第515話 運命の死は乗り越えた
ガタ、ガタと石壁が揺れる。
みし、みし、と石壁が軋む。
「向こうから壁を倒す気でふ! もうもたないでふ! こちらから壊しまふ!!」
ネッカが叫びつつ即呪文の詠唱に入る。
彼女の得意とする〈
ネッカは先刻赤竜にイエタの邪魔をさせぬよう、横幅と高さを限界近くまで広げた。
そうなると犠牲になるのは壁の厚みである。
つまり彼女らの前に広がっているその石の壁は薄いのだ。
広く、高く、だが薄い壁…となれば当然倒れやすくなる。
そこを看破された赤竜によって今ネッカが造り上げた壁がこちらに倒されようとしているのである。
この呪文の効果時間は『瞬時』……つまり生成された壁はそれ以降物理的な壁として残り続ける。
それを利用し移動の阻害や遮蔽など便利に使用できる呪文ではある一方、一度生成された壁はただの壁に過ぎず、味方が利用できると同様敵にも利用することができるのだ。
このあたりがこの呪文の運用の難しさと言えるだろう。
「…俺ハ死んデイタカ」
「はい、はい……! よくぞ、よくぞお戻りに……!」
目を開けたクラスクの視界に飛び込んできたのは、己の真上ではらはらと落涙するイエタの感極まった表情だった。
「よかった…ああ、よかった……!」
両手で顔を覆いしくしく、しくしくと泣き出してしまう。
蘇生と簡単に言うけれど、戻ってこないリスクも戻ってきても肉体に定着できないリスクもあった。
彼が目を覚ますまでずっと心臓を激しく打ち鳴らし緊張していたのである。
こんなところで泣き崩れるなど戦場にあるまじき行為だと言われても仕方ないけれど、それは初めて恋心を自覚した冒険者でもない娘にとって凡そ抗しがたい激情であった。
「………………………」
そんな彼女をじいと見上げているクラスク。
彼は少し顔を横に背け、一瞬逡巡していたが、やがて意を決したようにイエタを強く見つめ、その顎をそっと掴んだ。
「え……?」
どきん、と胸を高鳴らせる。
先ほどまでの心臓の脈動とはまた別の激しい動悸が彼女を襲った。
なにせ己の気持ちを自覚した直後である。
そんな彼から顎をくいとされて間近で視線と視線が合えば、それは胸も高鳴ろうというものだ。
けれど落ち着かなければ。
今は生死のかかった緊急事態である。
心を務めて静め平静に、平静に…
「悪イナ。他に方法が思イつかなかっタ」
己を必死に律しようと自戒の言葉を己に言い聞かせていたイエタは……けれど妙な事を呟いたクラスクによりその顔を引き寄せられ強引に唇を奪われた瞬間、あらゆる自制心が砕けて散った。
「ふぁ…………んっ!?」
好もしいと想っていた相手に唇を奪われた。
それで動転しないわけがない。
「ん…………んっ、んっ! んん~~~~~っ!」
さらにその相手は己の口腔内へと舌を突きこんできた。
想像だにしていなかった行為に目を白黒させたイエタは、彼に思う様口の中を蹂躙される。
「ん………ちゅっ、あ…………んっ、あっ」
確かにイエタはクラスクに懸想していた。
だがそれは精神的な想い…いわゆる思慕の情であった。
だがクラスクはそこに肉体的な愛欲……肉の悦びを教え込んだ。
戸惑いながらも不快には感じぬイエタは、やがて彼に合わせるようにしてたどたどしくその行為を倣ってゆく。
「ん……んちゅ…ちゅるっ。んあ……んっ、りゅるるっ、ちゅぱ……ぁ」
二人が唇を離した時……互いの口を引き結ぶ透明な唾液の糸橋が長く伸びて、やがて宙空で千切れクラスクの先刻まで穴の空いていた胸元へと垂れ落ちる。
「イエタ。お前俺の女になレ。今ダけデイイ」
「ふぁっ!?」
