第520話 撤退戦の攻防

呻く。

吼える。

痛みのあまり悶え、叫ぶ。


赤竜イクスク・ヴェクヲクスはかつてない程の甚大なダメージを受け、財宝の上で暴れのたうち回った。


肌で感じる。

痛みの中、≪音響探査≫の力でを把握する。

羽を大きく広げた天翼族ユームズの娘が己を迂回し壁の方を大きく回りながらあのオークの方へと滑空している。


不味い。

それはとても不味い。


聖職者の治癒呪文は遠隔投射のものと接触のものがあるが、接触状態で使用される治癒呪文の方が遥かに効果が大きい。

彼らが纏っていた≪火炎免疫ウーサマーニュ・オラフ≫の呪文が彼女生来の魔力によるものだとしたら、接触状態で使用すれば致命傷だろうとあっという間に傷を塞いでしまうことだって可能なはずだ。


止めなければ。

止めなければ。

なんとしても止めなければ。

あのオークを目覚めさせるのだけは断固阻止しなければ……!


痛みに咆哮しながらなんとかそこまで考えて、だが理性より強い感情が己の内から湧いて止まらぬ。


逃げろ。

逃げろ。

こいつらから逃げろ。

逃げれば幾らでも挽回が効くではないか。


だがそれと同時に己を叱咤する本能の叫びが聞こえる。


駄目だ!

駄目だ!


今逃げ出せばこれまで集めてきた財宝はどうなる!

全部奴らに奪われてしまうぞ!

それだけは断じてならぬ!


理性と本能と恐怖の感情とが入り混じって判断力を奪う。

けれど……ギリギリのところで彼は正常な判断を下した。



逃げるべきだ。



竜の寿命は長い。

財宝を奪われることは業腹ではあるけれどまた数百年かけて取り戻せばよい。


今強い彼らもいずれ自分より先に衰える。

どうしても勝てないなら彼らが寿命で死んだあと子孫を殺して憂さを晴らせばよい。

ついでに縁のある者や街もまとめて滅ぼせばいい。


だが死んだらそれで終わりだ。

なら命の維持をなにより最優先すべきだ。




自らの財宝を貯めこんだ竜の巣穴。

通常そこで戦う限り竜は決して逃げ出さぬ。

どんなに理性的で賢い竜であっても、本能の欲求には抗えぬからだ。


かつてこの世界の歴史上、或いは伝説上に於いて強力で強大な竜が討伐されてきた理由もその抗えぬ本能に拠るところが大きい。


だが赤竜イクスク・ヴェクヲクスそこで撤退を選択した。

己の本能を理性で強引に抑え込んだ。


巣穴から逃走する竜も例がないではない。

だがそれができるのは通常若い竜だけの特権だ。

成長し強大になるにつれ竜種の傲慢と強欲は増し増してゆく。

千年近く生きた古老級が己の巣穴から撤退した例はこれまでに例がない。



ここであえてそれを選択できるこの赤竜は…だからやはり竜族の中でも傑出していたのかもしれない。



彼は痛みに呻きながら≪音響探査≫により周囲を探る。


例のオークは壁際で気を失っているようだ。

だが尾を失った今取って返して彼にとどめを刺している時間はない。

何より仲間にも内緒で狸寝入りをしている危険を捨てきれぬ。

彼に近づくのは危険だ。


天翼族ユームズの娘はそのオークの所に到着しそうである。

だが今の己に空を飛んでいる相手を捕まえる余力はない。


人間族の娘はよろめきながら歩き始めた。

目的は不明。

これまでの挙動から放置しても問題ないと判断。


突如姿を現した獣人族の娘はこちらと目線を合わせると慌てて逃げだした。

演技でも何でもなく明らかに戦意を持っていない。


エルフの娘と魔狼は壁際で身を起こし状況を確認中のようだ。

遠からずこちらへ向かってくるだろう。



問題は……魔導師。

ドワーフの娘だ。



娘は肩で息をしている。

こちらを拘束するだけの魔力は既にない。

そして今から唱える呪文はあのドワーフ娘には使えぬはず。



ゆえに全員と距離が空いている今この時、この瞬間なら確実に成功する逃走手段がある……!



「「我が命に従い展じて開けファイク・ブセラ・フヴァウェス・ユゥーク・エドヴェス 『召転式・壱イヴェブカムリi』!」」



呪文の詠唱は……二か所から同時に響いた。



(な……!?)


