第516話 覚悟の差
石壁で隔てられている間に何をしたのかは知らないが、そのオーク族は
赤竜としては完全に目論見が外れた格好である。
だが構わない。
そのはずだ。
あのエルフと狼はしばらく動けぬ。
そのようにあしらった。
ドワーフの娘はこちらが呪文を唱えぬ限り戦力としてカウントする必要はない。
ならば治癒魔術によって倒したはずの連中をすぐに復帰させてくる危険のある
大丈夫。
問題ない。
そのオークから感じる気配…その危険性がなぜか先刻より増大していたが、それでもなお倒しきれるだけの実力差があると赤竜は判断した。
その判断は確かに間違ってはいない。
その時点に於いては、だが。
実際には互いにのんびりと相手を観察しているわけではない。
赤竜が戦況をその目と音響探査によって探りつつ次の一手を考えているのはほんの一瞬。
そして彼の前でくわと目を見開いて赤竜を睨み上げているクラスクもまた、全身に神経を張り詰めその刹那で最善を模索していた。
その時……どん、と音がした。
少し強く壁に倒れ掛かる音である。
そしてそのまま壁との間に衣擦れの音がして……クラスクの背後、ミエがどさりと倒れた。
「「!!?」」
クラスクはぎょっとして一瞬彼女に視線を走らせる。
ミエが壁に背もたれたままゆっくりと足を滑らせ、そのまま床に崩れ落ちていた。
その表情は前髪に隠れて見えぬがその顔も手足も真っ青で、まるで死んでいるかのよう。
目の前に赤竜がいる状態での余所見は明らかに致命的なのだが、それでもクラスクの頭は一瞬真っ白になった。
なぜ?
どうして?
いつからそうだった?
そういえばさっきから様子がおかしかった気がする。
彼が倒れた時に駆け寄って来ていない。
普段の彼女では考えられぬことだ。
なぜこちらが目覚める…もとい生き返るまで壁際でずっと立ち竦むようにしていたのだ?
もしやして先ほどの竜の攻撃はそもそもブラフで、あの時に奴に何かされたのか?
彼女の身に一体何が?
何か、何かを…
「………………」
何かを、喋っている。
うわ言のように、ぶつぶつと。
ミエが、何かを呟いている。
「がんばれ、がんばれ、がんばれ……だんなさま、がんばれ、がんばれ……」
それを聞いた瞬間、クラスクの中の何かが爆発した。
胸の底の底から火山に相応しくマグマのような熱い熱い気持ちが噴き出してくる。
めきき、と斧を握りしめる腕が肥大化し、彼は雄叫びを挙げながら赤竜へと突進した。
「オ、オ、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
馬鹿め、と赤竜は内心でそのオークを侮蔑した。
気合でどうにかならぬからこその絶対なのだと。
そして彼を無力化すべく圧倒的な魔導の力を振るう。
「
〈
対象一体の身に帯びている魔術を解除した後、稲妻のようにその周囲の相手に次々に〈解呪〉を連鎖させてゆき、一度に大量の相手の魔術を一気に解除してしまうという、魔術頼りの護りをしている冒険者にはまさに致命的とも言える呪文だ。
赤竜イクスク・ヴェクヲクスは今日の戦いで不用意に呪文や≪竜の吐息≫を使ったことはない。
その全てには意味があり、そして意図があった。
これまで使った呪文と、ドワーフの娘が唱えてきた対抗魔術。
そこから赤竜は彼我の魔力の差を正確に汲み取っていたのだ。
そのドワーフの娘は
その実力では残念ながら〈
となればその小さき魔導師は〈
〈解呪〉には属性がないため上位の〈解呪〉系統だからと言って下位の〈解呪〉を上書きすることはできぬ。
ゆえにそれぞれが〈解呪〉の効果によって互いに相手を打ち消し合うことになる。
