠の騎士達を簡単にあしらうほどの圧倒的な強さを備えたその男性を前にして胸の動悸が激しくなれば、それを懸想と思い違えてなんの不思議があろうか。



つり橋効果、というものがある。

不安定なつり橋の上で揺られる不安と恐怖を覚えた者が、その情動を近くにいる異性への恋愛感情と勘違いしてしまう、というものだ。


彼女に起きた事象もそれに似ていた。

ただつり橋はその場から動かないため、つり橋効果によって生じた感情は日常に戻ることで減衰し、やがて失われてしまう。

そうなる前に恋愛関係になってしまえばまた話は別だが、基本的には一時的な『気の迷い』に過ぎない。


だが彼女の場合は話が違う。

なぜなら彼女にとってのつり橋がだからだ。


彼を目にするだけで心臓が高鳴る。

彼の事を思い浮かべるだけで鼓動が早くなる。


それは根源的には彼のかつての暴力と威圧によって生じた恐怖を元にしている。

だが今やそんな素振りどころか面影すらない美丈夫となったクラスクを前にそんな状態に陥ることで、彼女は常につり橋の上で揺らされれ続け、その都度彼への想いを募らせてしまう。



そう、それはつり橋。

恋と言う名のつり橋。






クラスクを見るたび想うたびに想い乱れる……魔性のつり橋である。





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