幕間 イエタの新婚初夜

第529話 教会の日常

「はい。これでもう大丈夫ですよ。もう痛くないでしょう?」

「ホントダ…痛クナイ」


教会の祭壇の手前に厚手の布が引いてあり、そこにオークの子供が寝転がっていた。

年のころは5,6歳といったところだろうか。

そしてその奥で片膝をついているのがこの教会の司祭、イエタである。


彼女の掌がオークの子の大腿部にかざされていて、うっすらと光っていたその輝きがゆっくりと消えてゆく。

その下にあるオークの子の脚には傷一つついていない。


だがその脚を覆っていたはずのホース…紐などで上着に固定する初歩的なズボンである…がズタズタになっており、その内側にある太腿がつい先ほどまでどんな状態であったかを間接的に物語っていた。


「ありがとうございますイエタ様! ありがとうございます!」


隣で両膝をつき神に祈るように…というか実際に祈りを捧げていた母親が、イエタに幾度も幾度も礼を言う。


「感謝の祈りを捧げるのであれば我らが空の神リィウーが起こされた奇跡に。そして我らを引き合わせてくだすった太陽の女神エミュアに」

「はい……はいっ、ありがとうございます。ありがとうございます……っ!」


深々と頭を下げる母親は人間族だ。

恐ろしい速度で発展を遂げているため少々信じがたいことではあるが、この街ができてまだ一年半も経過していない。

つまりこの街に来て最速でオークと結婚した娘がいたとしても(なんというちょろさだろうか!)、この年齢のオークの子は絶対に生まれない。


となれば彼女は中森シヴリク・デキクルの集落…今の花のクラスク村の元住人なのだろう。

今はこの街…クラスク市で暮らしているようだ。


それはつまり彼女はかつてはオーク達の無知と無理解と他種族への差別意識の下、不衛生かつ奴隷同然の暮らしを強要されていた娘、ということでもある。

今の生活はこの地方の庶民としてはだいぶんに恵まれた部類になるのだろうけれど、それでも当時の彼女の苦痛はいかばかりだったろうか。

イエタはその母親の人生に幸あらんことを、と祈りを捧げた。


一方で治療を受けた子供は目の前の天使のように美しい女性をぼーっと見上げており、怪我はとっくに治ったというのにどこか放心したような状態だ。

彼女のあまりの美しさにすっかり見惚れてしまっているのである。


じいとイエタを眺める息子に無理矢理頭を下げさせて、些少の……イエタが起こした奇跡の程度を考えれば本当に些少であり、他の街の教会では少々嫌な顔をされていたかもしれない……寄付を納めて教会を後にする母親。

その横で母と手をつなぎながら息子がなにやら母に熱心に語り掛け、母親が息子の頭を小突いていた。



「バカだね! 聖女様はクラスク市長のお嫁さんだよ! あんたの出る幕はないの!!」



クラスク市の市長にして大オーク、クラスクがこの地方に於いて災厄と恐れられてきた赤竜イクスク・ヴェクヲクスを討伐したという熱狂の日から数日。

街は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。


街の北部で避難生活をしていた入植者達はリーパグの先導の下己の村の再建に乗り出している。

その間の食料と生活支援物資はワッフとサフィナが全面的に受け持って滞りなく配布していた。


クラスク市長はあの電撃パレードの後、公式にクラスク市市長たる自分が街の北部に開拓した村々を赤竜に襲われた事、そしてそれに対処すべく討伐軍を組織、自ら竜の巣穴に乗り込んで赤竜を退治したことを発表し、それと同時に街の者には自分がイエタと正式に婚姻することを報告した。


ただ街のオーク達はさもありなんと腕組みをして頷くのみで、特段大きな騒ぎにはなることはなかった。



それもそのはずである。

彼らはとうの昔に彼女がクラスクのものだと思い込んでいたのだ。



かつてイエタがこの街にやってきた当初、彼女はその天使のような美しさによって男性たちの注目の的だった。

流石に人間族の男どもが聖職者相手に手を出すようなことはなかったが、オーク族は別である。

信心が無きに等しい彼らは当たり前のようにイエタを配偶者候補の一人と認識したし、普通にそうした目的で声をかけてきた。


この街はそもそもオーク族の女性出生率の低下からくる種族問題解決のため建造された街であり、オーク達は暴力や略奪によらぬ手段であれば自由に女性に声をかけ、娶っていい事になっている。

ゆえに目も眩むほどの美貌の持ち主であるイエタがその標的となるのはむしろ自然な流れであった。


そしてミエと同じく他人を信じやすい性質たちであり、それでいてミエ以上に他人の建前や腹芸に疎いイエタは、オーク達の言葉にホイホイと騙されてそのまま幾度もお持ち帰りされそうになった。

