第526話 長の帰還
その日、クラスク市は普段と変わらぬ雑踏の中にあった。
いつものように荷馬車が激しく行き交い、買物客や観光客たちの喧騒が街を支配している。
だがそれでもやはりかつてのこの街になかったものが、今この街には満ちていた。
緊張感である。
それはここ最近近隣の全ての街にも偏在しているものだった。
かの赤き竜……各地にその名を冠する多くの地名を残し、悪戯する子供達への警句として使われ、幾つもの慣用句として複数の種族が彼を暗喩する言い回しを用いている。
それほどの存在が休眠期より目覚め、再び暴れ出したというのである。
記録に残されているだけで八百年以上…千年は生きているとも言われている強大にして不敗の赤竜。
これまでどんな国もどんな英雄でもできたのは彼を追い払うまで。
決して倒すことはできなかった。
長きにわたりこの地方に君臨してきたまさに頂点と呼ぶに相応しき存在なのだ。
そんな存在がこの街を標的と定めたというのである。
それは緊張しない方がおかしいというものだろう。
ただだからといって隊商や旅人たちがこの街を露骨に避ける、といった風はなく、緊張の中でも相変わらず往来は激しいままだ。
それはこの街の立地に理由がある。
東には商業都市ツォモーペ、西には
それらの街道の交差路に造られたこの街はまさに交通の要衝であり、地形的に考えても安全面を考慮してもこの地方でここを通らぬ選択肢があり得ない。
なにせ他の地域では隊商を襲うオークどもが率先して馬車の護衛をしてくれる地域など他にありはしないからだ。
この街を露骨に避けるとなると山越えや森越えをしなければならないし。すおすると山賊や野盗、ゴブリンやコボルト、さらにはこの地方の山間部に生息する巨人族などから襲撃を受ける危険があり、それらのリスクとかかる費用を鑑みれば、多少命の危機があろうとこの街を通過せざるを得ないのである。
そもそもこの街だけが危険というわけでもない。
現に南にある隣町、モールツォが赤竜に襲撃を受けたという。
他にも幾つか既に襲われ焼かれ滅びた村や町が報告されている。
往来の少ない小村などであれば未だに近隣の街に気づかれることなく既に滅び去っていたとしてもおかしくはないのである。
そう、この地方の街である以上どの村や街が襲われ滅んでもおかしくはないのだ。
それなら別にクラスク市だけを避ける理由などないではないか。
そんな投げやりな……というか開き直りの精神が、今日もクラスク市を大いに賑わせていた。
言うなれば地震や台風などの災害の近くに住んでいるような感覚に近いだろうか。
襲われればひとたまりもないけれどこちらからは制御のしようがないからどうしようもない、というある種の諦観、それが赤竜に対するこの地方の人々の意識なのである。
隊商たちがいつもよりやや急ぎ足で街を通り過ぎる他はなんら変わる事のない雑踏。
それゆえ街の者達も忙しく働き続け、結果的に中町では特に大きな混乱は起きていなかった。
普段と変わらぬ日常、余分な事を考えられぬ多忙さが、人々から雑念を取り去っているというのもあるのだろう。
街の北部の避難者たちの生活はひと月前に比べて激変していたけれど、食事や寝床は常に安定されて提供されていたし、ゲヴィクルの優れた指導力(と武力)によって多少の問題は全て鎮められていた。
ゆえにこの街は、今日も緊張感に満ちたまま、けれど表面上はいつもと変わらぬ様子を保っていた。
そんな街に……ざわり、と小さな緊張が走った。
伝令らしき兵士が西門から走ってそのまま中町の門の向こうへと消えたのだ。
その後すぐ武装したオーク兵たちが中街の方から続々と表れて西門の方へと駆けてゆき、街の外へと消えてゆく。
そしてなぜかそのすぐ後にアーリンツ商会の馬車が次々とその後を追って、これまた西門の向こうへと消えた。
何が起こったのかと不安気味に顔を見交わす街の住人達。
もしや赤竜がやってきたのかと慌てて食事を掻きこむ旅人たち。
すると今度は居館から人間とオークの入り混じった衛兵たちが現れて…西門から居館までの街道の左右に次々と並んでゆく。
「下がれ! この通りは一時馬車の通行禁止だ!」
「徒歩の者達は我々の後ろを通れ!」
そして衛兵達が次々に通りから人を下げ、中央の通路を空けた。
否のあろうはずがない。
この街の最大の不文律、それはこの街の全ての土地が市長であるクラスクの私物であるということだ。
