第573話 監視者の正体

一人の少女が林の若木から伸びた枝に腰掛け、眉の上に手をかざして遠くを眺めていた。

年の頃は十二、三歳くらいだろうか。

残念ながら望遠鏡や双眼鏡は携帯していないらしい。


というかそもそもこの世界にはまだレンズが殆ど普及していない。

技術的に実現可能なのだがあまり普及していないのだ。


同様の効果が精霊魔術の〈遠目ウヱフ・サイクレッグ〉のような比較的初歩の魔術によって得られてしまう、というのもある。

需要がないとなかなか発明というのは起こり得ないのである。


少女の服装は真紅を基調としたワンピースタイプのドレスであり、服の造りから腰のあたりがきゅっとくびれている。

体型がもう少し大人びていれば胸が強調されそうな造りだが、残念ながら彼女の体躯は未だ大人の萌芽には至っておらず、その胸部は服の上から僅かに性差を主張するのみだ。


ただ退屈げにゆらゆらと揺らすその身には今にもその場から飛び出しそうな躍動感が満ちており、大人の色気こそないけれど少女独特の豊潤な色香をその身から放っていた。


さらに言えばその服装である。

ひだの付いた柔らかそうな襟といい、袖元を留めている宝石つきのボタンといい、どこからどう見ても庶民のものではない。

明らかに貴族の娘のそれである。


ただ貴族の服にしてはやや短めのスカートをからげて木登りをしている彼女の行動は、どう考えても貴族のそれではない。

そもそもそんなことをすれば彼女の纏っている折角の高級そうなドレスが傷んでしまう。

貴族には貴族にすべき事、いわゆるがあり、そうした行為は通常厳しく諫められているはずだ。


もし彼女がまともな貴族の家の出であるとするなら、相当のお転婆かつ変わり者と言うことになる。


髪は金髪で瞳は澄んだ蒼。

それに関しては下の麦畑で農作業に従事している農家の娘と変わらない。

この地方の一般的な人間族の特徴だ。

いわゆる北方語ミルスフォルムを喋る北方人ミルスフォルムと呼ばれる人種である。


ただその美しさは群を抜いていた。


愛らしくくりくりと動く瞳。

ぷっくりと膨らんだ唇。


活舌のよさそうな張りのある声。

貴族の娘にしてはやや大げさで豊かな表情。


太陽の女神エミュアに照らされ黄金に輝く髪は風にたなびきその艶やかな煌きを空に解き放っている。



そう……その少女はどこからどう見ても、お忍びでお転婆をしている貴族の御令嬢に他ならなかった。



「まったく何やってんのよ……あーまた通り過ぎた!」


…ただ少々口はよろしくない。


「さっきはさっきでせっかく畑に入ったと思ったらなんか農民たちと話し出すし……なーんで暴れないのかしら。オークのくせに。オークのくせにー!」


大事なの事なので二度繰り返す貴族の娘。

どうやら彼女が観察しているのは街道を上ってきているクラスクらオーク騎兵隊であり、その目的は彼らの狼藉を目撃することのようだ。


だがなんとも困ったことにそのオークどもは整然と街道を進んでいる。

生意気にも軍馬を巧みに操って、あまつさえ農民たちに手を振ってすらいる。


「なんでよー! オークのぶんざいでー!」


拳を天に突きあげ不条理な…だが実にもっともな不満をぶち上げる。

これではまるで人気者の騎士団が領地の巡視をしているみたいではないか。


「うそ! ウソ! だってオークだもん! 絶対わるいやつなんだから! あの兜の下でどうやって麦畑を襲おうかとか相談してるに決まってるんだからー!」



…それはそう。



だが一体なぜこの少女はそれほどクラスク達一行に悪行を働いて欲しいのだろう。


…彼女はその格好に似つかわしい高貴な家に生まれた。

幼い頃には(今でも十分に子供だけれど)この世界では珍しい書物による読み聞かせを楽しみにベッドに入ったものだし、絵本すら所有していた。


そんな物語には、『わるいやつ』が登場する。

例えば山賊だったり、竜だったり、魔物だったりと様々だ。



ミエの故郷の昔話と異なるのは、そうした物語のほとんどが脚色されたであり、そうした化物が今も実在している事だろうか。