そしてそうなれば…彼我の魔力量の差から考えて赤竜側の魔術に負けの目はほぼ存在しない。
そして大量のバフを失えばいかなそのオークとてこちらに大打撃は与えられぬ。
返しの鉤爪で胴を裂き、そのまま咥えて咀嚼すればそれでケリだ。
彼はそう考えた。
「〈
だが赤竜の詠唱とほぼ同時にネッカが己の魔力を瞬時に、そして一気に高め、それに合わせて右手で胸元から巻物を素早く引き出すと、それを左腕に巻き付けるようにして羊皮紙を横に伸ばし目当ての呪文の前でぴたりと止める。
「
そして一言一句たがわぬ詠唱で、赤竜と同じ呪文を唱えてのける。
「な……っ!!」
〈
ネッカは確かに〈
けれど無理をして己の命を削りさえすれば……強引に唱えられる程度の実力には達しているのである。
「あ、あ、ああああああああああああっ!!」
ネッカのこめかみから血が
同時に喉奥が焼けるように痛んだネッカは、その口からごぼ、と血を吐き洩らすが、それでも詠唱と精神集中は切らさない。
ドワーフならではの忍耐力と耐久力によりその痛みに耐えきった彼女の呪文は、過たず赤竜の呪文を相殺し、打ち消した。
(こやつ……っ!?)
〈
だがその魔導師は知らぬ、使えぬと判断していたのだ。
なぜならもしそれが詠唱可能ならこれまでの彼女の呪文の使い方ががらりと変わってくるはずだからである。
彼女はこれまで彼が…赤竜が使ってきた呪文をもっと楽に打ち消すことができたはずなのだ。
ならばなぜそれを使わなかったのか。
これまで使ってこなかったのか。
答えは単純だ。
今この時の為に相違ない。
イエタが毎日唱え続けた〈
それに対抗するため、そして赤竜の判断ミスを誘うために、彼女はこれまでその呪文をひた隠しに隠し続けてきたのである。
「〈
戦いの前に打ち合わせていた通り、赤竜の呪文に合わせてイエタが素早く遠方に回復呪文を飛ばす。
これでキャスとコルキも目を覚ますはずだ。
彼女の放つ白い光線に横顔を照らされながら…クラスクは全力で吠え、駆け、そして大斧を振りかぶった。
……結果論から言えば、赤竜は呪文を唱えることなく己の四肢を用いて全力でクラスクを屠るべきだった。
幾つもの手痛い攻撃を喰らってはいただろうけれど、それなら彼は満身創痍の末遂には勝利を掴んでいたに違いない。
けれど彼はそうしなかった。
安全に、そして確実に勝利を拾おうとしてしまった。
ただ赤竜を討たんと全力で立ち向かったクラスクと。
他の者を無力化するついでにそのオークを弱体化させようとした赤竜イクスク・ヴェクヲクスと。
勝負の分かれ目は…二人の専心の差にあった。
即ち覚悟の差、である。
「オ、オ、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
吼える。
吼える。
クラスクが吼える。
雄叫びを上げ、己の全力を以てその斧を振るう。
攻撃ではなく魔術行使を選択してしまった赤竜は、その対処に一瞬遅れる。
退がらなければ。
後ろに退がらなければ。
けれど後脚に走った激痛が、彼の身を僅かに竦ませた。
クラスクほどの火力はない、けれどクラスクより遥かに多くの傷を与え続けたキャスの細剣。
その傷の蓄積が、遂に赤竜の動きを僅かに鈍らせる。
斧が、振り下ろされた。
全力の斧が。
その斧刃を、それでも前脚の甲で、鋼より遥かに硬い竜の鱗でしっかり受けた赤竜は…
激痛で、くぐもった叫びを上げた。
大きな音がした。
硬い、硬い何かが砕ける音だ。
クラスクの斧が…遂に、その竜の鱗にひびを入れ、その破片を竜の身体に突き刺してのけたのである。
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