あり得ない。

そう思いつつも赤竜は既に起動中の呪文詠唱を止められぬ。



「「〈転移ルケビカー〉!!」」



赤き竜とドワーフの娘が同時に呪文を唱え……そして完全に同質の魔力同士が干渉し合い魔術起動に失敗、収束していた魔力が霧散した。



馬鹿なァキードメグ……ッ!?」



魔導師ネッカは緊張と疲労のあまり脂汗を流しながら片膝をつき荒く息を吐き、己の目論見が崩れた赤竜は呻くように叫んだ。


その驚愕はネッカの魔力や用いる呪文に対して為されたものではない。

彼女のに対してのものだった。


転移ルケビカー〉の呪文は術者を遠距離に転移する。

他次元界への移動こそできないが、同じ世界の内なら一千ニューロ(約1500km)遠方にさえ瞬時に移動可能だ。

ただし転移先に関する術者の正確なイメージが必要で、うろ覚えな記憶で〈転移〉すると失敗したリよく似た別の場所へ飛んでしまったりするため注意が必要である。

したがって主な使い道は知らぬ目的地へ向かう、ではなく目的地へたどり着き用事を果たした後で自宅や馴染み深い魔導学院、あるいは行きつけの冒険者ギルドなどへと帰還することだ。


この呪文は術者以外にある程度の荷物を運ぶことが可能であり、魔導学院はそれを利用した遠隔輸送サービスなども行っている(だいぶ値は張るが)。

この時その荷物に生物を指定することも可能だ。



簡単に言えば近くにいる仲間ごと転移できるのである。



これまでこの戦いに於いて、彼らは万全の準備を整えなお手こずっていた。

≪竜の吐息≫にこそ対抗できてはいても赤竜の全力攻撃を前に常に後手に回っていたし、〈流星雨ウカムク・クェイリウ〉、特定相手への集中攻撃、そして主力たるオークの死……〈転移ルケビカー〉を用いて撤退すべき場面は幾らでもあったはずなのだ。


にも関わらずその魔導師は一度たりとも撤退系の呪文を使用しなかった。

ゆえに赤竜はその魔導師の呪文レパートリーにあるのはせいぜい術者のみ単距離転移可能な〈次元扉クィーフ・ヴェオクヴィヲフ〉がせいぜいで、〈転移ルケビカー〉は覚えていないと踏んだのだ。


その〈転移ルケビカー〉を、こちらの〈転移ルケビカー〉への対抗呪文として使った。

これまで幾度となく自分たちのため用いる機会があったにも関わらず、このタイミングまで隠蔽し、こちらの呪文を完璧に打ち消して見せた。

それもこちらの詠唱を解析をするよりも早く詠唱を開始していた。


それはつまりこういうことだ。

彼らは赤竜が敗北しその巨額の財宝を前になお冷静に撤退の判断をすることまで予期し、それを防ぐべく対策を練っていたのである。


ぞくり、と赤竜の背筋が凍った。


自分達の身の危険を顧みずそれができるということは、つまり彼を、赤竜イクスク・ヴェクヲクスをなんとしてもこの場で倒し切らんという強靭な決意の表れに他ならぬ。

彼はかつてこれほどまでに追い詰められた覚えなどなかった。

あるはずもなかった。


だが……


「フフ、ハハハハハハ……!」


それでもなお、己の敗北はない。

赤竜はそう確信し、


あのオークは倒れたまま。

天翼族ユームズはその治療中。

人間族の娘はよろよろと歩いてはいるが何の脅威にもならぬ。

逃げ隠れるあの獣人も同様だ。


エルフと魔狼は必死にこちらに向かわんとしているが彼の羽が生み出す圧倒的な風圧に押され一向に近寄れず、ドワーフの魔導師は連続した呪文行使で極度に疲労し片膝をついたまま落ちくぼんだ瞳でこちらを睨むのみ。

そもそも対抗魔術でこちらの呪文を打ち消す事ができたとて、その娘の魔力量では己の魔術結界を貫けぬ。

ゆえに彼女には魔術的な逃走は防げてもに太刀打ちするすべがない。



赤竜はその大きな翼膜を打ち鳴らしゆっくりと舞い上がる。



あと一歩、本当にあと一歩のところまで追い詰めておきながら、クラスク達の前からその赤竜は飛び去ってゆく。


誰も邪魔できない。

誰も止められない。


ネッカが震える杖の先から光弾を放ったが、それは赤竜の身をわずかに逸れて遥か火山の山頂へと消えていった。


「フハ、フハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」


竜は笑う。

竜は嘲笑わらうう。


逃げられた。

これでやり直せる。

覚えておれ下等な人型生物フェインミューブども。


顔も、戦術も全て覚えた。

把握した。

我が財宝の銀貨一枚たりとも使う事は許さぬ。

許されぬ。


すべて、すべて取り戻す。

そしてきゃつらから全てを奪い尽くす。

それが済むまでせいぜい我が財宝を大事に抱えておるがよい。



傷だらけの身体でよろめきながら必死に羽を動かす。

竜の本能に必死に抗って、自らの財宝を置いて火山の山頂までなんとか辿り着き、煮えくり返るはらわたを必死に抑えながら火口を抜けて空を見た。


朝陽が昇っている。

いつの間にやら夜が明けていたらしい。


赤竜イクスク・ヴェクヲクスは完全に危地を脱したと確信し噴煙混じりの安堵の溜息を吐き……






そして、今度こそ完全に予想外の攻撃をその身に受けた。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る