そしてそんな典型的な悪者の中に……オークがいる。



物語の中のオークは力が強くてがさつで乱暴者。

自分勝手に好き勝手暴れまわる酷いやつだけれど、おつむはちょっと弱い。


その弱点を突かれかしこい勇者や知恵を出し合った少年少女など相手に痛い目を見て退散する。

それが大方の物語のオークの扱いであった。



そして…その少女はそんなオークが大っ嫌いだった。



最初からそうだったわけではないはずなのだが、とにかくいつの頃からかオークが大嫌いになった。

何かのきっかけがあったはずなのだけれど、よく思い出せない。


ともかく少女はオークが嫌いで嫌いで大っ嫌いで、だからこそ国王がなるオークを招くと知った時には激昂したものだった。


なぜ寄りにもよって汚らしい汚らわしいオークを呼び招くのだろう。

ぜったいわるいことをするはずなのに!

ぜったいめいわくをかけるにきまってるのに!


なんで! なんで!


ベッドの中でしばしごろごろと転がり暴れまわった少女は、やがてまなじりを上げてむくりと身を起こした。


自分がなんとかしなければ。

彼らが悪者だというれっきとした証拠を上げて、オークどもが街の中に入り込む前に追い返さなければ。


そうでないときっときっと大変なことになる。

大変なことになるに違いないのだから。



ゆえに彼女はこっそりと城を部屋を抜け出して、気晴らしの散歩と偽ってじいやに頼み込み密かに用意させた馬に跨って城を飛び出して、こうして単騎あくぎゃくひどーなオークどもの素行を暴こうと樹上に隠れ潜んで彼らの動きを瞠っていた、というわけだ。


「? こっち見た? まさかね……」


一瞬視線が合った気がしたけれど、きっと気のせいだろう。

少女は雑にそう片づけて監視を続けた。


だが違う。

先述の通りクラスクらはもう彼女の存在に気付いているし、なんだったらその監視主が前方の森の樹上にいることまで看破していた。

流石にその正体がこんなおしゃまな女の子だとまでは見抜けていないけれど。


ただ……この場合驚くべきことは別にある。


クラスクらは確かに隠れ潜む存在に気づいてはいた。

けれどその隠れている相手に気取られぬよう、警戒されぬよう、何食わぬ顔で会話しながら視線をほんの一瞬その林へと向けただけだ。


だから本来であればその娘が気づくはずはない。

なにせ未だ300ウィールブ(約270m)ほど離れた場所にいるのだ。

兜の内側の一瞬の視線など気づきようがないはずである。


だが少女は確かに一瞬だけ己に対する視線を感じた。

鋭敏な感覚の持ち主なのか、或いは優れた感性を有しているのか。

いずれにせよ気づかれぬよう腐心しているクラスクらの視線をほんのわずかでも感じ取れたのは驚嘆に価すると言っていいだろう。


ただ……もしこれが熟練の冒険者などであったなら、それに気づいた瞬間にすぐに樹から飛び降りて監視対象から距離を開けていたはずだ。

相手に気づかれたというのは隠れている者にとって致命傷になり得る。

それが水の中や樹木の上など、逃げ場のない場所からなら猶更である。


しかも相手は街道沿いにこちらに向かってきているのだ。

相手の視線に気づいた時点で三十六計逃げるにしかず、である。


だが彼女はそうした行動を取らなかった。

取れなかった。


どんなに才能があっても最後に物を言うのは実戦での経験値である。

彼女にはそれが決定的に欠けていたからだ。



「まったくもう……お父様ったらほんっとーにお人よしなんだから! わたしがしっかりあいつらの弱点とか乱暴狼藉の証拠を持ち帰ってあげないと……」



ふんすと鼻息荒く樹上そう呟く少女の父の名は……アルザス=エルスフィル三世。







少女の名はエィレッドロ。

後に数奇な人生を歩むことになる……アルザス王国第四王女である。







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