ゆえにクラスク配下の兵士が指示することは基本的に絶対であり、抗う事は許されない。
家も店もすべて彼の土地の上に建てられたものなのだから、逆らって建物を打ち壊されても文句は言えないのだ。
ただし市長であるクラスクは不正を嫌う。
権力があるからと部下が街の住人に横暴や無礼を働いたり私腹を肥やそうとすれば瞬く間に処断する。
それこそ斧の一振りで物理的に首を吹き飛ばすのだ。
それがわかっているから配下の者達も公正であろうとするし、そしてそれゆえにこそ街の住人も彼らの指示に大人しく従うのである。
ただ今日の兵士の指示はあまりに急だった。
事前の触れも一切ない。
ゆえにすわ何事かと住人達はざわついた。
今日はそういったイベントや行事は予定されていなかったはずだが。
……と、西門の向こうから何やら音が響いてきた。
太鼓の音だ。
続いてドラムのような連続した打音が響き、その後オークどもの勇壮な歌が聞こえてきた。
何かのパレードだろうか。
ちなみにこうしたパレードなどの先触れとしてトランペットが演奏されることが多いが、この世界に於いてはどうもそうではないようだ。
複数の音程を出す管楽器はまだこの世界では発達しておらず、一音のみ発するものが遠方への連絡や伝達に発達しているのみだからである。
さてそんな歌と打楽器のリズムと共に西門から何かが入ってきた。
馬車である。
幌馬車ではない。
かなり大きめの、だが野ざらしの荷馬車だ。
そしてその荷馬車の積み荷を見て街の者達はぎょっと目を剥いた。
金である。
金貨である。
山のように積まれた金貨の山だ。
それが馬車の荷台いっぱいに、それこそ山のように積まれている。
そしてその次に門をくぐってきた人物に…呆然としていた街の住人たちがどっと沸いた。
クラスクである。
彼の愛馬
そして彼は…無言のまま大きく片腕を突き上げた。
そしてその直後に西門をくぐってきたのは…赤竜の首。
大きな馬車に金貨の山、そしてその上に乗せられた驚くほどに大きく、そして凶悪そうな赤竜イクスク・ヴェクヲクスの頭部であった。
驚嘆。
静寂。
そして怒号のような大歓声。
その時、確かに街が揺れた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
「なんだあれ! なんだあれ!?」
「赤竜か!? 赤竜の頭
首!?」
「でけえええええええええええええええええええええええええええええ!!?」
「え? ちょっと待てよ、あれが乗せられてるってこたあ……」
住人たちがぎょっとして顔を見合わせる。
「うちの市長が……赤竜を討った……!!?」
驚愕の大歓声から、事態を理解してのさらなる大歓声に。
まるでお祭りのような大騒ぎである。
いや日常からの脱却こそが祭事の本義だというのであれば、それは間違いなく祭りであった。
まさに字の如く、お祭り騒ぎである。
街の住人や旅の者、そして通過したいが通行制限がかけられて足止めをされている隊商達が、その世にも珍しいパレードの目撃者だった。
彼らは己の立場をひととき忘れ、皆同じ存在…『観客』と化している。
そんなパレードの行列はさらに続いてゆく。
西門を次々と馬車がくぐって、その全てに山のような黄金……金貨が積まれていた。
あまりの圧倒的な物量に観衆たちが驚嘆し、ますます熱狂する。
そして…その黄金の山が積まれた馬車一台一台に……女性たちが同乗していた。
クラスク市長の親衛隊長、キャスバスィ。
宮廷魔導士のネカターエル。
教会の大司祭たるイエタ。
アーリンツ商会の社長アーリンツ。
そして……最後の馬車の荷台にちょこなんと座っているミエと、その隣を堂々と歩く街の守護獣コルキ。
観客たちは察した。
ああ、彼女達だ。
彼女たちとあの獣が市長とともに赤竜を退治したのだ。
竜殺しの英雄たちだ。
この街を災厄から救い、この地方の災禍を取り去ってくれた英雄たちを、今自分たちは目撃しているのだ……!
歓声はますます大きくなってゆく。
その声の大きさに釣られて次々と離れた通りや住宅から人が集まって来て…遂には、街路を埋め尽くさんばかりの人々の並が歓呼の声を上げ、街全体が興奮のるつぼと化した。
後の世の席史書にも記されている。
吟遊詩人たちが幾代も幾代も語り継いでいるその日、その場面。
赤竜討伐の……英雄たちの帰還である。
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