めくるめく快楽…彼女自体は初めての体験の為そういった表現はできなかったが…を慕っている相手から痛烈に浴びせかけられた直後にその台詞である。
くわんくわんと鉄の棒で脳天でも殴られたかのように眩暈を覚えた彼女は……けれど、地べたにへたり込んだまま、ゆっくりと己の胸に手を当てて、高鳴る胸、紅潮した頬、そして潤んだ瞳でこう応えた。
「…ふぁい」
それを聞いたクラスクは片腕を視点に素早くその場で回転し中腰で立ち上がり、左手を真横に伸ばす。
「ミエッ!!!」
ぐらり、とよろめいたミエが、壁から背を離し、少し前のめりになりながら己が抱いていた斧を離した。
狙い過たず彼の手の内へと戻るクラスクの愛斧。
それと同時に彼らの目の前にそびえていた石壁がみしみしと音を立てゆっくりと倒れ込んでく来た。
「砕きまふ! 砂礫に注意でふっ!」
ネッカが素早く呪文を詠唱しその杖で倒れ来る石壁を突いた。
「〈
一瞬重量に負けて彼女の杖が折れるかと思われたが、その杖先から走った光が一瞬で石壁を覆わんばかりに広がり、その直後にみるみると壁じゅうにヒビが入りぱきんと石壁が砕けて散った。
石や鉄のような物理的な壁だろうと、炎の壁のような実態を持たぬ壁だろうと、力場で生成されたエネルギー体の壁だろうと、それが『壁』という特性を有する限り問答無用で破砕する〈
要は硬さや威力ではなく壁という概念を破壊する呪文なのだ。
ばらばらと砂や小石が彼らに降りかかる。
けれど問題はそこではない。
その舞い散る砂礫を貫いて、石壁を向こう側から押していた相手……すなわち赤竜イクスク・ヴェクヲクスの前脚が、イエタ目掛けて鋭く鋭く放たれていた。
彼は当然ながらその石壁を倒した程度ではこの相手を倒せぬことは承知していた。
だがどうせ邪魔になる壁である。
壁を破壊するなら相手にさせてその隙にあのオークにとどめを刺してしまおうと、向こうの術師……即ちネッカが壁を粉砕することを見越して壁の向こうで全力攻撃の準備をしていたのだ。
とどめを刺す。
容赦はせぬ。
あの
仮に蘇生の呪文などであのオークが蘇ったとしても、せいぜいまた盾になる程度の事しかできぬはず。
そうすれば今度こそ勝利は動かぬ。
そのはずだ。
そのはずだった。
そのはずだったのに。
激しい金属音。
クラスクの手にした斧が手首の返しだけで上を向き、その竜の巨大な爪を跳ね上げた。
彼の手練ではない。
明らかに斧に動かされた動きである。
「夫婦デナくトも愛人デイイのカ……割とざっくりシタ定義ダナお前」
愛斧を片手にその使い心地を確かめつつ、クラスクは素早く視線を走らせる。
先ほどまで石壁の向こう側だった火山の火口の向こう半分。
その右の壁と左の壁面に、それぞれキャスとコルキが倒れている。
二人とも動けぬだけで息はあるようで、彼は内心ほっと息をつく。
それが己がその竜にかけ続けた圧の結果である事を、彼は本能的に理解していた。
竜の鱗に防がれ続けながらもずっと全力で斧を叩きつけてきた。
鱗の上から衝撃のみでダメージを与え続けてきた。
それが結果として『倒れたエルフや獣なんぞより、あのオークを倒す方が先だ』という、いわば強迫観念をその竜に与えてのけていたのである。
クラスクは片手の斧をゆっくりと両手で構え直す。
「サテ、これデ俺の斧ハ誰デも守れル。全力で貴様を殺せル」
そしてその赤竜に向けて獰猛な笑みを浮かべながらこう言い放った。
「覚悟シロ大トカゲ。運命の死は乗り越えタ。ここからがコッチノ全力ダ」
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