実際一度街の往来で手を引かれ連れ去られようとしたことすらある。


だがある日を境にそうした動きはぴたりと止んだ。

オーク達が一切彼女に手を出してこなくなったのだ。

当時イエタはそれについてあまり深く考えておらず、話しかけてくれる方が減ったのは己の至らなさゆえだろうか、などと少し思い悩んだ程度だったのだが、ここ数日でようやくその理由をしることができた。



クラスクが手を回していたのである。

オーク達を呼び集め、『イエタは俺の女だから手を出すな』と宣言していたのだ。



確かにこの街はオーク達が配偶者を得るために造られた街だ。

一人のオークが複数の女性を娶る事も禁じられていない。

だがそれでもである女性を横から奪う行為は禁じられている。


しかもその相手が族長にして市長にして大オーククラスク当人というのだ。

オーク達は皆背筋をびしりと伸ばして彼の言葉を傾聴し、特にイエタを狙っていたオークどもは顔を真っ青にして震えあがったという。


とともあれそのクラスクの発言によってイエタの貞操は守られた。

無論当時のクラスクには実際手を出すつもりは毛頭なくて、街にやってきた貴重な奇跡の力を振るう娘を守ろうとしただけだったのだが。


(わたくしは……ずっとあの方に護られていたのですね……)


ほう、と熱い吐息が漏れる。

結局言葉通り彼のものになってしまったけれど、そのことに後悔は一切ない。

むしろ後になって考えてみれば己は無自覚なままずっとそれを望んでいたのだ。

それが彼の下に嫁いだ今はっかりとわかる。


「もし……イエタ様」

「はい、なんでしょうか、ラニル、ユファ」


イエタが振り向いた先には二人の女性がいた。

人間族の若い娘、ラニルとユファトゥーヴォである。


二人はいずれも修道服を纏っていた。

とすればイエタの下に務めるこの教会の修道女見習いと言ったところだろうか。


修道服に隠れて容姿以外はよくわからぬが、ラニルの方は亜麻色の巻き毛、ユファトゥーヴォの方はややウェーブのかかった金髪なのが見て取れる。

清貧のイメージが強い修道女の割に二人とも随分と血色がよく、またゆったりした服越しからもわかる程度には胸部がふくよかだけれど、これはこの街の豊かな生活環境ゆえだろうか。


「その……イエタ様にお伺いしたいことが…」

「はい。迷える者よ。もしその悩みがわたくしに導けるものならば」

「は、はい。えっと…イエタ様にならおわかりになるというか…」

「イエタ様でないとわからないというか…」

「? わたくしにしか、ですか?」


二人がもじもじしながら言い淀み、イエタが不思議そうに首を捻る。


「はい。ええっと…その、市長……クラスク様についてなのですが…」

「クラスク様? はい。なんでしょう。わたくしにわかることであれば」

「その、クラスク様のものって、やっぱり、御立派…なんでしょうか? きゃっ!」


ラニルがそう尋ねながら頬を染め、恥ずかしそうに両手を頬に当て身もだえる。

ユファトゥーヴォも同様に真っ赤になって、前で合わせた両手指を所在なさげにもじもじと蠢かせた。


「はい。クラスク様は大変ご立派な方でいらっしゃいます」

「きゃー! 御立派なんですか! きゃー!」

「……? ラニルさんも御存じですよね?」

「ええええええっ!? 知らない知らないっ! 知りませんっ!!」


ラニルが真っ赤になって慌ててかぶりを振った。


「もし知っていたとしてもイエタ様の前で告解だなんてそんな……!」

「告解……? クラスク様の人となりをどうして許しを請う必要が?」

「え?」

「はい?」


ぱちくり。



お互い相手に言っている事が理解できず、しばし目をしばたたかせる。



「ラニル。貴女の聞きたいこと、イエタ様に伝わってないわ」

「そうなの? 御立派って言うから私てっきり……」


修道女同士が耳打ちし合うにしては些か清廉さに欠ける内容ではあったが、ともあれ二人は小さく頷くと、両手を合わせて再びイエタに向き合った。


「あのー……ですね、私たちが聞きたかった事って言うのはですね…」


ひそひそ。

イエタに彼女たちの質問を再び、今度はちゃんと意味の分かるように告げる。



かああああああああああああああああ……っ。



イエタの顔が見る間に朱に染まってゆく。

ようやく彼女にも……修道女見習いたちの真意が理解できたのだ。






これを聖職者としての修行不足と片づけるのは、彼女には少々酷であろう。





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